妄言の根拠をブッタ斬る! 《跡地》

サヨクが妄言の根拠としていると思しきサイトの記述を破壊します。

2012年12月13日 Transnational History
■[資料][慰安婦]日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213

2014年11月06日 慰安婦の証言が嘘である可能性の提示として、キーセン学校の授業内容を追加。

 2014.10.22

 遂に朝日新聞迄が吉田清治の著書 「私の戦争犯罪、朝鮮人強制連行」 を嘘だと認めたので、 「 こ れでようやくバカサヨクの 『 従軍慰安婦問題は史実 』 連呼から解放されるのか 」 と心中、 「 ちょっと 寂しくなるなぁ 」 って思っていたら、左に在らず、「 騙されて慰安所に連れて来られて、逃げられない環 境下で売春を強制された慰安婦は可哀想な被害者 」 と来たもんだ。

 いやいやいや、逃げられない環境下で強要した売春になんで高額の対価が設定されているんだよ、 という至極あたりまえのツッコミは馬耳東風。

 今日もサヨクは、従軍慰安婦問題の新解釈を流布するのに必死です。

 んじゃあ、というワケで。

 その、「 騙されて慰安所に連れて来られて、逃げられない環境下で売春を強制された慰安婦 」 って ソースを袈裟斬りにしちゃいましょう。 

 予備知識なしに読んだら 「 慰安婦って可哀想。 やっぱり、謝罪して彼女達の汚名挽回と今からでも 幸せに成る為に賠償金としてお金を払ってあげなくっちゃ 」 と思ってしまうこと請け負いの

   2012年12月13日 Transnational History
   ■[資料][慰安婦]日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態
   http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213

 です。

 サクっと行く前に。 ひとつだけ。

 これら、兵士が見聞きした悲惨で可哀想な慰安所と慰安婦の実態の殆どは、軍慰安婦問題の公式 webサイト 『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」 ― 忘却への抵抗・未来の責任』に採用されていませ ん。 ざっと、見直した限りでは、

   入門編 − 3 女性たちはどのようにして集められた?
   http://fightforjustice.info/?page_id=2352
   > さて、局部の内診となると、ますます恥ずかしがって、なかなかクーツ?子〔ズボン〕を
   > ぬがない。
   > 通訳と 〔治安〕維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせる。
   > 寝台に仰臥位(ぎょうがい)て触診すると、夢中になって手を掻く。
   > 見ると泣いている。 部屋を出てからもしばらく泣いていたそうである。
   >
   > 次の姑娘(クーニャン)も同様でこっちも泣きたいくらいである。
   > みんなもこんな恥ずかしいことは初めての体験であろうし、
   > なにしろ目的が目的なのだから、屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。
   > 保長や維持会長たちから、村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣くきたのであろうか?
   >
   > なかには、お金を儲けることができると言われ、応募したものもいるかも知れないが、
   > 戦に敗れると惨めなものである。 検診している自分も楽しくてやっているのではない。
   > こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙(じゅうりん)しているという意識が、
   > 念頭から離れない。
   > ( 溝部一人編 『独山二』 私家版・山口県 )


   Q&A 1 − 1 朝鮮で、女性を「慰安婦」にするために強制連行したことはなかった?
   http://fightforjustice.info/?page_id=2650
   > 私は朝鮮人の慰安婦に日本語を三回くらい教えましたが、
   > 彼女たちは私が兵隊ではないのを知っていたので、本当のことを話してくれました。
   > 「 通訳さん、実は私たちは国を出るとき、
   >  シンガポールの食堂でウェイトレスをやれと言われました。
   >  そのときにもらった百円は、家族にやって出てきました。
   >  そして、シンガポールに着いたら、慰安婦になれと言われたのです。」
   > 彼女たちは私に取りすがるように言いました。
   > しかし、私は一介の通訳として軍の権力に反することは何もできません。
   > 彼女たちが気の毒で、なにもそんな嘘までついて連れてこなくてもいいのにと思いました。
   > ( 青山学院大学プロジェクト95編 『青山学院と出陣学徒』 私家版、東京都 )

   > 私は少し横道に逸れた質問であったが、「どんな仕事をするのか知っているのか」 と
   > 聞いてみたところ、ほとんどが、
   > 「兵隊さんを慰問するため」 「私は歌が上手だから兵隊さんに喜んでもらえる」
   > 云々と答え、兵隊に抱かれるのだということをはっきり認識している女は少なかった。
   > …… 女たちは、慰安所の主人となる者か、あるいは女衒から貰った前借金を親に渡し、
   > また、親が直接受取り、家族承知の上で渡満してきたもので、正当な契約書があったか、
   > 否かは定かではなかったが、誰もが例外なく、
   > 「早く前借金を返し、お金を貯めて親兄弟に送金するのだ」
   > と語ってくれた。
   > ( 畑中好治 『遥かなる山河茫々と』 私家版、京都市 )


   Q&A 1 − 2 女性を慰安婦にするため、軍・官憲が暴行・脅迫により連行したことはなかった?
   http://fightforjustice.info/?page_id=2653
   > M参謀は……アンボンに東西南北四つのクラブ(慰安所)を設け
   > 約100名の慰安婦を現地調達する案を出された。
   > その案とは、マレー語で、「日本軍将兵と姦を通じたるものは厳罰に処する」 という布告を
   > 各町村に張り出させ、密告を奨励し、その情報に基づいて現住民警察官を使って
   > 日本将兵とよい仲になっているものを探し出し、決められた建物に収容する。
   > その中から美人で病気のないものを慰安婦としてそれぞれのクラブで働かせるという
   > 計画で、我々の様に現住民婦女子と恋仲になっている者には大恐慌で、
   > この慰安婦狩りの間は夜歩きも出来なかった。
   > 日本の兵隊さんとチンタ(恋人)になるのは彼等も喜ぶが、
   > 不特定多数の兵隊さんと、強制収容された処で、いくら金や物がもらえるからと言って
   > 男をとらされるのは喜ぶ筈がない。
   > クラブで泣き叫ぶインドネシヤの若い女性の声を私も何度か聞いて暗い気持になったものだ。
   > ( 海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会編 『滄溟』 同会 )

 僅かにコレだけ。

 その内容ゆえに、予備知識のない人 ( というか風俗通いの経験が無い童貞クン ) が読めば、一発 で日本軍を悪者に仕立てられる可能性を持ったこれ等の 「 兵士は聞いた! 」 を自他共に認める従 軍慰安婦問題の専門家が採用しない理由は何なのでしょうか?

 もちろん、公式webサイト 『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」 ― 忘却への抵抗・未来の責任』 は未 公開のページが幾つも残されていますから、今後に公開されるページで、これ等の 「 兵士は聞い た! 」 が読める様になる可能性はあります。
 しかし、それでも、追加ページ以外を一気に公開した2013年08月01日から実に丸一年と2ヶ月近くが 経過した現在に於いて、これ等の 「 兵士は聞いた! 」 は、公式webサイト 『Fight for Justice 日本軍 「慰安婦」 ― 忘却への抵抗・未来の責任』 に不採用のままです。
 自他共に認める従軍慰安婦問題の専門家にとってこれ等の 「 兵士は聞いた! 」 が事実だと認め 難い内容なのか、単に後回しにされているだけなのか分かりませんが、もし、単に後回しにしているの でないとしたら、それはもう、本物の専門家の観察眼に耐えられない内容だった、というオチになるでし ょう。

 この点を頭の隅に置いた上で、内容を検証してみましょう。


 慰安婦は 「自発的に応募した」「自由意志だった」「強制ではない」、
 さらには軍や警察は 「違法な業者を厳しく取り締まっていた」 等々、
 慰安婦問題を否定する人々によって熱心に宣伝されているデマがありますが、
 そうした人々が無視している資料に、元日本軍将兵・軍属が手記や証言のなかで
 慰安婦に言及している口述資料というものがいくつも存在します。

 それら口述資料*1を用いて個々の事例を考察していきます。

 以下、 引用文の中略には「……」を入れています。強調、改行は引用者によります。

 最初に紹介する証言は、秦郁彦氏が著書 『慰安婦と戦場の性』 のなかで
 「信頼性が高いと判断してえらんだ」 もののひとつです。

   > ■第五十九師団(済南駐屯)の伍長・榎本正代の証言
   > 場所:中国中部の山東省
   >
   >  一九四一年のある日、国防婦人会による 〈大陸慰問団〉 という日本人女性二百人が
   >  やってきた …… ( 慰問品を届け ) カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどを
   >  して帰るのだといわれたが …… 皇軍相手の売春婦にさせられた。
   >  “ 目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ ”
   >  が彼女らのよくこぼすグチであった。
   >  将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら
   >  慰安婦にさせられたと泣く女性がいた。
   >
   > ( 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.382 )

 いやあ、キーワード「榎本正代」「中帰連」でgoogle先生に訊いちゃうとですね。

   榎 本 正 代 証 言 ― 娘を殺害、油で揚げて副食に ―
   http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/yokuryu-sya-syogen/enomoto-masayo.html
   > 次は榎本 正代の「帰国後証言」を見てみます。
   > 小見出しにあるとおり、連れていた中国人の娘を慰みものにした後、
   > 副食が不足しているからといって殺害、肉を切り取って油で揚げるやら、
   > 焼いたりするやらして、1個中隊全員がお相伴にあずかるという日本兵による残酷物語です。
   > この話は抑留者の証言の特徴、それも際立った特徴を知るうえで格好のものと思いますし、
   > 何より頭の体操にうってつけと思います。 ぜひ、お考えください。
   >
   >
   > 1.新 井(榎本) 正 代 証 言
   >
   > ここに取り上げる話は、ときをおいて2度証言されました。
   > はじめは1971〜2年ころに書かれた 『 天皇の軍隊 』 (朝日文庫ほか) のなかで、
   > 2度目は 『 私たちは中国でなにをしたか 』 (三一書房ほか、1987年) のなかでです。
   > 前者は本多勝一・朝日新聞記者らの取材をうけて、後者は 「新井 正代」 の名で寄せた
   > 「投稿」 がそれです。 前者の『天皇の軍隊』の方がより詳細に記されています。
   > 「榎本正代」 と 「新井正代」 は同一人物です。
   > 中国抑留を経験していない戦友の間で、榎本姓は知られていませんでした。
   > このことが分かるまでに時間がかかったため、調査に大変手間どってしまいました。
   > それはともかくとして、話をすすめましょう。
   >
   >
   > (1) 人肉食事件の概要
   >
   > 人肉食といういまわしい出来事を、『 私たちは中国でなにをしたか 』 から取り出しますが、
   > 後の説明の便宜上、(その1) と (その2) の2つに分けて抜き出すことにします。
   > まず、作戦中の中隊、独歩第111大隊第2中隊がおかれた状況の説明、(その1)です。
   >
   > 〈 1945年4月、山東省東昌県において、私は指揮班長として中隊とともに作戦に出ていた。
   >  本部からの食料配給がとだえている上に、前に通過した各部隊が食糧になる物は
   >  みな略奪し尽くして、部落には穀物、野菜、豚、鶏など何一つ見つからず、兵隊たちは
   >  疲れはて腹をすかし、気持が荒れていた。 〉
   >
   > つづいて、犯行におよんだ経過と犯行の状況説明、(その2) です。
   >
   > 〈 私は2日前から18歳ぐらいの中国の娘を連行していた。
   >  自分の慰みものにしていたが、いずれは何とか処置しなければならぬことは分かっていた。
   >  このまま殺してはつまらない。 私は一つの考えを思いつき、それを実行した。
   >  私は娘を裸にして強姦し、その後、庖丁で刺し殺し、手早く肉を全部切り取った。
   >  それを動物の肉のように見せかけて盛り上げ、指揮班を通じて全員に配布したのである。
   >  兵隊たちは人間の肉とも知らずに、久しぶりの肉の配給を喜び、携行していた油で
   >  各小隊ごとに、揚げたり焼いたりして食べた。 〉
   >
   > この記述を額面通りに受け取るには、多くの疑問がでてくることでしょうが、
   > 先に進むことにします。
   >
   >
   > (2) 野田 正彰教授の診たて
   >
   > この話を大宅壮一ノンフィクション賞をとり、精神医学を専門とする
   > 野田 正彰 ・関西学院大学教授は何の疑問を持たずに信じきってしまいました。
   > とすると、学生はもちろん、ほとんどの大人も信じてしまうということなのでしょう。
   > この残虐事件を引き合いにして、野田教授が下した 「診断」 がありますので、
   > それをご覧にいれます。
   > 1997(平成9)年7月3日付の 「毎日新聞」 に掲載されたものがそれです(左写真)。
   >
   > 〈 「淳君殺害事件」を考える 〉 の表題のもと、2人の論者が論考を寄せています。
   > 「淳君殺害事件」 というのは、切断された小学生の頭部が校門のまえに放置され、
   > しかも 「さあゲームの始まりです」 とした 「酒鬼薔薇聖斗」 名の声明文が添えられていた
   > 猟奇的な出来事でした。
   > しかも犯人はこの小学校の生徒(14歳)とあって大騒ぎとなり、
   > ある週刊誌がこの生徒の顔写真を公表したことの是非、また少年の保釈の是非をめぐって
   > 長い間、議論がかわされました。
   > 2人の論者の1人、野田 正彰教授が
   > 「抑圧された暴力への視線 内なる残虐見すえる努力を」
   > という見出しのもと、新井(=榎本)証言を引用しながら、
   > この「 淳君殺害事件」 がなぜ起こったのか、その原因を解き明かそうと話をすすめています。
   > 野田教授は次のように書きます。
   >
   > 〈 私は1月より雑誌 『 世 界 』 に 『 戦争と罪責 』 を連載しており、
   >  毎日、日本兵隊の戦争犯罪の記録と付き合っている。
   >  例えば、第59師団第111大隊のある下士官は、次のような罪行を書きとめている 〉
   >
   > と前置きして、前述の書籍 『 私たちは中国でなにをしたか』 から新井証言 (その2) を
   > そっくり引用します。
   >
   > そして、以下の結論を導き出しています。
   >
   > 〈 信じがたい残酷さだ。
   >  だが、私たちはつい昨日のこれらの暴力について直視してこなかった。
   >  もし直視していれば、巷でしばしば聞く罵声を嫌悪し、子供たちが暴力と破壊と死にあふれる
   >  マンガやテレビゲームに熱中することに敏感になっていたのではないか。
   >  替わりに、友人との会話や男女の交際を豊かにするように、子供たちの環境を
   >  整えてきたであろうに、そう務めはしなかった。 〉
   >
   > とし、新井証言に見るような日本軍の残虐行為を直視してこなかったことが、
   > 「サカキバラ」 事件を引き起こす原因になったのだと指摘する診断になっています。
   > なお、証言 (その1) は人肉食事件にかかわった中隊の背景がわかるように、
   > 同書から私が引用したものです。
   > 読者はおそらく、淳君の殺害と日本兵の残虐との因果関係は忘れても、
   > 日本軍の 「信じがたい残酷さ」 だけは脳裏に刻みつけたことでしょう。
   > 雑誌 「世界」 に連載された 「戦争と罪責」 は、同名の単行本となりました。
   > この書は6人の中国戦犯の証言が主体で、その戦犯の一人、小島 隆男中尉 に
   > 最も多くのページが割かれています。
   > そして、中国人強制連行の話などを聞き出し、信じきっていますし、
   > 疑問を持ったようには思えない話の展開になっています。
   > また、野田教授はこの“人肉食事件”にこそ直接言及しませんでしたが、
   > 「戦争と罪責」 という題で NHKテレビに出演、あれこれと語っています(左写真)。
   > また、「戦争と罪責」 は朝日の社説 (1998年8月16日付け) でも取り上げられました。
   > 小島中尉の証言については、 ⇒ なぜ「罪の意識」が希薄なのか、および ⇒ 労 工 狩 り 
   > をお読みください。
   >
   >
   > 2.榎本正代証言 ― 『天皇の軍隊』
   >
   > つづいて、『天皇の軍隊』 にでてくる榎本(=新井)正代証言です。
   > 朝日文庫本をお持ちのかたは371ページ以降をご覧ください。
   > 第59師団に所属する第111大隊第2中隊 (伊藤誠中隊長・少尉) は、
   > 1945(昭和20)年5月、とある山村に宿営します。
   > 少し長くなりますが、以下に引用してみましょう。
   > 『天皇の軍隊』 はこんな調子の話であふれかえった本と思って間違いありません。
   > また、榎本正代はこの他の出来事にも証言者として登場します。
   > 登場する証言のどれもこれも、この話に負けず劣らずの残虐ぶりで、事実なら
   > いかなる日本軍の言い訳も成り立ちえないと思います。
   > ですから、一般の読者に与えた衝撃はすさまじく、日本軍の昭和の歴史 (前半) を
   > 「決定的一冊」 になったことに疑いありません。
   >
   > 〈 第1日は前の部落から略奪してきた食糧で何とかまにあわせたが、2日で食いつくした。
   >  手にはいるものといえば、村の畑にわずかに残る野菜ぐらいのものである。
   >  主食類も秋の収穫時期にほど遠いこの春らんまんの季節だ。
   >  とりわけブタ・ロバ・ニワトリなどの動物性蛋白源が全く見当たらないのがこたえる。
   >  3日目の夕食の用意にとりかからなければならない時刻だった。
   >  指揮班長の榎本正代曹長にも着想がうかばない。
   >  「 今日はもう肉類が全然なくなっちゃたんでどうするかなあ 」
   >  と、中隊長の伊藤誠少尉(愛知県出身)に話しかけるともなく独り言を言った。
   >  「 そうだなあ、オイ、ひとつやっちゃうか 」
   >  と伊藤少尉が榎本曹長の顔をのぞき込むように言った。
   >  小柄だが目のクリッとした賢そうな青年だった。
   >  榎本曹長からみれば4、5歳若く、23、4歳の上官である。
   >  榎本曹長には 「 やっちゃう 」 の意味が、その瞬間よくのみこめなかった。
   >  「 仕方がない。 人間をやるんだ 」
   >  と少尉が曹長の表情に応えるようにつけ足した。
   >  中隊長はそう言い残して、宿舎として使っていた農家から出て行った。
   >  やっと榎本曹長にも、これから何事が起こるかよくわかった。
   >  ほどなく中隊長が戻ってきた。
   >  彼が連れてきたのは、年のころ17、8歳と見える中国人の娘だ。 この部落の農民だった。
   >  皇軍は3日前この部落に侵入したときに、部落に残っていた者をことごとく捕えた。
   >  男たちは 「苦力」 として皇軍の使役に使われようとしていた。
   >  女たちは 「尋問」 の名目で捕えておくのだが、尋問をされる風にも見えなかった。
   >  若い女性が十余人はいたはずである。 その1人がいま少尉に連れられて来たのだ。
   >  少尉が少女のうしろに回り どんと榎本曹長の方に突き飛ばすのと、
   >  曹長の短剣が少女の胸を刺すのと、ほとんど同時だった。
   >  さすが 「人殺しの名人」 を自認しているだけに、彼の腕は確かだ。
   >  短剣は正確に少女の心臓を突いており、彼女は悲鳴もあげずに、いま2人の足元に
   >  息絶えていた。
   >  武器に鉄砲やピストルを使わなかったのは、銃声で村人や他の皇軍兵士たちに
   >  知られてはまずいという判断からだった。
   >  2人は目配せをし合っただけで、無言のまま、たちまちにして少女を 「料理」 してしまった。
   >  最も短時間に 「処理」 できる部分として、2人は少女の太股の肉のみを切りとって、
   >  その場でスライスして油でいためてしまった。
   >  1個中隊分といっても、最前線にあっては70人ほどだったのだが、人肉の分量は
   >  意外に多く、各人にふた切れは渡りそうに思えた。
   >  中隊長は別の部屋に5個小隊の炊事班員を呼び集めていった ――
   >  「 今日は特別に大隊本部から肉の配給があったので各小隊に配ることにした 」 〉
   >
   > さて、どうでしょう。
   > 毎日新聞に載った証言と 『天皇の軍隊』 の証言とは違いすぎるとは思いませんか。
   > 同一人物の 「実 体 験」 にしては、「記憶違い」 とは性質が異なる、言いかえれば
   > 間違うはずもないことに間違いがでているのではありませんか。
   > 例えば、前者では榎本は中国人の娘を慰みものとして2日前から連れ歩いていたはずです。
   > なのに後者では副食がないからといって、中隊長が1人で部落から連れてきた娘だ
   > というのです。
   > また、前者では伊藤中隊長の姿はどこにも見当たらず、榎本曹長1人で強姦のうえ
   > 庖丁で殺害、肉を切りとって配給しています。 それに油で料理したのは兵隊たちでした。
   > 後者になると、殺害は中隊長と2人、しかも凶器は短剣となります。
   > そして肉をスライスし、油でいためるのも2人でした。
   > どうでしょう。 記憶違いという次元のものでないことは軍隊の経験がなくても判断がつきます。
   > 軍隊について、多少の経験、知識があれば 「なにを馬鹿な」 と苦笑いすることでしょう。
   > まず、中隊長が兵隊の副食を作る、この1点を知っただけでも
   > この 「証言」、だれも信じやしません。
   >
   >
   > 3.みなさん、正気なのでしょうか
   >
   > 中国戦犯の 「証言」 は異様な残虐行為が多いのです。
   > 榎本はとくにそうなのですが、「猟奇的な証言」 が目立ちます。
   > 1つ2つ、例をあげましょう。
   > 満期除隊になる兵士への土産話にと農夫を捕まえ、
   > 「 野菜庖丁で胸から腹まで絶ち割って見せた 」
   > というのです。
   > しかも、この 「勇猛」 ぶりが買われてか、昇進が早かったというのですから
   > なんとも言いようがありません。( 『天皇の軍隊』 63ページ )
   > また、こうも証言します。
   > 榎本は古年兵の命令で娘を裸にして逆さ吊りにし、
   > 納屋にあったスイカを初年兵にぶつけさせる。
   > 今度はボロ布にガソリンをかけると娘の局部にむりやり押し込んでマッチで点火する。
   > あとはやめときましょう。( 同62ページ )
   > これらの話、信じますか。 これも少し考えれば疑問点を指摘できるはずです。
   > 念のために記しておきます。
   > 榎本(新井)と同じ部隊にいた他の将兵とずいぶん連絡をとりましたが、
   > このような話を真面目に受け取る人はいませんでした。
   > そのうちの1人は、
   > 「 娘を食ったなどとんでもない。・・ だれも 『天皇の軍隊』 など信じていない。
   >  自分たちが一番よく知っていることだ 」
   > と青森県の弘前から電話をしてきました。
   > なぜこんな話がまかり通るのでしょう。
   > しかも、書店で堂々と売られているばかりか、学校教育の場に持ち込まれてさえする。
   > ノンフィクション賞をとった精神科医まで信じるばかりか説教の材料にまでする。
   > 由々しき問題とは思いませんか。
   > こうなったのも、話は簡単なことなのかもしれません。
   > 要するに、『天皇の軍隊』 の記述について、だれも調査・検証し、異議を唱えなかったから
   > でしょう。
   > 調べなければ、この本が中国抑留者だけの証言で成立していることに
   > 気がつくはずもありません。
   > そのうちに、NHKテレビ、朝日新聞 をはじめとする報道機関が抑留者を取材源にした
   > 「日本軍叩き」 の報道が多くなりました。 大勢は決まったのです。
   > でも忘れないでください。
   > 『天皇の軍隊』 は中国抑留者の 「証言」 だけによる 「59師団史」 だということを。
   >
   > ― 2005年 4月 4日より掲載 ―

 まさに、

   2012年12月13日 Transnational History
   ■[資料][慰安婦]日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態
   http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213

 を鵜呑みにする人達に伝えたい言葉ですね。

   > 記述について、だれも調査・検証し、異議を唱えなかった
   > 記述について、だれも調査・検証し、異議を唱えなかった
   > 記述について、だれも調査・検証し、異議を唱えなかった

 どのような記録であっても、裏付けが無ければ、それは 「 誰某が 『○○だ』 と言っていた 」 というだ けの意味しか持ちません。

 さらに、もう一つ、静かな水面に小石を投じておきましょうか。

   『天皇の軍隊』の証言者たち ― 隠された取材源 ―
   http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/tenno-no-guntai/tenno-guntai-index.html
   > 1.鬼畜以下の日本兵
   >
   > 『天皇の軍隊』 は日本軍が中国でいかに暴虐のかぎりをつくしたか、
   > 山東省に駐留した第59師団 (藤田茂・師団長)所属の将兵の 「証言」 によって
   > 明らかにされました。
   > およそ、軍の規律などないも同然、上から下までが目茶苦茶の連続でした。
   > 女と見れば、まず強姦、そして異様な方法をもっての殺害。
   > 男と見れば拷問、そして気に入らないからと殺害。
   > しかも、菜切り庖丁で胸から腹まで断ち割るという凄まじさ。
   > そのうえに、この蛮勇が買われて昇進が早かったというのですからお話にもなりません。
   > また、農民を根こそぎ抹殺するために、運河にコレラ菌を撒いて決壊させ、
   > 何万人、何十万人という犠牲者を出したというのですから、いかなる弁明も
   > 成り立つわけがないでしょう。
   > 師団といえば、シナ事変の前まで、内地における編成上の最高単位であったことからも
   > 分かるように、独立して戦略単位の兵を動かせる規模を有していました。
   > ですから、第59師団がこのような滅茶苦茶な部隊なら、他の師団も大同小異と考えて
   > 当然ですし、日本軍全体が無法というか、どうしようもない悪の集団ととるのが、
   > まあ当たり前というものでしょう。
   > 日本はアジアの解放に貢献しただとか、現地で電気を引き、道路の整備をするなど
   > 住民の生活向上に役立ったなどという話は、この本を一読した人なら誰も信じないでしょうし、
   > いかなる日本擁護論も 「なにを、たわ言をいっているのか」 と思ったことでしょう。
   > この本と 『中国の旅』 を合わせて読んだ人は、
   > 日本という国家に嫌悪感を持って当然でしょうし、罪の意識を合わせ持ったことでしょう。
   > また、日本の国家行動は 「侵略と残虐行為」 の連続であったなどという主張にも
   > 深くうなずいたことでしょう。 もう40年も前に出版された本の話です。
   > そして、この本を読んだ人やこの本で教えられた学生が大人になり、教師になり、
   > 子どもたちに受け継がれています。
   > また、今も売れつづけているのですから、日本人の歴史観など変わりようがありません。
   > 変える方法があるとすればただ一つと思います。
   > それは、事実でないならばそのことを立証し、広く国民に知ってもらうことです。
   > むろん、この方法とて必要条件であっても十分条件ではありえません。
   > ですが、必要条件さえ、いや必要条件の一部でさえ満たしていないのが現状です。
   > そのなかで悲憤慷慨したところで、答え(結果)など期待できるとは思えません。
   >
   >
   > 2.証言者は 「中国戦犯」
   >
   > 第59師団は1942(昭和17)年4月、独立混成第10旅団を基幹に編成されたもので、
   > 司令部を山東省の済南(さいなん)に置きました。
   > 済南といえば、2004年夏のサッカー・アジア大会で一騒動のあったところです。
   > この師団から、師団長の藤田 茂中将 と2人の旅団長(少将)を含め、約260名という
   > 大量の 「中国戦犯」 を出しました。
   > 抑留者(=戦犯)は全部で1,000人強でしたから、4人に1人はこの師団の将兵というわけです。
   > 藤田師団長は帰国後に抑留者で組織した 「中国帰還者連絡会」、
   > 略して 「中帰連」 (ちゅうきれん) の初代会長に就いています。
   > 中帰連はメディア、とくにNHK、朝日新聞 の情報源として活用されることになり、
   > 多くの学者もまた同様に情報源としています。
   > 『天皇の軍隊』 記述について、少し冷静に考えればその異様さゆえに
   > 逆に疑問がでてくると思います。 いや、まともに信じる方がおかしいのです。
   > 私もおかしな証言が多いと思い、大分前ですが、登場する将兵全員の出身を調べたことが
   > あります。 結果は予想していたとおりでした。
   > つまり、「残虐行為の証言者全員が中国戦犯 」 だったという事実です。
   > ですが、この 『天皇の軍隊』 には 「撫順戦犯管理所」 に抑留されていたことを
   > 明記している証言者もありますが、まったく書いていない人も数多く登場します。
   > 一般の読者は抑留者についての知識はあまりないでしょうし、あったとしても
   > 抑留者以外の将兵も証言しているようなので、記述は信用できると思うでしょう。
   > まさに、『天皇の軍隊』 は 「中国戦犯」 の語った59師団の姿だったのです。
   > そして、これら 「語られた事実」 に対して 「裏づけをまったくとっていないこと」 が
   > もう一つの特徴でしょう。
   > となれば、証言者が日本人と中国人という違いがあれ、『天皇の軍隊』 は
   > 『中国の旅』 の同類というわけです。
   > したがって、記述の一つでも 「虚偽である」 ことが判明すれば、他の記述についても
   > 疑うのは理の当然でしょう。 もっとも、虚偽証言と判明しているのは一つではありませんが。
   > 誤解のないように一つ記しておきます。 証言者のなかに抑留者以外の人も登場します。
   >
   《以下略》

   > 記述の一つでも 「虚偽である」 ことが判明すれば、他の記述についても疑うのは理の当然
   > 記述の一つでも 「虚偽である」 ことが判明すれば、他の記述についても疑うのは理の当然
   > 記述の一つでも 「虚偽である」 ことが判明すれば、他の記述についても疑うのは理の当然

 他にも証言はあるのですから、こういうアカラサマな嘘吐きは ( この証言に関しては本当なのかも知 れないが、そもそも今となってはどれも検証(裏付け)が不可能 ) 扱わない方がサヨクにとっても賢明 だと思います。



 この証言について歴史研究者の永井和教授は
 論文 『日本軍の慰安所政策について 日本軍の慰安所政策について』 の中で
 次のように述べています。

   この例も、話が事実なら、同様に国外誘拐罪、国外移送罪(当時の刑法はこちらを参照*2)の
   被害者である。
   内務省警保局長通牒の基準が厳格に守られていたのであれば、
   こういう例は未然に防止されたはずである。
   しかしながら、未然に防止されるどころか、事後においても被害者が救済されたり、
   犯罪事件が告発された形跡がない。
   女性を送り出す地域の警察も、送られてきた側で軍慰安所を管理していた軍も、
   いずれもこのような犯罪行為に何ら手を打っていないのである。

   軍慰安所の維持のためにはやむをえない必要悪だとして、
   組織的に「見て見ぬふり」をしなければ、とうていこのようことはおこりえないはずである。

   1937年末から1938年初めにかけて軍慰安所が軍の後方組織として認知されたことにより、
   事実上刑法旧第226条はザル法と化す道が開かれたのだといってよい。
   それは警保局長通牒が空文化したことを意味する。

 

 ひとつには

   この例も、話が事実なら、
   この例も、話が事実なら、
   この例も、話が事実なら、

 ですね。 まず、話が事実かどうかの裏付けがないばかりか、証言者が中帰連で、しかも、日本兵の 人肉食を捏造した人物です。 こりゃもう信じろという方が無理。

 そして、

   内務省警保局長通牒の基準が厳格に守られていたのであれば、
   こういう例は未然に防止されたはずである。
   しかしながら、未然に防止されるどころか、事後においても被害者が救済されたり、
   犯罪事件が告発された形跡がない。
   女性を送り出す地域の警察も、送られてきた側で軍慰安所を管理していた軍も、
   いずれもこのような犯罪行為に何ら手を打っていないのである。

 に関しては、本人の与り知らない所で家族が了承していたという仮定を立てるなら、別段、何の不思 議もなくなります。
 もちろん、サヨク的には、「 貧困に付け込んで、業者に子や妻を買わせるように仕向けた日本軍は 悪 」 という超論法が展開するのだと思いますけれども、当時の社会情勢を鑑みるに、基本的に労働力 過剰で、女工哀史に代表される様なマンパワーを前提とした大量生産には熟練された工員の存在が 不可欠であり、読み書き算盤すら怪しい程に無学で、作業手順を教えることが困難な貧困農村出の女 性に勤まる高度な仕事なんかありません。
 今現在の日本でさえ、職に就く事が出来なくて、親族の庇護にも与れず、役所の窓口で社会保障を 門前払いされれば飢えて死ぬしかありません。

   2012年06月29日 日刊SPA!
   【生活保護】本当に必要でも貰えず死に至ったケースがこんなにあった
   http://nikkan-spa.jp/231223 魚拓 )

 ましてや富国強兵が最優先で、先行する諸外国に追い付け追い越せで必死のパチキだった当時 は、社会保障の整備なんぞ当然の如く後回しで、借金まみれの貧困農家が冷害で飢饉にみまわれた ら、一家全員飢え死にするか、クチべらしでリスクを減らすか、子や妻を売って、売った金で凌ぐ か ・・・ この3拓しかありません。
 そういうバックグラウンドに思考を馳せた場合、仮に書かれている 「兵士は見た!」 が極めて濃厚 に 「 家族が子や妻を売ったが、本人は理解していなかった 」 である可能性が湧いてきます。
 もちろん、人身売買は当時でも違法でしたから、業者を摘発して、本人を家族の下へ帰すことは可能 だったでしょう。 しかし、それをしても家人が借りた金は棒引きになりません。
 そもそも子や妻を売らなくても金を稼ぐアテがあるなら、可愛い子や愛おしい妻を売る人はいません。  みんな、ギリギリの生活の中で、楽しい思い出を抱いて家族全員が死ぬか、独りの女性を犠牲にし て ( もっとも、犠牲になった女性もその尊厳を奪われただけで飢え死からは免れました ) みんなが 「  家族を犠牲にした 」 という咎を抱えて生き続けるのか、という哀しい二者択一の中で後者を選んだの です ( 前者を選んだ家族も居たと思います。 ただし、その場合は、死人にクチなしです )。

 他の誰でもない、今現在の韓国に住む高齢売春婦が吐露しています。

   2014年06月11日 笑 韓 ブログ
   【韓国】BBCが『売春バッカスおばさん』の実態を報道
   http://www.wara2ch.com/archives/7722145.html
   《略》
   >
   > BBC オンライン版では9日、
   > 『売春する韓国のお婆さん(The Korean grandmothers who sell sex)』
   > というタイトルで、バッカスおばさんたちの生活が事細かに報道された。
   > 韓国でバッカスおばさんと言えば、バッカスなどの滋養強壮剤を売りながら生計を立てる
   > 高齢の女性を意味する。
   >
   《略》
   >
   > しかし急速に競争社会に突き進む韓国で、
   > 若い世代はこれ以上親の世代を見るのは難しいと言う。
   > 政府も適切な福祉システムを提供するために孤軍奮闘しているが、限界が続いている。
   > その間、宗廟公園をうろつく男女の高齢者たちは現実的な老後保障と子供もなく、
   > 彼らだけの世界に閉じこめられた外国人に見えるだけである。
   >
   > 韓国高齢者相談センター長のイ・ホソン氏(ソウル・ベンチャー大学教授)は
   > ウィリアムソン記者とのインタビューで、
   > 「 大部分のバッカス女性は新たな形態の高齢者貧困のため、
   >  結果的に売春を始めるようになった 」
   > と分析した
   > あるバッカス女性はイ教授に、
   > 「 私はお腹が空いている。 尊敬はいらない。 名誉もいらない。
   >  ただ一日に三度の食事を願う
   > と話したという。

 人はそう簡単に潔く飢え死することは出来ません。

 ・ 富国強兵の中で弱者救済に回せる金など無い。

 ・ 借金を抱えている貧困農家が飢饉の年に遭っても行き延びられるだけの金は、
  無学な未就労者には稼ぐことが不可能。

 ・ 読み書き算盤も出来ない奴にイチから仕事を教える位なら他に有能な働き手が幾らでも居る。

 ・ 男性の業として、性欲の解消手段という需要は尽きることが無い。

 ・ 進軍に伴って、進軍先での「兵の性処理」がどうしても避けられない問題として存在する。

 ・ 溜まる性欲を放置しておけば、韓国軍兵士がベトナム民間人に対して行ったような
  残虐極まる殺戮やレイプが引き起こされかねない。

 ・・・ これだけのカードが揃っている条件下で、慰安婦制度を採用した日本軍は悪だったのでしょう か。

 ガチで百戦錬磨の職業売春婦にしか慰安婦への道を開けないで、借金まみれなのに飢饉に遭ってし まった貧困農家の娘や妻は門前払いにして、一家を飢え死にさせて、それでいて、日本の進軍先で快 楽殺人やレイプを横行させて、皇軍の信頼を失墜させて、その後の植民地政策に大きな障碍を遺す方 が良かったのでしょうか?

 犯罪は取り締まられるべきであるという意見に異議はありません。

 それでも、犯罪が看過される事で、より多くの人が幸せに ―― いえ、幸せでなくても、死なずに済む  ―― のであれば、看過された方が良いと思います。

 最善の選択というものは、その時の社会情勢によって容易に揺らぐ物だということを我々は今の豊か な生活を前提した価値観に囚われることなく認識しなくてはいけません。



 論文に出てくる『内務省警保局長通牒(原文はこちらを参照*3)』には、
 現在の警察庁長官に相当する内務省警保局長から全国の各庁府県長官宛に出された
 通牒『支那渡航婦女の取扱に関する件』 (1938年2月23日)というものがあります。

 この通牒は 「婦女・児童の売買を禁止する国際条約*4」
 ( 未成年の女性を売春に従事させることを禁止し、成年であっても、詐欺(誘拐)などによる
  強制的手段が介在していれば刑事罰に問われることを定めた国際条約。)
 に接触しないよう指示した箇所があるのですが、初めから
 「北支、中支方面に向ふ者に限り当分の間之を黙認」 して出国に必要な 「身分証明を付与」 する
 と抜け穴が作られているのです。

 

   > 一、醜業を目的とする婦女の渡航は
   >   現在内地に於て娼妓其の他事実上醜業を営み
   >   満21歳以上且花柳病其の他伝染性疾患なき者にして
   >   北支、中支方面に向ふ者に限り当分の間之を黙認することとし
   >   昭和12年8月米三機密合第3776号外務次官通牒に依る身分証明書を発給すること

 「 ガチで百戦錬磨の職業売春婦にしか慰安婦への道を開けない 」 という条件を当分の間、北支那と 中支那方面へ向かう売春婦とその予備軍に関しては黙認する、と書かれています。

 サヨクの人の目には、風俗歴のない無辜の女性を無理矢理北支那と中支那方面へ強制連行して売 春婦として強制労働させるために出された通牒に読めるのかも知れません。

 しかし、“ガチで百戦錬磨の職業売春婦”にだけ絞った場合、売春歴がない (あるいは、街娼の経験 はあるけれど被管理売春婦の経験がない ) 女性が飢えた家族を救うために、自ら望んで売春婦とし て北支那や中支那方面で働こうとした場合に、その道を閉ざす事になります。
 それを考慮した場合、( もちろん、ガチで百戦錬磨の職業売春婦に限ってしまったら、需要を満たす だけの売春婦が供給できなかったという理由が大きいと思いますが ) ガチで百戦錬磨の職業売春婦 以外にも門戸を開いた日本軍を安易に責めることはできません。



 さらにこの通牒は日本国内に限定されたもので、
 朝鮮・台湾といった植民地では出されていないのです。
 そのため植民地からは未成年の女性たちが制限無しに
 国外に誘拐・拉致、人身売買といった強制的手段で連れて行かれたと考えられています。

 

 そちらの主張はこうである。

 「 慰安婦問題に於ける軍本部や政府の責任を問える書類や命令書が見つからないのは、
  敗戦が確定した時に焚書されてしまったからだ 」

 ・・・ ならば、朝鮮・台湾といった植民地に向けて出された通牒は、間違えて不都合な書類や命令書と 一緒に焚書されてしまった、と考える事が出来る筈。

 自分達が有利に成れる資料が無いのは 「焚書されたから」 であり、日本政府が有利に成れる資料 が無いのは 「そんな物は発行されなかった」 ですか。 随分と都合の良い思考ですね。



   > ■長尾和郎『関東軍軍隊日記 - 一兵士の生と死と』経済往来社,1968年
   > 関東軍兵士の記録、場所:中国東北部、黒竜江省
   >
   >  東満の東寧(とうねい)の町にも、朝鮮女性の施設が町はずれにあった。
   >  その数は知る由もなかったが、朝鮮女性ばかりではなく日本女性も
   >  …… (一般兵用)施設は藁筵(むしろ)でかこまれた粗末な小屋で、
   >  三畳ぐらいの板の間にせんべい布団を敷き、その上に仰向けになった
   >  女性の姿を見たとき、私の心には小さなヒューマニズムが燃えた。
   >  一日に何人の兵隊と営業するのか。
   >  外に列を作っている兵隊たちを一人一人殴りつけてやりたい義憤めいた衝動を覚え、
   >  その場を立ち去った。

 いや、大阪のチョンの間も似たような部屋なんですけどw
 幾ら最前線じゃないとしても、移送できる物資の量には限りがあるワケで。
 火器や銃弾,兵装を減らして、ふかふかの蒲団を運送するワケにはイカンでしょ。


   >  これらの朝鮮女性は 「従軍看護婦募集」 の体裁のいい広告につられて
   >  かき集められたため、施設で営業するとは思ってもいなかったという。
   >  それが満州各地に送りこまれて、いわば兵士達の排泄処理の道具に
   >  身を落とす運命になった。
   >  わたしは甘い感傷家であったかもしれないが、戦争に挑む人間という動物の
   >  排泄処理には、心底から幻滅を覚えた。 ……
   >
   >  おれは東京の吉原、洲崎の悪所は体験済みだが、東寧の慰安婦はご免だ。
   >  あれじゃ人体でなく排泄装置の部分品みたいなものだが、伊藤上等兵も同感する。

 この

   これらの朝鮮女性は 「従軍看護婦募集」 の体裁のいい広告につられて
   かき集められたため、施設で営業するとは思ってもいなかったという。

 という部分に関しては、事実であるという証拠が存在しません。

 東満といえば満州国の省ですから、南国の日本領と違ってアメリカ軍の奪還作戦で慰安婦が戦火に 巻き込まれて命を落とす事はありません。
 終戦を東満で迎えたのであれば、日本へ還る途中で命を落としたかも知れませんが、終戦前に慰安 婦としての契約の満期を迎えるとか、良く稼いで前借金を返すとか、そうして早期に故郷へ返った慰安 婦も大勢居たハズです。
 しかし、そういった地獄からの帰還組が祖国で 「看護師の募集は嘘で実態は売春婦集めだ」 とか、 「兵站の売春宿は地獄だ」とか言った噂を流布して、劣悪な環境での強制売春を阻もうとしたという痕 跡はありません。

 併合後の朝鮮半島では、新たに日本人として扱われる事となった朝鮮人の、朝鮮人による、朝鮮人 の為の統治が行われていました。

   酒たまねぎや店主の木下隆義
   朝鮮半島において、日本人より偉かった朝鮮人
   http://www.tamanegiya.com/nihonnjinnyorierakat20.9.2.html
   > 毎日新聞のウソ記事
   >
   >  平成21年2月28日土曜日晴れ ○
   >
   >  今日の毎日新聞に 「東京大空襲 韓国から2遺族来日 戦火に消えた足跡たどる」 と
   >  いう記事の中に下記のような表現がありました。
   >
   >  < 64年前とあって、黄さんは父の記憶がほとんどなく、
   >    1枚だけ残っていた写真も紛失してしまった。
   >    一方、金さんによると、鳳石さんは
   >    「 すぐ帰ってくる。 ランドセルを買ってきてあげる 」
   >    と朝鮮半島南部の自宅を出て、そのまま日本に連れていかれ、
   >    帰ってこなかったという。 >
   >
   >  2月28日11時28分配信 毎日新聞
   >
   >  ありもしない百人切りをあったと偽る鉄面皮の毎日新聞らしく、さらりとウソを書いている。
   >
   > 朝鮮半島においては、警察官は、警務官 → 警視 → 警部 → 巡査 → 巡査補と
   > なっていたが、併合間も無い1910年末における日本人と朝鮮人との割合は
   > 下記の通りであった。
  ┌───┬────┬───┬──┬──┬──┬───┬──┐
  │ % │警務部長│警務官│警視│警部│巡査│巡査補│合計│
  ├───┼────┼───┼──┼──┼──┼───┼──┤
  │日本人│   13│   2│ 30│ 167│2053│   0│2265│
  ├───┼────┼───┼──┼──┼──┼───┼──┤
  │朝鮮人│    0│   1│ 14│ 101│ 181│ 3131│3428│
  ├───┼────┼───┼──┼──┼──┼───┼──┤
  │合 計│   13│   3│ 44│ 268│2234│ 3131│5693│
  └───┴────┴───┴──┴──┴──┴───┴──┘
   「歴史を偽造する韓国」中川八洋著徳間書店
   ( 中川氏は 「総監府時代の財政」 友邦協会 p122より引用 )
   >
   > つまり、上級職である警務官と警視の3割は朝鮮人であった。
   > これは先の官吏について同じ事であるが、日本の朝鮮統治が 「日本の警察による支配」 と
   > いく批判が的外れであることを意味する。
   > このように、併合間も無い時期ですら警察幹部の3分の1が朝鮮人であり、
   > その朝鮮人幹部の下に日本人警察官の警部、巡査がついていた事がわかる。
   > また、警察の末端だけが朝鮮人であったということも間違いである事がわかる。
   >
   > 武断政治といわれている我国の朝鮮統治がウソである事が良くわかる。
   >
   > 朝鮮には13の道(県)があり、知事ポストの約4割が朝鮮人でした。(終戦時には5)
   >
   > 例えば、江原道の知事ポストは李圭完から終戦時の孫永穆まですべて朝鮮人でした。
   > 13道の日本統治時代の全知事総数125名のうち日本人知事は76名、朝
   > 鮮人知事は49名と39%が朝鮮人が占めていました。
   > ちなみに、知事に直結して朝鮮の民情をすくいあげ具申する任務の特殊副知事ともいうべき
   > 参与官は13道すべてが朝鮮人でした。
   >
   > 慶尚北道の1932年(昭和7年)1月現在の県知事は朝鮮人であり、
   > 4名の部長(内務部、産業部、財務部、警察部)のうち産業部長は朝鮮人。
   > そして、4つの部にいた部長以外の日本人官吏は194名。
   > つまり、3名の日本人部長もその他194名の日本人官吏も、朝鮮人知事に仕えていた。
   >
   > 1940年の朝鮮総督府における朝鮮人高級官吏の実態として  
   > 内務局には局長以下31名の高級官吏のうち3名が朝鮮人。
   > 財務局は局長以下13名のうち1名が朝鮮人。
   > 学務局は局長以下19名のうち3名が朝鮮人であった。
   > 学務局の3名の朝鮮人高級官吏のうち1名は視学官という高官であった。
   >
   > その他の例として京城履審法院の13名の判事のうち2名が朝鮮人、
   > 京城地方法院28名の判事のうち3名が朝鮮人、
   > 京城地方法院検事局の検事14名のうち1名が朝鮮人であった。
   >
   > 学務局の最高ポストである学務局長として李軫鎬が1924年から29年まで就いている。
   >
   > 朝鮮半島における地方行政機構は、道知事の下に、日本の市にあたる府、
   > 日本の町と村にあたる邑と面、邑と面を統括する郡があった。
   > 1917年において、14府、128郡、51邑、2374面であった。
   > 済州島と鬱陵島のみ島庁をおき、島司を任命していた。この島司は郡守と同格であった。
   >
   > 準・議会が道、府、邑にそれぞれあり、1931年(昭和6年)より府会、邑会、
   > 1933年(昭和8年)より道会といった。
   > 議長はそれぞれ道知事、府?(市長)、邑長が兼ねるために
   > 完全な三権分立的な議会でないが、議決機関であった。
   > 村にあたる面の面協議会は諮問機関であり、準々・議会といってもよいものであった。
   >
   > 道会議員の3分の1の議員は官選、3分の2の議員は、
   > 府会、邑会、面協議会の議員が選挙した。
   > 道会議員の内訳は日本人が4分の1、朝鮮人が4分の3がおおむね基準であった。
   >
   > 例えば、193年における京幾道の道会議員37名中、日本人は10名で朝鮮人が27名であった。
   >
   > このように朝鮮半島における地方議員の多くは朝鮮人であり、
   > 朝鮮人対日本人というような多数決になれば日本人は敗れるしかなかった。
   >
   > 郡守、邑長、面長は、ほぼすべて朝鮮人であった。(郡守、邑長にごくわずかの例外あり)
   >
   > 朝鮮半島に移民してきた日本人は朝鮮人の郡守、邑長、面長の統治下にあった
   > といってよい。
   >
   > このような状態で、強制連行が行う事ができたと思う方が狂っている。
   >
   > 朝鮮半島における在日本人は特権というものが無かった。
   > 1937年より配給制と朝鮮半島もなってきたが、塩、砂糖などの配給で
   > 日本人と朝鮮人との差別はなかった。
   > キムチのために朝鮮人に塩を多くし、日本人には砂糖を多くするなど
   > 公正な調整がされていた。
   >
   >
   > 配給の行列ですら日本人、朝鮮人の区別なく一緒に並んだ。
   >
   >
   >  参考文献
   >  「 歴史を偽造する韓国 」 中川八洋著徳間書店
   >  「 別冊一億人の昭和史 日本陸軍史 」 毎日新聞社昭和54年刊
   >  「 月刊正論 」 平成15年3月号 p52〜53
   >
   >
   > このような朝鮮半島統治下において、毎日新聞のこの記事にあるような
   >
   > < 「 すぐ帰ってくる。 ランドセルを買ってきてあげる 」
   >   と朝鮮半島南部の自宅を出て、そのまま日本に連れていかれ、帰ってこなかった >
   >
   > などということは絶対にありえない。
   >
   > もし本当に、このような統治体制において、朝鮮人がいうような 「強制連行」 が
   > 日本人により行われ、それを朝鮮人の知事、議員、官吏が平気で座視していたのなら、
   > 朝鮮人は単なるアホ以外の何ものでもない。
   >
   > 何度も書くが、このような統治下において毎日新聞の記事にあるような事などが
   > おこなわれる可能性はゼロである。
   >
   > いかに、朝鮮人が平気でウソをつくことができるかよくわかる記事です。

 併合後の朝鮮半島では、警察官の過半数が朝鮮人でした。

 ですから、悪魔のような日本人警察官が、任期を終えて帰ってきた元慰安婦の訴えをガン無視したと しても、正義感あふれる朝鮮人警察官がその訴えを聞いて、大きな騒ぎになったハズです。

 では、日本人が軍事力を背景に朝鮮半島を弾圧して、任期を終えて帰ってきた元慰安婦に緘口令を 敷いたのでしょうか。

 それもありえません。

   2011年11月14日 ちゃぬの裏韓国日記
   日韓併合時代は警察官の6割が朝鮮人だった
   http://ameblo.jp/chanu1/entry-11078024864.html
   > ■ 日韓併合時代は警察官の6割が朝鮮人だった
   >
   >  『1945年の解放当時、約90万人の日本人が居住していた。』
   >  ( 中央日報2011年11月3日記事 )
   >  http://japanese.joins.com/article/232/145232.html?servcode=400§code=400
   >
   > ということは1942年の朝鮮半島の人口は2553万人だったため
   > 朝鮮半島での日本人が占める人口の割合は3.5%しかいません。

 たったの3.5%です。

 恨みを買って殺されるかも知れない90万人を守るのは大変です。

 朝鮮人は、こういう気質の民族です。

   3013年08月14日 韓国朝鮮
   韓国人の性格
   http://seaofjapan.biz/personality1-331

   > @ ナ・ニム・ノム
   >
   《略》
   >
   > 格下の相手をなんというか。 これは「ノム」である。
   > 「ノム」は「野郎」「奴」と訳されるが、韓国語講座のようなサイトにはあまり書いていないようだ。
   > いい言葉ではないからか、二人称ではないからだろう。
   >
   > ノム(奴)は軽蔑すべき相手に対して使う。
   > 韓国人的な軽蔑とは何か。 自分よりも道徳的に劣った人間のことである。
   >
   《略》
   >
   > いずれにしても、大なり小なり自分より道徳が劣っている(とされる)存在に対して使う。
   >
   《略》
   >
   > 人間関係において、格下のノム(奴)は、封じ込めなければならない存在だ。
   > ニム(主)はノム(奴)を抑圧するべきであるとされる。
   > また、ノム(奴)を利用するべきであるとされる。
   > なぜなら、そうすることによってのみ、ニム(主)も存在しうるからだ。
   >
   > だから、下のものに対するイジメが横行する。
   > 家庭内で父親が子供に対して虐待をすることも多くなる。
   > ニム(主)の支配する空間にノム(奴)を閉じ込めなければならないからだ。
   > だから逆に、ノム(奴)に過剰に優しく接する時もある。 どちらも目的は同じなのだ。
   >
   > 韓国では、ニム(主)の発する言葉は、マルスム(お言葉)と呼ばれる。
   > マルスム(お言葉)は道徳性の高い内容とみなされる。 だから、絶対的な支配力を持つ。
   >
   > マルスム(お言葉)を拒絶したり、否定することは許されない。
   > 道徳を否定することになるからだ。
   >
   > 韓国で代表的なノム(奴)は誰か。 それは日本人である。
   > 日本人というだけで、韓国人より格下なのだ。
   >
   《略》
   >
   > 韓国は日本よりも上位者のニム(主)であるから、上位者の役目として、
   > ノム(奴)の日本を教育してやらねばならないと常々思っている。
   > ノム(奴)は道徳が低いからノム(奴)なのだ。
   > だから日本も、自国の劣等さを悟り反省すれば、
   > 道徳を高めて地位を上げることができそうだと思われている。
   > しかし、韓国よりも上にいけるわけではない。
   >
   > 逆に、これ以上韓国人の道徳に合わないこと(韓国を愛さないこと)を続ければ、
   > ノム(奴)より下の動物になるか、天罰が下ると思われている。
   >
   《略》
   >
   >
   > C ハン
   >
   > 「ハン」 とは、憧れと恨みが混ざったものとされるが、
   > 他にも、妬み、幻想、悲哀、そして原動力も混ざったものだ。
   >
   《略》
   >
   > 韓国人にもストレートな恨みや嫉妬心はあるし、むしろきわめて強い。
   > ただし、韓国人は、時空を超えて嫉妬することがある。
   > 恨みが果たせなければ、いつまでも、それこそ死後にまで引きずる。
   > こうなると「ハン」といったほうが良いだろう。
   > 「ハン」が解かれないまま死んだ魂は冤鬼といわれ、生者をひどく苦しめるとされる。
   > 日本にも昔は菅原道真などの怨霊がいたが、現代の一般人は怨霊にならないだろう。
   > 韓国には現代も、そこかしこに冤鬼がいる(とされる)。

 日本人を格下に見る、負の思考が非常に強い朝鮮人。 そんな朝鮮人が、「 看護師に成れると言わ れて応募したのに売春婦にされた」 なんて同胞の慟哭を聞いて、大人しくしているだろうか。
 それこそアニメ 『戦闘メカ ザブングル』 に登場する特権階級イノセントのように、被支配階級シビリア ンから襲われることがないように隔離された空間で暮らしていない限り、日本人の安全は保障されませ ん。
 しかし、現実に日本人は朝鮮半島の人口の96.5%を占める朝鮮人から、闇討ちに遭うことも、自宅 が放火されることもありませんでした。 それどころか、朝鮮語で甘言を用いて被害者を騙した朝鮮人 業者も命を落とさずに済みました。

 この事実から考えられるのは次の3つです。

 @ 「 看護師にしてやる 」 と騙されて慰安婦になった被害者は、
   任期を終えても帰れなかった。

 これはないですね。 たとえ家族が 「娘は看護師になったのだ」 と信じていたとしても、任期を終えて も帰って来なかったら騒ぎになります。

 A 「 看護師にしてやる 」 と騙された被害者が任期を終える前に終戦になったため、
   国へ帰って訴えることができなかった。

 これは可能性がありそうです。

 しかし、

   2012年12月13日 Transnational History
   ■[資料][慰安婦]日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態
   http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213

 だけでも証言の数は少なくありません。 これが全部、任期満了 ( あるいは前借金の完済 ) 前に終 戦を向かえたとは考え難いでしょう ( 可能性としてゼロではありませんが )。

 B 「 看護師に成れると言われて応募したのに売春婦にされた」 というのが嘘だった。

 ・・・ 全部が全部ではなくて、幾らかは A も含まれていたと思うけれど、一番合点が行くのは、この  B でしょう。

 このBで言うトコロの “嘘” には2つのパターンがあります。

 ひとつは、本人が自ら望んで売春をしているのに、嘘を吐いている場合。

 性風俗に行ったことがある男性なら、嬢から身の上の不幸話を聞かされた経験がある人は少なくな いと思います。
 「 おとうさんの会社が倒産して 」 とか、「 友人の連帯保証人になってしまって 」 とか、外国人パブな んかだと 「 祖国に居る病気の弟に手術を受けさせたくて 」 なんてのも定番です。 こういう不幸話の全 部が全部嘘ではないのだろうけれど、額面通りに信用したって何も良いことなんか起こりません。 小 は規定の料金以上に金を払わせられることから、大は預金を解約して注ぎ込んだ挙句に嬢が消息不 明になるとか、もっと酷いのになると会社の金を横領して注ぎ込んだ挙句に嬢が消息不明になるなん て悲惨な例も現実にありました。
 彼女たちは客の事なんてスケベエの為に大金を叩くバカな奴くらいにしか捉えていないから、嘘を吐 いて余計に金を巻き上げる程度の事に罪悪感なんか感じません。 客の人生を破滅させるような酷い 嘘でも、( そういう嘘を吐く奴は神経が麻痺しているので ) 客が首を吊って死のうが罪悪感なんか感じ ない ( 客に億単位の金を横領させた奴は「私は悪くない」と言い放ったからね )。

 風俗嬢の全員が全員、悪の塊みたいな奴だとは限らないんだろうけれど、貞操という尊厳を捨てて、 金を稼ぐ覚悟の出来ている連中なんだから、ノホホンと日常を送っている市井の人とは考え方も感覚 も違うと肝に銘じておいた方がいい。

 だから、「 風俗嬢ってのは、そういう風に嘘を吐くもんだ 」 と達観している人から見ればこうなります

   騙された女性は本当に気の毒だが、なかにはこんな話もある。
   「 『従軍看護婦募集』 と騙されて慰安婦にされた。 私は高等女学校出身なのに 」
   と、兵士や下士官を涙で騙して既定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。
   また、それを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。

 これは、月刊WiLL (ウィル) 2014年11月号増刊 歴史の偽造!朝日新聞と「従軍慰安婦」の記事で、故 小野田寛郎氏の 『 「 従軍慰安婦 」 の正体  「性奴隷」などどこにもいなかった 』 の59ページに書かれている文章ですが、若い頃に普通に風俗通いした経験のある私もそう 思います。

 今だと「 おとうさんの会社が倒産して 」 とか、「 友人の連帯保証人になってしまって 」 とか、外国人 パブなんかだと 「 祖国に居る病気の弟に手術を受けさせたくて 」 なんてバリエーションがありますが、 当時は、本土の大きな工場が空襲で一夜にして燃えカスになることが珍しくありませんから、「 おとうさ んの会社が倒産して 」 では同情して貰えません。 本土では皇軍の勝利を信じて飯を焚く鍋まで供出 していましたから、「 友人の連帯保証人になってしまって 」 なんてのも、大した同情を引けるネタには ならないでしょう。 最後の 「 祖国に居る病気の弟に手術を受けさせたくて 」 に至っては、抗生物質さ えなかった時代ですから、通る嘘ではありません。
 そうなると、消去法で 「 私は騙されて此処に来た 」 位しか騙すネタがないんです。

 サヨクの中の人に言わせると、「証言の内容が似ているから事実」 ってトンデモ理論が炸裂するんで すけど、もっと単純に、当時はそれ位しか同情を買わせるネタがなかっただけでしかありません。 他 にもっと悲惨でソレらしいネタがあったら、そっちを使ったと思います。


 更に言えば、慰安婦が日本人じゃなくて朝鮮人だった場合は、その中にキーセン学校出の売春婦が 少なからず含まれていたという点も看過できません。 事実、慰安婦問題では何かと話題に上る機会 の多い金学順氏も文玉珠氏もキーセンの出身でした。

 キーセン学校で習う授業の内容を、ひと目でわかる「慰安婦問題」の真実の119ページから引用します。

   「妓生学校」における娼妓としての授業

   『朝日新聞』 の慰安婦問題検証記事では、
   「 キーセン学校は宴席での芸事を学ぶ施設だ。
    韓国での研究によると、学校を出て資格を得たキーセンと
    遊郭で働く遊女とは区別されていた 」
   と断言していましたが、昭和5 (1930)年発行『新朝鮮風土記』(師尾源蔵著、万里閣書房)の
   “妓生を語る”では、
   「 妓生は日本の芸者と娼妓を一つにしたような者で娼妓としては格が高く、
    芸者としては、その目的に添わぬ処があるともいおうか。
    彼らは客の酒宴に侍して、歌をうたい楽器を弄せぬではないが、
    その最後の目的は、枕席に侍して綱綿の情をそそる処にある 」
   とあります。昭和5年の時点での妓生の生態です。

   また前掲書 『モダン日本朝鮮版』 で、韓載徳は、
   「 彼女妓生たちとして一番肝腎なサービスの仕方、お客 ―― 男の取扱い方は、……
    一挙手一役足について、しかも内鮮のお客さんのもてなし方を分けて、委しく講義するのだ。
    …… こういう時にこういう風に笑えということまで教えるような作法教授は、
    天下広しといえどもこの学校を除いてはないだろう。
    しかし、もちろん、これくらいの技だけで、妓生がつとまるはずがない。
    …… まさか、彼女たちは 『性は、善なり』 でなく、『性は妖なり』 で、
    生れつき艶なる素質があるから大丈夫だという訳にもいくまい。
    …… 学校は、券番の事務所と一つの屋根の下で (筆者注‥123頁写真参照)、
    彼女たちの控室ではいつも姉さんたちの悩ましいエロ話が咲き、
    家に帰れば、それが妓生街であるだけに、彼女自身の姉さんが妓生でなくても、
    隣り周囲の部屋からもれてくる囁きを聞かされ、楽屋裏を見学させられるのだ
    ( 129頁左下の写真参照 )。
    かくして、彼女たちは、実もあり虚もあり表もあり裏もある妓生らしい妓生へと
    生長して行くのだ 」
   と、昭和14年時点での妓生の表裏を述べていました。

 キーセン学校では、このように男を手玉に取る技術を学んでいました。

 米軍がミッチナで朝鮮人慰安婦を尋問した際の記録にも

   アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日
   http://texas-daddy.com/comfortwomen.htm
   > PERSONALITY;
   >
   > The interrogations show the average Korean "comfort girl" to be about
   >  twenty-five years old, uneducated, childish, and selfish.
   > She is not pretty either by Japanese of Caucasian standards.
   > She is inclined to be egotistical and likes to talk about herself.
   > Her attitude in front of strangers is quiet and demure, but she "knows the wiles of a woman."

   > 性 質;
   >
   > 尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮;人慰安婦は25歳くらいで、無教育、幼稚、
   > 気まぐれ、そして、わがままである。
   > 慰安婦は、日本的基準から いっても白人的基準からいっても、美人ではない。
   > とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。
   > 見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得てい る」。

 「女の手練手管を心得ている」 と明記されています

 そうした術を熟知した売春婦が言う 「 看護師に成れると言われて来たのに騙された 」 が、果たして 真実であるのかどうか。 常識的に考えれば答えは自ずと明らかだと思います。 


 そして、慰安婦が日本人じゃなくて朝鮮人だった場合に、 「 看護師に成れると言われて応募したのに 売春婦にされた」 が嘘である確率は、半端なく跳ね上がります。

   デスイクトップ2ch
   なぜ韓国人は証言を捏造するのか 偽証罪は日本の427倍、誣告罪は542倍
   http://desktop2ch.tv/dqnplus/1286807971/
   > 韓国では、詐欺や横領、背任のように他人をだます犯罪や、自分の任務を全うできず他人に
   > 財産上の損害を与えるといった犯罪が、毎年平均20万件以上発生している。
   > 最近、法務部が国会に提出した資料によると、2008年の1年間に詐欺20万5140件、
   > 横領2万6750件、背任5135件など、計23万7025件の事件が起きており、
   > 全刑法違反事件89万7536件のうち26.2%を占めた。
   > 詐欺事件では2兆8040億ウォン(約2044億円)、横領では8061億ウォン(約588億円)、
   > 背任では6179億ウォン(約451億円)の損害を、被害者に与えたという。
   >
   > 韓国の法廷では、うそをつく偽証や、ありもしない容疑をでっち上げて他人を告訴、
   > 告発する誣告(ぶこく)事件が、日本に比べてはるかに多い。
   > 2007年に日本では偽証罪で9人が起訴されたのに対し、韓国では1544人が起訴された。
   > 誣告罪の場合、日本では10人、韓国では2171人が起訴された。
   > 起訴された数字だけを見ると、偽証罪は日本の171倍、誣告罪は217倍に当たる。
   > しかし、日本の人口が韓国の2.5倍だということを考慮すると、実際には偽証罪が427倍、
   > 誣告罪は542倍となる。
   >
   > 韓国社会で詐欺や横領、偽証や誣告のような犯罪が多発しているのは、
   > それだけ他人をだましたり、うそをつく人、自分の任務に忠実ではない人が多い
   > ということで、これは社会的信頼という面で、韓国が後進国のレベルから抜け出せていない
   > という意味だ。
   > 先進社会とは、市民の間で社会的信頼水準が高い社会を指す。
   > まずは社会の指導層が道徳的な義務を果たすべきだが、一般の人々も規則や約束を守り、
   > 自分の職分に反する行為を自制する社会を目指していくべきだ。
   >
   >
   > http://www.chosunonline.com/news/20101011000031


   D118
   わが隣人(韓国人)は大嘘つき
   http://www.kcn.ne.jp/~ca001/D118.htm
   > かつて朝鮮人はウソつきと言うことは、日本人の常識であった。 誰もが朝鮮人を警戒した。
   > しかし、朝鮮人を警戒することが差別であるとされ、朝鮮人がウソつきであるという情報は
   > ひた隠しにされるようになった。
   >
   > 韓国の新聞、しかも、日本人向けに作成されている ホームページにさえ
   > この事実は報じられているにもかかわらず、自国民にこの事実を知らせることが
   > 使命であるはずの日本のマスコミは、この種の情報を一切報じていない。
   >
   > ---------------------------------------------------------------------------
   >
   > 「法廷での偽証」発覚すれば厳しく処罰を
   > 2008年09月17日10時42分
   > 中央日報/中央日報日本語版]
   >
   > 検察が、虚偽の証言の対処に積極的に取り組んでいる。
   >
   > ソウル中央地裁は昨年9月から今年7月末まで95人を偽証罪で正式に裁判に付託した。
   > 06年の同期間には81人が起訴されているが、これは14人(17%)増えた数字だ。
   >
   > ソウル中央地検は偽証罪を専門的に捜査するため、公判を担当する公判第1、2部に
   > 検察捜査官を2人ずつ新しく配置した。
   > 偽証関連犯罪者への検察のこうした方針は、裁判所が公判中心主義を強化したことに
   > よるものだ。
   >
   > 裁判が 「捜査記録検討」 中心から、当事者や証人の供述の比重を高める方向に変わった
   > からだ。
   > 特に今年から一般国民が陪審員として裁判に参加する国民参加裁判が施行されることに
   > より、証言の重要性は強調される傾向にある。
   >
   >
   > ◇ 処罰強化した裁判所 = 裁判所も偽証関連犯罪者を厳罰に処している。
   >
   > ソウル南部地裁の判事は
   > 「 公判中心主義に際し、偽証関連犯罪者に対しては従来なら罰金で済んでいた懸案も、
   >  逮捕または実刑を言い渡している 」
   > と雰囲気を伝えた。
   >
   > 専門家は偽証も誣告と似たレベルから処罰されるべきだという意見を示している。
   > 刑事政策研究院のパク・ミスク研究委員は
   > 「 現行の刑法は、誣告罪に対し10年以下の懲役や
   >  1500万ウォン(約150万円)以下の罰金刑を定めている 」
   > とし
   > 「 偽証も、誣告罪との公平性を踏まえて、強化する必要がある 」
   > と述べた。
   >
   > ソウル中央地検の趙正鉄(チョ・ジョンチョル)公判第1部長検事は
   > 「 偽証を供述拒否権などといった被疑者の防御権だと考える認識から、
   >  偽証関連犯罪者が増えつづける傾向にある 」
   > とし
   > 「 米国と欧州は捜査の段階でも、被疑者や参考人が嘘をつけば司法妨害罪として
   >  厳しく処罰するだけに、韓国も司法妨害罪の導入を検討すべきだ 」
   > と話している。
   >
   >
   > ---------------------------------------------------------------------------
   >
   > 記事入力 : 2009/08/19 16:49:44
   >
   > 偽証に悩まされる韓国の法廷(上)
   >
   > 収賄罪で起訴された金孝謙(キム・ヒョギョム)元冠岳区長は、
   > 今年5月に同氏にわいろを提供したA容疑者が現金の受け渡しをした事務所の構造を
   > 法廷で詳細に陳述すると、窮地に追い込まれた。
   > すると金元区長は、ソファーを片付けるなど事務所内部を完全に模様替えし、
   > 側近のB氏を証人に立てた。
   > B氏は法廷で、
   > 「 A容疑者が陳述した事務所の構造は実際とは違う 」
   > と偽証した。
   > とはいえ裁判部が現場検証したところ、事務所の構造はB氏が説明した通りだった
   > だが同裁判を担当していた公判検事がインターネットで何度も検索し、
   > 以前の事務所の写真を探し出したことで、工作だったことが発覚した。
   > 金元区長は収賄罪で有罪判決を受け、さらに偽証教唆の罪が追加された。
   > B氏は偽証罪で起訴された。
   > 民事裁判、刑事裁判ともに、法廷での偽証行為が一向に減らないため、
   > 裁判所や警察が頭を抱えている。
   > 巧妙で悪意のある偽証が司法の信用を失墜させているばかりでなく、
   > 裁判所が意欲的に試行している公判中心主義を定着させる支障となっている。
   > 検察関係者は
   > 「 証拠をでっち上げるほか、あらかじめシナリオを設定し 『予行練習』 までして
   >  法廷に立つケースが多いため、少しでも気を緩めるとだまされてしまう 」
   > と語った。
   > C氏は公務員の兄が収賄罪で起訴されると、現金を受け取ったという時間に共にいた、と
   > 法廷でうそのアリバイを証言した。
   > だが賄賂が受け渡されたレストランで現金を提供した人物の法人カードの支払い領収書と、
   > 駐車場の係員が二人を目撃したという証言を公判検事が確保したことで、C氏の偽証は
   > 暴かれた。 C氏も偽証罪で起訴された。
   >
   > チョン・ハングク記者
   > 孫振碩(ソン・ジンソク)記者
   > 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
   > < 記事、写真、画像の無断転載を禁じます。
   >   Copyright (c) 2008 The Chosun Ilbo & Chosunonline.com >
   >
   >
   > ----------------------------------------
   >
   > 記事入力 : 2009/08/19 16:49:53
   >
   > 偽証に悩まされる韓国の法廷(下)
   >
   > 大検察庁のイ・サンチョル公判訟務課長は、
   > 「 ここ2−3年の間に、公判検事が偽証事犯を別個に捜査し、正式裁判に回付するケースが
   >  1カ月に3−4件に達している。
   >  偽証事犯の摘発に気を使わなければならないため、公判検事の業務が増えている 」
   > と話した。
   > 民事裁判ではかなり前から偽証が蔓延(まんえん)しており、
   > 判事もそれに無頓着になりつつある。
   > 刑事裁判とは違い、偽証しても負担が少ないからだ。
   > あるベテラン弁護士は、「民事法廷は偽証の大会場と言っても過言ではない」 と話した。
   > このように偽証が氾濫しているのは、偽証を犯罪と見なさない社会的風土が定着している
   > からだ、という指摘が出ている。
   > 証人が事件の当事者と知人の場合、事件当事者に有利な証言をしなければ
   > 冷淡な人間だと思われてしまうというわけだ。
   > 日本では偽証罪で起訴される人が年間10人前後に過ぎない。
   > 検察と裁判所は最近、偽証罪に対して厳しく対処している。
   > 以前は罰金程度で終わっていた偽証事犯を正式な裁判に回付し、実刑判決を下すケースも
   > 増えている。
   > 検察は2004年に937人の偽証事犯を立件し472人を裁判に回付したが、
   > 昨年は1786人を立件し1251人を裁判に回付している。
   > 一方、略式起訴は409人(04年)から375人(08年)に減った。
   > 裁判所も05年に偽証罪で起訴された被告人98人に実刑判決を下したが、
   > 昨年は247人だった。
   > 7月から施行された量刑基準では、偽証罪に対して最長4年の実刑を下すことできる。
   > ソウル中央地検のミン・マンギ公判第1部長は、
   > 「 法廷での偽証が重大な犯罪だという認識を持つよう、幼いころから教育しなければならない 」
   > と主張した。
   >
   > チョン・ハングク記者
   > 孫振碩(ソン・ジンソク)記者
   > 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

 こういう民族が、嘘を吐く事で自分の扱いが良くなったり、仕事の報酬が良くなると判っていて、尚も 嘘を吐かずに居るなんて考えられません。 嘘を吐けば罰せられる法廷でさえ、息を吐く様に嘘を吐く のです。 可哀想な身の上話を 「 真実に違いない 」 などと鵜呑みにして同情するなんて、バカの極み 以外の何物でもありません。

 ・・・ つまり、裏付けのない証言に証拠性が無いのと同様に、裏付けのない 「 被害を聞いた報告 」 も また証拠性を持たないのです。 至極アタリマエの話ですね。

 という訳で、

 「騙されて」 ってのが嘘である可能性があって。

 「騙されて」 ってが嘘ではないと裏付ける根拠が何一つ無くて。

 騙された可哀想な被害者は、朝鮮人の、朝鮮人に拠る、朝鮮人の為の政治が行われていた朝鮮半 島に任期を終えて帰国したのに、、何故か騙したことは問題になっていない。

 そして、日本人でも風俗嬢は自分の仕事を優位に進める為、あるいは、客から料金以上の金をふん だくる為に平気で嘘を吐く。
 朝鮮人は、風俗嬢でなくても息を吐く様に嘘を吐く。


 数式 : [ 「騙された」と言えば同情を買って貰えて、より多く稼げる ] × [ 嘘を吐けば罰せられる裁判 所でさえ、偽証罪は日本の427倍、誣告罪は542倍 ] × [ 慰安所で嘘を吐いても咎められない ] × [  本当に被害に遭っていたなら、慰安婦の帰国後に大騒ぎが起こっているハズなのに、何の変化もな し ] 

 = [ そりゃ嘘だろう ]


 ということです。


 ・・・ なんだか、オチが付いちゃったみたいな感じですけど、ここで終わりではありません。

 先程、

   このBで言うトコロの “嘘” には2つのパターンがあります。

 と書きました。

 もうひとつのパターンは、「本人が親や夫から売られていて、本人は其れを知らない」 です。

 これは可哀想ですが、当時の貧困層はしばしば危機的状態に陥りました。

 そんな時に、女房子供を売るというのは、今の感覚で言えば決して許されないことだと思いますが、 それでも貧乏人が命を未来へ繋ぐ唯一無二の選択肢だったのです。
 もちろん、女房子供を売るなんて鬼畜の悪行に手を付けられなかった善意の親や夫も居たでしょう。  しかし、そんな親や夫の元に居た女性は家族と一緒に仲良く飢え死にしました。 それは、「善い選択 肢」だったのでしょうか?

 私には「善い選択肢」に見えないのですが、サヨクの皆様には「善い選択肢」に見えるのでしょう。

 それは思想信条の違いなので咎める気などありません。

 しかし、親や夫の判断を子や妻が納得するとは限りません。 「 あたし、売春婦になる位なら飢え死 にする 」 なんて言い出しかねない真面目な子や妻に対して 「看護師になれる」 とか 「兵隊さんを慰問 するだけの簡単な仕事」とか言って騙すのは仕方のないことではないでしょうか。

 親や夫が了承済みであり、その旨が業者から軍に伝わっていたとしたらどうでしょう。

 幾ら慰安婦が客として来た兵に助けを懇願しても、その声は軍の上官が握り潰します。

 慰安婦が任期を終えて、あるいは前借金を完済して故郷へ戻って騙されたことを訴えようとしても、親 や夫が 「 実は... 」 と打ち明けて終了です。 今の韓国もそうですが、当時の朝鮮半島は儒教の影 響が強かったので、目上の立場にある親や夫に逆らう事が出来ません。

 もちろん、サヨクの皆様は、「 借金のカタに売春させるなんて人権蹂躙だ! 」 と言うでしょう。

 でもね、利根川のセリフじゃないけれど、お金は命よりも尊いんです。

 「お父さんの会社が倒産して」 とか 「友人の連帯保証人になって」 とか フィリピンパブ嬢の 「祖国に 居る弟に手術を受けさせたくて」 なんてのは嘘だと思いますが、「見栄を張る為にブランド品を買い漁 って」 とか 「パチンコに嵌って」 とか 「イケメンホストに貢いで」 とか、糞みたいな理由で大きな借金を 作って風俗に沈む女性は、今現在に数多居ます。
 そんな屑女でも、借金に縛られて売春をさせられているという点では慰安婦と同じです。

 他に金を返す手段がないのだから、それはもう 「しょうがない」 んです。

 ですから

 「東満」 地域とは、1943年10月1日、満州国にかつて存在した3省、牡丹江・間島・東安を
 総括し設置された「東満総省」の地域を指し、「洲崎」とは現在の江東区東陽町に
 かつてあった遊郭街のことです。

 この慰安所にいた朝鮮人女性たちは「従軍看護婦」の「募集」だと騙されて
 国外に連れて行かれています。
 これは当時でも誘拐・拉致という犯罪で刑法第226条に違反しているのですが、
 女性たちの身元も調査しているはずの軍の方で送り返すなどした様子もなく、
 女性たちは軍の管理下にある慰安所で軍人の性の相手を強要されています。

 また、当時この兵士は、慰安所のあまりに人権が無視されている状況に
 「義憤めいた衝動を覚え」「外に列を作っている兵隊たちを一人一人殴りつけてやりたい」
 と感じたと書いています。
 この後でも紹介するように、慰安婦の状況を非人道的だと感じた日本軍将兵の手記や
 証言というものはけっして少なくありません。

 「 看護師に成れると言われて応募したのに売春婦にされた」 が 『本人が吐いている嘘』、なら、誰も 刑法第226条 ( 国外移送目的誘拐罪、国外移送罪など ) に違反していません。
 もし、『親や夫に擦り込まれた嘘』 だったとしたら、法律上は詐欺に当たると思われますが、そうしな ければ一家全員が飢えて死ぬのだから仕方がありません。
 いずれにせよ、『女性たちの身元も調査しているはずの軍の方で送り返す』 なんてする必要はないの です。


 ・・・ これで、兵が 「見聞きした慰安婦の可哀想な話」 は論破終了 (になると思います)。

 後は、絆(ほだ)されたマヌケな兵の感想文が続くのですが、折角の機会ですので、皆さまと一緒に拝 見すると致しましょう ( と軽く考えていたのですが、実際に拝見すると色々とヤバい事実が浮き上がってきました )


   > ■『私たちと戦争〈2〉戦争体験文集』タイムス,1977年,p.32
   > 島本重三 軍「慰安所」
   > 第七三三部隊工兵一等兵の記録、場所:中国東北部の吉林省・琿春
   >
   >  兵隊専用のピー屋(慰安所)は琿春の町に五軒散在していた。
   >  一軒の店に十人ほどの女がいた。 『兵隊サン、男ニナリナサイ』。
   >  朝鮮の女たちは道ばたに出て兵隊を呼びこんでいた。 まだ幼い顔の女もまじっていた。
   >
   >  兵隊の慰問のために働くのは立派なことで、その上に金をもうけられると誘われ、
   >  遠い所までつれてこられた。
   >  気がついたときは帰るにも帰れず、彼女らは飢えた兵隊の餌食として
   >  躯(からだ)を投げださねばならなかった。
   >
   >  日曜日にはけだものとなった兵隊を相手に少しも休むまもなかった。
   >  まだ終らないうちから次の兵隊が戸を叩いてせかした。
   >  ベニヤ板張りの小さな部屋には、貧弱な鏡台とトランクがあった。
   >  それが彼女の全財産であった。
   >
   >  せんべい布団を被ううす汚れた敷布には、解剖台のような気味の悪い血がしみついていた。
   >  生理のときも休むことを許されず、働かねばならない女たちであった。

 『安全で衛生的な』 といっても戦争をやっているんだから、今の高級ソープみたいな仕事場を提供す るのは無理です。 でも、だからこその 「頑張れば将校の給与も凌ぎ得る高額の対価」 だったと考える べきでしょう。

 ちなみに、キーワード [ 島本重三 ] でググるとちょっと面白い事実に遭遇する。

   Buyeeオークション
   兵士のラポルト 島本重三詩集 新日本歌人協会大阪支部
   http://buyee.jp/item/yahoo/auction/p244787167/lang/ja/rc/yaucb
   

 次にキーワード [ 新日本歌人協会 ] でググると

   新日本歌人
   http://www.shinnihonkajin.com/kazintowa/
   > ■ 新日本歌人とは
   >
   > 新日本歌人協会とは
   >  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   > 新日本歌人協会は、
   > 「 平和と進歩、民主主義をめざす共同の立場から、広範な人びとの生活・感情・思想を
   >  短歌を通じて豊かに表現し、将来に発展させることを目指す 」 (規約) 短歌の団体です。
   >
   >
   > 歴史と今
   >  ̄ ̄ ̄ ̄
   > 新日本歌人協会は、太平洋戦争敗戦の翌年の昭和21年(1946)、2月2日に
   > 渡辺順三をはじめとして平和と進歩、民主主義を求める多くの歌人たちによって
   > 結成されました。 そして機関紙として 『人民短歌』 が創刊されました。
   > 1949年には 『新日本歌人』 と改題されて今日に続いています。
   >
   > 新日本歌人協会は、日本の近代短歌史のなかで石川啄木がひらき、
   > 土岐哀果(善麿)、渡辺順三らが発展させてきた 「生活派短歌」 の系譜を引き継いでいます。
   > しかし創作方法や短歌観の違いに関わらず広い歌人、短歌愛好家に門戸を開いています。
   >
   > 新日本歌人協会は会員と月々発行される 『新日本歌人』 の購読者とあわせて
   > 1000名を越え、支部は全国に63があり、それぞれ歌会や勉強会がもたれています。
   > また、「憲法九条を守る歌人の会」 の事務局の一翼を担い、活動しています。

   > 機関紙として 『人民短歌』 が創刊
   > 機関紙として 『人民短歌』 が創刊
   > 機関紙として 『人民短歌』 が創刊

   > 「憲法九条を守る歌人の会」 の事務局の一翼を担い、活動
   > 「憲法九条を守る歌人の会」 の事務局の一翼を担い、活動
   > 「憲法九条を守る歌人の会」 の事務局の一翼を担い、活動

 真っ赤々ですやんw



   > ■ 土金冨之助『シンガポールへの道〈下〉- ある近衛兵の記録』創芸社,1977年
   > スマトラのパレンバンで憲兵軍曹として慰安所に関わった憲兵の記録、
   > 場所:インドネシア・スマトラ島
   >
   >  (慰安所に)巡回で出入りしているうちに、
   >  私はK子とY子という朝鮮の女性(この建物は全部朝鮮出身)とよく話をするようになった。
   >  …… K子は年もまだ一八とか一九歳といっていた。……
   >
   >  私が一人で行ったある日、彼女は
   >  「 私達は好き好んで、こんな商売に入ったのではないのです。」
   >  と、述懐するように溜息を吐きながら語った。
   >  「 私達は、朝鮮で従軍看護婦、女子挺身隊、女子勤労奉仕隊という名目で
   >   狩り出されたのです。
   >   だからまさか慰安婦になんかさせられるとは、誰も思っていなかった。
   >   外地へ輸送されてから、初めて慰安婦であることを聞かさた。」
   >
   >  彼女等が、初めてこういう商売をするのだと知った時、どんなに驚き、嘆いたことだろうと
   >  考えると気の毒でならない。 …… 彼女の頬には、小さな雫が光っていた。……
   >
   >  将兵達はこのような事情を知っているのだろうか、いや知る必要はなかった。
   >  なまじ知っては楽しく遊べなくなるだろう。
   >  金儲けに来ているんだぐらいにしか理解していない者が多いと思う。

 これも定番ですね。

 この憲兵がいつ見聞きしたのかが分かりませんが、任期を終えるなり、前借金を完済するなりして、 本国(この場合は朝鮮)へ帰れば幾らでも訴えることが出来ました。 でも、訴えていません。
 任期満了や前借金完済の前に終戦が来てしまった可能性はありますが、訴える事が可能なのに訴 えなかった可能性もあります。
 果たしてどちらなんでしょうか。
 ・・・ というか、どうして何時の話なのか記されていないんでしょうかね。


 「家政婦は見た 」 ならぬ 「 兵士は聞いた 」 は更に続きます。


   > ■ 菅野茂『7%の運命 - 東部ニューギニア戦線 密林からの生還』光人社,2005年
   > ウェワクからラバウルに帰還した兵士の記録
   >
   >  帰途ラバウルの街の慰安所に寄った。
   >  …… メインストリートの街路樹の下で船から下りたばかりと思われる
   >  女たちの一団(十五、六名)が休息していた。
   >  大勢の兵隊がもの珍しそうにその兵隊たちの中に
   >  Y軍曹と運転手のE上等兵の姿があったので、私たちが近寄ると、
   >  「 あの娘たちは、海軍の軍属を志願したそうだが、だまされて連れてこられたらしい。
   >   あの娘は富山の浴場の娘だと 」
   >  E上等兵は、指差しながら、気の毒そうに私たちの耳元でささやいた。
   >
   >  なるほど言われてみると、どの娘も暗く沈んだ表情。
   >  ろくに化粧もなく、どう見ても巷で働く女たちではなかった。
   >  炎天の中に和服を着て柳行李を持っている姿が、一層いたましく写った。
   >  男も女も滅私奉公の時代である。 だが、私には割り切れなかった。
   >  こんなことが公然と行われてよいのだろうか。
   >  私は胸に噴き上げるものを抑えながらその場を去った。

 えっと。 ノーメイクの嬢にビックリしたという話かな。

 オイラもチョンの間で、若い子だと思っていたのに、イザ事に及ぼうと近付いたら、自分の嫁さん位に 老けた中年オバサンで萎えたことがあったわ。


   > 1943年末頃にラバウル近郊のココポ(ココボ)にあった慰安所のことを、
   > 水木しげる氏が回想しています。
   >
   >  「 日本のピー(日本人慰安婦)の前には百人くらい、ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、
   >   朝鮮ピーは八十人くらいだった。」
   >
   > ( 『本日の水木サン - 思わず心がゆるむ名言366日』草思社,2005年 )
   >
   >  「 彼女たちは徴兵されて無理矢理つれてこられて、兵隊と同じような劣悪な待遇なので、
   >   みるからにかわいそうな気がした。」
   >
   > ( 『水木しげるのラバウル戦記』筑摩書房,1994年 )
   >
   > ( 「慰安所はまさに地獄の場所だった」…水木しげる
   >  :http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-167.htmlより )

 2005年だの1994年だの、1977年に吉田清治が雛型を書いた後の “ 発言 ” ですね。

 三十八式の先っちょに手榴弾を装着して敵の飛行機を撃ち落す描写がある位に、無知であり戦闘経 験が希薄であり、そのクセ、片腕を失った恨みを日本政府に対して持つサヨク漫画家が描く“体験談”  ですから、そのまま額面通りに受け取るべきではないでしょう。


   > ■ 長沢健一『漢口慰安所』図書出版社,1983年
   >
   > 軍医の記録、日本から騙されて連れてこられた女性について。
   > 場所:中国中部・湖北省武漢市
   >
   >  赤茶けた髪、黒い顔、畑からそのまま連れてきたような女は、
   >  なまりの強い言葉でなきじゃくりながら、私は慰安所というところで
   >  兵隊さんを慰めてあげるのだと聞いてきたのに、
   >  こんなところで、こんなことをさせられると知らなかった。
   >  帰りたい、帰らせてくれといい、またせき上げて泣く……
   >
   >  (契約書は一般に) はじめに借用証文、次の行に、一、何千円也、ついで右借用候也、
   >  右の金額は酌婦稼業により支払うべく候也と書かれ ……

 いや、だから。 当時は朝鮮半島に大金を投じていたために、東北地方は近代化から置き去りにさ れて、飢饉の年には子供でも売らなきゃ一家全員が飢え死にするような時代だったんだ。

 可哀想か / 可哀想でないか、という話なら、可哀想な話だと思うけど、他に金に換える物が無くて、 無学で無知で無教養で軍需工場でも紡績工場でも雇って貰えない底辺女児に出来る事と言ったら売 春しかないんだから、これは仕方のないことです。


   > ■ 小俣行男『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』冬樹社,1967年
   > 読売新聞の従軍記者・小俣行男の記録、1942年5月か6月頃、場所:ビルマ
   >
   >  ( 朝到着した貨物船で、朝鮮の女が四、五十名上陸したと聞き、
   >    彼女らの宿舎にのりこんだとき ) 私の相手になったのは23、4歳の女だった。
   >  日本語は上手かった。 公学校で先生をしていたと言った。
   >  「 学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか 」
   >  と聞くと、彼女は本当に口惜しそうにこういった。
   >  「 私たちはだまされたのです。 東京の軍需工場へ行くという話しで募集がありました。
   >   私は東京に行ってみたかったので、応募しました。
   >   仁川沖に泊まっていた船に乗り込んだところ、東京に行かず南へ南へとやってきて、
   >   着いたところはシンガポールでした。
   >   そこで半分くらいがおろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです。
   >   歩いて帰るわけに行かず逃げることもできません。 私たちはあきらめています。
   >   ただ、可哀そうなのは何も知らない娘達です。 16、7の娘が8人にいます。
   >   この商売は嫌だと泣いています。助ける方法はありませんか 」
   >
   >  考えた末に憲兵隊に逃げこんで訴えるという方法を教えたが、
   >  憲兵がはたして助けるかどうか自信はなかった。
   >  結局、8人の少女は憲兵隊に救いを求めた。
   >  憲兵隊は始末に困ったが、将校クラブに勤めるようになったという。
   >  しかし、将校クラブがけっして安全なところでないことは戦地の常識である。
   >  「 その後この少女たちはどうなったろうか 」
   >
   > ( 『ビルマラングーンの「慰安所」情報』:http://d.hatena.ne.jp/dempax/20070603#p1より)
   >
   > * 将校クラブとは将校専用の慰安所のこと。

 はいはい、小俣行男、小俣行男。

   デスクトップ2ch
   【世界の】「南京大虐殺」は嘘【常識】120次資料
   http://desktop2ch.tv/asia/1288882368/

   > 134  日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/11/09 13:05:26  ID:dkLL6c2T(32)
   >
   > 小俣行男氏「侵掠」より
   >
   >  それにしても、敵側の惨虐は報道し得ても、「皇軍」の残虐は報道できない―。
   >
   >  町はずれの路傍で姑娘が、地べたに腰をおろしていた。
   >  近づいてみると、上衣はつけていたが、下着も下穿きも脱がされていた。
   >  二十歳前後だろうか。
   >  その頃流行の断髪姿、顔立ちも整った美人だったが、兵隊に犯されて
   >  立つ気力を失ってしまったのだろう、手だけはわずかに動いて、眼は大きく開いていたが、
   >  どこをみているのか、うつろな瞳だった。
   >  通りがかって兵隊がやったものだろう。 裸の股の間に棒キレがさしこまれていた。
   >  女はそれを抜いて捨てる気力もないようにみえた。
   >  兵隊たちが立ちどまって覗きこんでいた。
   >  そのとき、小隊長らしい将校がやってきて、兵隊に向って 「かたづけろ!」 とどなった。
   >
   >  いったいどこへ片付けろというのだろう。 病院もなければ、住民もいない。
   >  手当するようなところもない。 数人の兵が姑娘をかついで行った。
   >
   >  夕暮どき、私は兵隊たちにきいた。
   >  「 あの女、どこへかたづけた! 」
   >  「 焼いちゃいました。 あんな恰好でころがっていたのでは、
   >   死んでも浮かばれないでしょうから、マキを積んで、その上にのせて、焼いちゃいました 」。
   >
   >  彼女は虫の息だったが、たしかに生きていた。
   >  すると、彼女は生きたまま焼かれたのである。

   > 142 日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/11/09 13:19:36  ID:cQTyijmZ(4)
   > > 134
   > > 小俣行男氏「侵掠」より
   >
   >  http://www.geocities.jp/yu77799/omatayukio.html
   >
   >  小俣行男(おまたゆきお)氏は、読売新聞の従軍記者として、
   >  一九三八年一月から一九四二年八月までのほぼ五年間、
   >  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >  日中戦争から太平洋戦争のビルマ戦に至る戦場を駆け巡りました。
   >  その体験談が、「侵掠」「続・侵掠」という二冊の本になって出版されています。
   >  従軍期間からもわかるとおり、小俣氏自身には、「南京事件」の体験はありません。
   >  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >
   > 1937年の南京事件とどんな関係があるんだ?

   > 143 日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/11/09 13:21:49  ID:yh8ZwPBv(17)
   > >134
   >
   > 小説じゃん こんなもの証拠にしてしまうほど、証拠がないんだよね

 南京事件の体験者でもないのに、見たかの様に嘘を吐く、こんな奴の何を信用しろと?

 海千山千の売春婦が規定以上の金を巻き上げる為に、兵士を騙したとか、親や夫が子や妻を売る 際に本当にことが言えなくて適当な嘘を吐いたってのが、基本パターンなんだけど、最初に出てきた中 帰連のオッサンとこのオッサンは、「 兵士は聞いた 」 の兵士が嘘吐きだったというオチみたいですね。


   > ■『こんな日々があった戦争の記録』出版:上越よい映画を観る会,1995年
   > 須藤友三郎 「インドネシアで見た侵略戦争の実態」
   > 1943年以降、北スマトラにいた兵士の記録、コタラジャの慰安所
   >
   >  スマトラ島の最北端にコタラジャという町があります。
   >  私たちは最初ここに上陸し駐屯しました。
   >  この町には当時日本軍の 「慰安所」 があり、朝鮮人の女性が二十名程、
   >  接客を強制させられていました。
   >  みんな二十才前後と思われる農村出身の人たちでした。
   >  「慰安所」 の建物は、ベニヤ板で囲った急ごしらえのもので、
   >  周囲は有刺鉄線が張りめぐらされ、女性たちが逃亡できないよう看守づきのものでした。…
   >
   >  「慰安婦」 の話によると、当時の朝鮮の農村は貧乏でした。
   >  その弱みにつけ込んで、一人当たり二十円程度の前渡金をもってきて、
   >  「日本本土の工場労働者になってもらいたい」
   >  と親をダマし、徴用されたというのです。
   >  ところが船に乗ると日本本土どころか南方に連れてこられ、
   >  しかも突然日本軍の将校にムリヤリ売春を強制させられたと、
   >  涙を流して 「悔しい」 と泣いていました。
   >
   >  しばらくして今度は農村の椰子林の中にまた 「慰安所」 ができました。
   >  ここには、インドネシアの若い女性が十名程収容されていました。
   >  この人たちの話によると、ジャワ島の農村から、朝鮮人の女性と同じようなやり方で
   >  連れてこられたと憤慨していました。

 親が子を売ったというだけの話ですね。

 ちなみに、キーワード [ 須藤友三郎 ] でググらせて頂いたトコロ、

   2007年11月13日 ホーセの見てある記 − 日々の想い への全投稿 −
   須藤友三郎さん宅へ
   http://www.hose1.jp/mitearuki/category13.html
   > きょうは木田の市役所でほとんどを過ごしました。
   > 妻を職場まで送ってから、すぐに木田事務所に入り、
   > 議員控え室に閉じこもって仕事をさせてもらいました。
   > 主な仕事はパワーポイントでのスライドづくりと原稿書きです。
   > 昨年度の決算データなどで数値を確認しながらの原稿書きは結構時間がかかりましたが、
   > 国保会計などは一昨年度のデータと比較できて勉強になりました。
   >
   > 午後2時頃、市役所を出て、先日亡くなられた須藤友三郎さん宅へ行ってきました。
   > 葬儀の時はちょうど吉川高校閉校記念式典や惜別の会と重なっていたので、
   > 参列できませんでした。 それで、ご自宅へ行ってきたというわけです。
   > 奥さんや妹さんなどがおられ、葬儀の時の模様などを語ってもらいました。
   > 三浦さんの弔辞も読ませていただきました。
   > 毛筆で書かれた美しい原稿には、須藤さんの歩みの紹介や憲法9条を守る決意などが
   > 盛り込まれていました。
   > 遺影はだいぶ若い時のものでしょうか、数年前、柿崎町(当時)の人から、
   > 「 須藤さんの演説を聴いて感動したものだ。 いま、どうしてなるね 」
   > ときかれたという話をした時の、うれしそうな表情が浮かびました。
   >
   > 明日は 「郷土料理とバイキングを楽しむ集い」 です。
   > 吉川区からは押し寿司、柿の白和え、冬瓜のデザート、ズイキの煮しめ、
   > 自然薯の天ぷらなどが出ます。
   > 太るかもしれないなんてことは忘れて、大いに食べて楽しんでこようと思います

   > 毛筆で書かれた美しい原稿には、憲法9条を守る決意
   > 毛筆で書かれた美しい原稿には、憲法9条を守る決意
   > 毛筆で書かれた美しい原稿には、憲法9条を守る決意

 この方も真っ赤々ですねw



   > ■ 伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史 - 兵営と戦場生活』番町書房,1969年,p.212
   > 1938年に入隊した作家の伊藤桂一の記録、場所:中国
   >
   >  兵隊と、なんらかの意味で接触する女性は、
   >  慰安婦のほかには、中国民衆(つまりその土地の住民)、在留邦人、慰問団、
   >  それに看護婦くらいなものだろう。
   >  このうち、慰安婦がいちばん兵隊の役に立ってくれていることは事実だが、
   >  慰安婦も多くは、欺(だま)されて連れて来られたのである。


   > ■伊藤桂一『戦旅の手帳』光人社,1986年
   >
   >  騙すのは、看護婦にする、というのと、食堂の給仕にする、というのと
   >  つまり肉体的供与を条件とせず連れて行って、現場に着いたら因果を含めたものである。
   >  逃げる方法はない。

 キーワード [ 伊藤桂一 ] でググらせて頂いたトコロ、

   2010年08月25日 南京の真実を知らせ隊
   「南京城外にて」 著者 伊藤桂一
   http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-35.html
   > 「南京城外にて」は平成9年(1997)月刊「丸」に掲載された短編小説です。
   >
   > 昭和19年(1944)日本軍が鄭州、洛陽を占領していく渦中のこと、南京城外のガス灯の下、
   > 河村軍曹に36歳の老兵・岩崎上等兵が声をかけ、戦争の思い出話となりました。
   > 場所が場所だけに、岩崎上等兵が昭和12年(1937)ラッパ手として果たした
   > 南京攻略戦の渦中が語られました。
   >
   > 伊藤桂一氏は大正6年(1917)生まれの小説家であり、詩人です。
   >
   《略》
   >
   > 戦中派作家として「秘めたる戦記」「新・秘めたる戦記」シリーズを連作しています。
   > 「南京城外にて」はこのシリーズのひとつです。
   >
   > 南京城陥落は日本軍にとって最重要の目的であっただけに、
   > その攻防の凄まじさが描かれます。
   > それも人の目線から。
   > 伊藤桂一氏は戦禍の日本人の心と動きの機微を卓越した筆力によって描いています。


   http://ja.wikipedia.org/wiki/「伊藤桂一」

   > 生い立ち
   >
   《略》
   >
   > 1936年に上野のゴム再生業店に勤め、その後も商社事務員、ビルの清掃業など
   > 職を転々としながら、「日本詩壇」などに投稿。
   > 詩の雑誌『紅籃』『餐』(後に『馬車』『山河』)『凝視』『内在』などに参加。
   > 1938年より習志野騎兵隊に入隊、1939年に北支に出兵、この間も詩作を続け、
   > 短歌数百を作った。
   > 1941年に除隊し、詩誌『馬車』などで詩作。
   > 1943年に再度召集されて佐倉歩兵連隊入隊、南京などに配備され、
   > 上海郊外で伍長として終戦を迎える。
   > 1946年に復員、母と妹の疎開先の三重県三重郡川島村に、次いで愛知県豊橋市に住み、
   > 詩作を続けながら、母とともに婦人啓蒙雑誌『婦妃』を発行。


   http://ja.wikipedia.org/wiki/「南京攻略戦」

   > 背景
   >  ̄ ̄
   > 第二次上海事変で日中の全面衝突が始まった後、日本軍は上海付近の敵を掃討して
   > 中国側の戦意を喪失させ戦争を終結させる目的で1937年8月15日に上海派遣軍を編成して
   > 派遣し、次いで第10軍を派遣した。
   > 11月7日に上級司令部中支那方面軍を編成。
   > 上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線までを作戦制限区域とする。
   >
   > 11月16日、国民政府は重慶への遷都を宣言。
   > 中支那方面軍は独断で作戦制限区域を越え、さらに南京攻略の必要性を上申。
   > 11月24日、大本営は中支那方面軍の作戦制限区域を解除し、
   > 12月1日には南京攻略を命令する。
   >
   《略》
   >
   > 南京自治委員会の発会式
   >  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   > 1938年1月1日、南京自治委員会の発会式が挙行された。

 はい、伊藤桂一氏は南京攻略戦に参加していません。

 先に登場した小俣行男氏と同じ類の輩で、「講釈師、見てきたような嘘をつき」 ですね。



   > ■ 『従軍慰安婦110番 - 電話の向こうから歴史の声が』明石書店,1992年,p.54
   > 陸軍パイロットの証言、場所:マレー
   >
   >  マレーの場合、飛行場は町外れにあったので、町にある慰安所までは、
   >  一、二里あります。 そこで慰安所に行くときはトラックにギッシリ乗って行きました。
   >  中隊ごとに200人ぐらいが外出しました。
   >  …… 「トミコ」という源氏名の朝鮮人慰安婦がいましたが、彼女が
   >  「 私たちは軍属募集され、お国のためと志願してきたのに、裏切られて
   >   … もう、国には帰れない 」
   >  と話していました。 この慰安所の経営者は、年配の日本人でした。

 コレ、証言者は誰だよw



   > ■ 『特集「慰安婦」100人の証言』DAYS JAPAN 2007年6月号,p.16
   > 独立混成第4旅団の兵士、近藤一の証言、場所:中国北部の山西省太原
   >
   >  大隊本部がある太原には慰安所がありました。
   >  …… 日本人女性は将校専用なので下級兵士は行けません。
   >  朝鮮人と中国人の2ヶ所が下級兵士用です。
   >  …… 朝鮮人のところへ行った時には話をしただけでした。
   >  彼女は田舎の出身で家が貧しく、お金儲けができるからと日本の工場へ誘われて来たのに、
   >  気がついたら慰安所で、結局あきらめざるをえなかったと言っていました。

 はい、一発目の榎本正代氏と同様のガチの中帰連が入りました。

   2014年08月17日 正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
   TBSに中帰連登場!反日戦争証言特集で近藤一
   「偉大な中国に人間ではないことをした」・バレバレ
   http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/48246094.html

   > 587: 渡る世間は名無しばかり 2014/08/14(木) 23:41:13.16 ID:GkAGX5u7
   > さっきのジジイは中帰連の回し者決定!!!!!!!!!!!!!!!!!!
   >
   >  【著者略歴】
   >  平和を考え行動する会・会員
   >  撫順の奇蹟を受け継ぐ会(中国帰還者連絡会の後継団体)・会員
   >  著書  日本軍兵士・近藤一 忘れえぬ戦争を生きる(風媒社)
   >  http://eritokyo.jp/independent/bookreview-aokishigeru0001.html
   >
   > 撫順の奇蹟を受け継ぐ会ってなんでつか (´・ω・`)
   > 偉大な中国ってなんでつか (´・ω・`)

 サヨクの方々って、証言者が中帰連であることを指摘すると、「 中帰連だから信用できないと言うの か 」 的な逆上をされるんですけど、裏付けとなる物証のある証言ならイザ知らず、こんなクチから出任 せ言ってる可能性が少なくない “裏付けのない証言”に於いて、証言者が中帰連だなんて、信用できる ワケがありません。

 同じまとめサイトより

   > 支那共産党による、いわゆる「戦犯」(正確には「違法に拘留した捕虜」)への
   > 洗脳についての説明を紹介する。
   >
   > 以下 「あやしい調査団・ 満洲どよよん紀行」 撫順2(戦犯管理所と戦犯裁判)より抜粋
   >
   >  中共建国の翌年の昭和25年(1950年)、日ソ友好条約の締結時、一部の捕虜は
   >  スターリンから中共にプレゼントされ、撫順に収容された。
   >
   >  いよいよ、後日、彼ら自身に 「鬼から人間に戻った」 と言わしめる
   >  洗脳が始まったわけである。
   >
   >  戦犯の処置は新中国の重要な国家政策として周恩来が直接指揮をとり、
   >  管理は司法部ではなく公安部が担当した。
   >  公安部長の羅瑞卿は、延安で多数の日本兵捕虜を洗脳して、
   >  日本軍の正面に送り出してきた捕虜政策のエキスパートであった。
   >
   >  一方ハルピンの尉官級以上の人たちも 「学習」 が続けられ 「総括書」 を書かされた。
   >  これは、学習して得た共産主義の認識に基づき、過去の自分を自己批判しろ
   >  ということである。
   >  罪は重くても完全に共産主義思想になったものは許す。
   >  逆に軽微な罪行でも思想を改造できないものは重く処罰する、としつこく繰り返された。
   >
   >  中共側は共産主義思想に転向してこそ初めて過去の旧思想時代の犯罪を自供できる、
   >  と主張していた。
   >  つまり 「思想改造」 と 「認罪」 の同時工作であり、
   >  中共国内の反革命分子に行使した方法と同じであった。
   >
   >  尉官以上の人が取り調べを受けたのに対し、下士官・兵は坦白大会の方法がとられ、
   >  自分たちで自らを洗脳していった。
   >  ソ連のラーゲリに居た頃も下級兵士ほどアクチブになり易かったのだ。
   >
   >
   >  「認罪運動」
   >
   >  そして本格的な取り調べが開始された。
   >  「坦白するものには軽く、逆らい拒むものには重く」 という取り調べの方針が告知され、
   >  そのスローガンは所内の至る所に掲示された。
   >  これをきっかけに 「認罪運動」 というものも始まった。
   >
   >  「私はこんな酷いことをした」 と戦犯全員の前で自白する発表会がもたれた。
   >  この 「坦白大会」 には、中共党幹部も同席し、管理所の洗脳工作経過を視察するもの
   >  であったが、戦犯達も自分が何を要求されているのかが判り、いよいよ追いつめられて
   >  いった。
   >
   >  認罪学習は、徹底して行われた。
   >  みんなでしつこく何回も何回も犯罪行為を確認し、自己批判・相互批判が繰り返された。
   >  「学習」 とは言うものの、罪の自白とつるしあげ合戦である。
   >  「なんだ、それぐらい、俺なんかもっと凄いもんね」 「お前、それぐらいじゃ足りんだろう」
   >  などとエスカレートしていったのだった。
   >
   >  工作員 (取調官だが、なんともストレートな名前である) は、
   >  一人ひとりについて何年もかけて集めた証言、告発書をもとに尋問した。
   >  つまり、罪状は最初から決まっており 「自白すれば軽く、拒めば重く」 と言われれば、
   >  工作員の言うままに合わせるしかない。
   >  毎日呼びだされ、尋問を受ける。 尋問というより説得であった。
   >  総括書は出す度に点検され、ここが違うとか、こう書けとか注文された。
   >  相手の予定調書と違ったことを自白すれば
   >  それは自分がウソや間違いを言っていることになるのだ。
   >
   >  こういう経過で、日本語にはない罪行や、中共側のでっち上げや過剰な言い分まで
   >  認めざるを得なかった。
   >  とにかく、一日でも早く日本に帰りたい、そのことしか頭になかった。
   >
   >  また、中共側は余計な自白を歓迎した。
   >  本人の罪状だけでなく、伝聞した日本軍の罪状まで採集していった。
   >
   >  戦犯たちは総括書という形で、文章にして提出した。
   >  当然、文章の巧拙や想像力の大小によって、罪業に迫力の差がでてくる。
   >  文章の上手い戦犯はほめられ、他の戦犯の文章指導や代筆までやり、
   >  悪鬼そのものの日本軍が作成されていった。
   >
   >  監禁されるとその苦痛や憤り、自己崩壊から逃れるため、
   >  加害者の立場に自分を置こうとする場合がある。
   >  相手側の一員になった気持ちになるのだ。
   >
   >  撫順に収監された戦犯の中で、下士官・兵などは
   >  特に戦争犯罪など起こしていない人ばかりである。
   >  理由もなく6年も監禁されたのに、自ら戦争犯罪人を認める自白をし、
   >  そのうえ不起訴になったら中共の温情に感謝する、看守達と抱きあって泣いたりしたのだ。
   >
   >
   >  このように、撫順戦犯管理所に収容された日本軍将兵たちの6年間は
   >  「坦白大会」などの「認罪運動」による「洗脳」の日々だった。
   >
   >  そして、何年も洗脳され続けた後にやっと釈放された無実の元日本軍将兵たちだが、
   >  驚くべきことに彼らの殆どが日本に帰っても洗脳が解けないまま余生を送った。
   >
   >
   >  同様のことは朝鮮戦争で人民解放軍に捕まったアメリカ兵にも行われた。
   >
   >  朝鮮戦争の後半の昭和27年(1952年)、北朝鮮と共産支那は
   >  「 米軍がコレラやペストなどの細菌に感染したハエ、ノミ、ダニを
   >   北朝鮮上空から多量に投下した 」
   >  と非難した。
   >  その後、支那は細菌戦が満洲にまで拡大しているとの宣伝を始めた。
   >  当然、米軍は全面的に否定し、この問題の真相は謎となっていた。
   >
   >  ところが、平成10年(1998年)になりロシアで、ソ連時代の秘密文書が公開され、
   >  共産支那と北朝鮮のでっち上げだったことが判明した。
   >  言い出しっぺは支那で、北朝鮮が追従したのだった。
   >
   >  興味深いのは、支那が 「細菌戦に従事した」 という米空軍捕虜19名の供述書を
   >  公開していたことだ。
   >  序文で 「アメリカは石井部隊から細菌戦を受け継いだ」 とし、供述は微に入り細に入り、
   >  あたかも事実のように具体的に述べられていた。
   >  フランス人作家が北朝鮮で供述書に署名した米空軍兵士2名と面会した。
   >  米兵の一人は、大げさな決まり文句を並べ 「供述書の内容は本当だ」 と言い張った。
   >  だが、もう一人は 「自分の供述はたわごとの寄せ集めで、署名したのは
   >  無事に帰国したいためである 」 と語った。
   >
   >  撫順監獄の出来事を彷彿させる話だ。
   >
   >  後日、米国に帰国した捕虜達は、供述書の取り消し書というのに署名したが、
   >  署名したのは四分の一だけだった。
   >  残りの4分の3は、米国に戻っても洗脳が解けることはなかったのだった。
   >
   >
   >  話を元日本兵に戻そう。
   >
   >  昭和32年(1957年)、被洗脳者を多く含む反日元日本兵たちが
   >  「中国帰還者連絡会」(中帰連) を結成した。
   >
   >  中帰連には、撫順・太原からのいわゆる 「帰国戦犯」 の約半数が加入した。
   >
   >  「中帰連」 は、南京大虐殺を否定した河村たかし名古屋市長に抗議した
   >  「日中友好協会」にも団体加入し、親中国、反日、反台湾運動を展開した。
   >
   >  中帰連の連中は、1970年代の南京大虐殺ブームでは 「南京大虐殺」 関連の作文を
   >  多数発表し、1980年代の731部隊ブームでは 「731部隊」 関連の作文を多数発表した。
   >
   >  ▽ 真実 ▽
   >  これまで本名で証言をした人は例外なくすべて嘘であったことが確認されています。
   >
   >  http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_d_3.html
   >
   >  質問6:
   >  南京大虐殺の証言の多くは戦後かなり後になって作られたものですか?
   >
   >  回答6:
   >  そのとおりです。
   >
   >  証言は、それが 『いつ記録されたものか、本当かどうかの検討ができるか』 という2点が
   >  とても大事です。
   >  日本人の中にも南京大虐殺を目撃したとか虐殺したという証言をした人もいました。
   >  しかし、これまで本名で証言をした人は例外なくすべて嘘であったことが確認されています。
   >  例えば、元軍人であれば同じ部隊の人がまだ生きていたりしたので、周囲の人の証言や
   >  記録を調査すれば、彼は南京にいなかったとか作り話であるということなどが判明します。
   >
   >  そのため、最近では日本人に関しては匿名の証言が作られるようになりました。
   >  また、中国人の証言の多くは中国政府(中国共産党)が南京大虐殺の宣伝に
   >  力を入れ始めた以後に作られた(記録された)ものです。
   >  しかも、証言はその証人が本物か、証人は実際に当時の南京にいたのか、
   >  内容は真実かなどの検討が可能であって初めて意味を持つのです。
   >
   >  みなさんも本や被害者だという人の証言をうのみにするのはやめて、
   >  自分が裁判官になったような気持ちで自分の目で証拠 (当時の記録) を
   >  確実に検討してみてください。
   >  そうするといわゆる南京大虐殺は、実体のないものだということがわかります。
   >  証言については、その証言がいつ記録されたのかをまず確認しなければなりません。
   >  例えば、もしあなたが、匿名やその場にいたかどうかも証明できない人の、しかも
   >  事件から何十年後にされた証言だけで、犯罪者とみなされたら納得できるでしょうか。
   >
   > 上記のように、南京大虐殺や731部隊などについて、
   > これまで本名で証言をした人は例外なくすべて嘘であったことが確認されている。

 既にお気付きの貴兄も多いと思われるが、

   2012年12月13日 Transnational History
   ■[資料][慰安婦]日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態
   http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213

 に登場する証言者は [ 場所:中国○○ ] というのが非常に多い。

 初っ端のガチ中帰連

   ■第五十九師団(済南駐屯)の伍長・榎本正代の証言
   場所:中国中部の山東省

 は当然としても

   ■長尾和郎『関東軍軍隊日記 - 一兵士の生と死と』経済往来社,1968年
   関東軍兵士の記録、場所:中国東北部、黒竜江省

   ■『私たちと戦争〈2〉戦争体験文集』タイムス,1977年,p.32
   島本重三 軍「慰安所」 第七三三部隊工兵一等兵の記録、
   場所:中国東北部の吉林省・琿春

   ■長沢健一『漢口慰安所』図書出版社,1983年
   軍医の記録、日本から騙されて連れてこられた女性について。
   場所:中国中部・湖北省武漢市

   ■伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史 - 兵営と戦場生活』番町書房,1969年,p.212
   1938年に入隊した作家の伊藤桂一の記録、場所:中国

   ■『特集「慰安婦」100人の証言』DAYS JAPAN 2007年6月号,p.16
   独立混成第4旅団の兵士、近藤一の証言、場所:中国北部の山西省太原

   ■山口彦三『ビルマ平原 落日の賦』まつやま書房,1987年
   第十八師団の兵士の、日本から騙されて連行されてきた在日・朝鮮人女性についての記録。
   場所:ビルマ(ミャンマー )、中国・海南島

   ■鈴木卓四郎『憲兵下士官』新人物往来社,1974年,pp.91-93
   鈴木卓四郎憲兵曹長(南支・南寧憲兵隊)の証言

   ■溝部一人 編『独山二』〔独立山砲兵第二連隊の意〕私家版,1983年,p.58
   山口時男軍医の1940年8月11日の日記 場所:中国中部

   ■『極東国際軍事裁判速記録』10巻・雄松堂書店,1968年,p.186
   極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決 
   場所:中国南部の桂林

 違うのは、

   ■土金冨之助『シンガポールへの道〈下〉- ある近衛兵の記録』創芸社,1977年
   スマトラのパレンバンで憲兵軍曹として慰安所に関わった憲兵の記録、
   場所:インドネシア・スマトラ島

   ■菅野茂『7%の運命 - 東部ニューギニア戦線 密林からの生還』光人社,2005年
   ウェワクからラバウルに帰還した兵士の記録

   ニューブリテン島・ココポの陸軍「慰安所」に行列をつくり並ぶ兵士たち、時期:1943年末頃
   出典:水木しげる『総員玉砕せよ!』講談社,1995年,p.14

   ■小俣行男『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』冬樹社,1967年
   読売新聞の従軍記者・小俣行男の記録、1942年5月か6月頃、場所:ビルマ

   ■『こんな日々があった戦争の記録』出版:上越よい映画を観る会,1995年
   須藤友三郎「インドネシアで見た侵略戦争の実態」
   1943年以降、北スマトラにいた兵士の記録、コタラジャの慰安所

   ■『従軍慰安婦110番 - 電話の向こうから歴史の声が』明石書店,1992年,p.54
   陸軍パイロットの証言、場所:マレー

   ■輜重兵第三二連隊第一中隊 戦友会 八木会編『我らの軍隊生活』
   カリマンタン・タラカンにいた同中隊の戦中記に記された兵士の記録。時期:1944年

   ■河東三郎『ある軍属の物語 - 草津の墓碑銘』
   (初出:新読書社,1967年)日本図書センター,1992年
   海軍軍属設営隊員の河東三郎の記録、場所:インド領ニコバル諸島

   ■鹿野正伍『ある水兵の戦記』光風社,1978年
   海軍所属の兵士・鹿野正伍の記録。場所:トラック諸島の夏島(現ミクロネシア・チューク諸島)

   ■『海を越える一〇〇年の記憶』図書新聞,2011年
   松原勝「軍による『慰安所』管理は紛れもない事実」pp.109-127
   1942年、第4海軍施設部軍属としてトラック諸島の夏島へ派遣された軍属の記録

   ■陸軍通訳の永瀬隆の証言。場所:シンガポール

   ■『日本人捕虜尋問報告 第49号』1944年

 22件中10件が支那絡みです。

 web上に中帰連加盟者全員のリストが転がっているワケではありませんから、榎本正代氏や近藤一 氏のように自分から中帰連だと喧伝している人でない限り、中帰連かどうかはわかりません。

 「疑わしきは被告の利益に」 や 「推定無罪」 に基づいて日本国の無罪を主張している以上、我々が 支那絡みだったから中帰連に違いないなどと下衆の勘繰りをすることは許されません。
 しかし、それでも、息を吐く様に嘘を吐く中帰連や九条教徒が、判明した以上に潜んでいる可能性は 無視できません。

 既に証言者の中に中帰連関係者が2名,九条教信徒が2名(此処より後でもう1名出現します), 南 京攻略戦に関わっていないのに南京攻略戦の本を出した講釈師が2名混ざっていると判明しました。

 「海千山千の雌狐が新兵の有り金を巻き上げようとして嘘を吐いている」 とか 「子や妻を売った家族 に騙されている」 とか、そういう嘘の可能性以前に、これらの証言自体が「証言者の吐いている嘘」で ある可能性も考慮する必要があるといえるでしょう。

 てゆーか。

 なんでサヨクの人達は、中帰連関係者 とか 九条教使途 とか 南京攻略戦に関わっていないのに南 京攻略戦の本を出した講釈師とか、そういうアカラサマに怪しいヤツの証言は排除しておかないの?

 そりゃ証言の数は減ってしまうだろうけど、「コイツの言う事なんか誰が信じるかよ」 ってヤツを入れ た所為で、サヨクでも何でもない普通の証言者まで嫌疑の目が向けられてしまう。

 それって、物凄い損失だと思うんだが。 頭大丈夫かな?


 閑話休題。 あらかたオチが付いてしまったような気もしますが、証言ウォッチを続けましょう。


   > ■ 山口彦三『ビルマ平原 落日の賦』まつやま書房,1987年
   > 第十八師団の兵士の、日本から騙されて連行されてきた在日・朝鮮人女性についての記録。
   > 場所:ビルマ(ミャンマー )、中国・海南島
   >
   >  第十八師団の兵士が、ビルマのメイミョーの公光荘という軍慰安所で出会った
   >  マリ子という日本名をもつ朝鮮人慰安婦から聞いた話によれば、
   >  彼女は、下関に住んでいたとき
   >  「 対馬の陸軍病院で雑役婦を募集しているから行かないか 」
   >  という話を聞き、紹介人が朝鮮人の産婆で信用できる人なので応募したら、
   >  約一〇〇名の女性と一緒に海南島の軍慰安所に送り込まれたという。
   >
   > ( 吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書,1995年,p.91より重引用 )

 なんか、コレ凄いね。

   > 紹介人が朝鮮人の産婆で信用できる人なので応募

 「信用できる朝鮮人なんかおらんやろ〜」というツッコミ以前に、

    対馬の陸軍病院で雑役婦を募集

 の紹介人が何で産婆さんなんだよw

 人を疑わない性格というより、脳に障碍があるんじゃないか?



   > ■ 輜重兵第三二連隊第一中隊 戦友会 八木会編『我らの軍隊生活』
   > カリマンタン・タラカンにいた同中隊の戦中記に記された兵士の記録。時期:1944年
   >
   >  慰安婦は三十名余りおり、その中の一人に源子名(ママ)を清子(本名リナー)と名乗る
   >  十八才の若い娘を知り、よく遊びに行った。
   >  彼女らはセレベス島のメナドから、東印度水産会社の事務員にすると騙(だま)されて、
   >  ガレラに連れてこられ、慰安婦にさせられたそうである。
   >  彼女らの女学生時代のセーラ服姿の写真を見せられたが、日本の女学生と同じ服装で、
   >  メナド人はミナハサ族といって色白で、日本人によく似た顔立ちで美人であった。
   >  彼女らは当時としては高等教育を受けた良家の子女達であった。
   >
   > ( 『皇軍慰安所とおんなたち』吉川弘文館,2000年,p.118、
   >  『従軍慰安婦』岩波新書,pp.123-124、
   >  「戦争体験記・部隊史にみる『従軍慰安婦』」季刊 戦争責任研究 第5号、94年秋季。
   >  より重引用 )

 これも報告者が誰なのか分かりません。

 そして

   > 彼女らは当時としては高等教育を受けた良家の子女達であった

 というのは、そのまんま

   騙された女性は本当に気の毒だが、なかにはこんな話もある。
   「 『従軍看護婦募集』 と騙されて慰安婦にされた。 私は高等女学校出身なのに 」
   と、兵士や下士官を涙で騙して既定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。
   また、それを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。

 ですね。



   > ■ 河東三郎『ある軍属の物語 - 草津の墓碑銘』(初出:新読書社,1967年)
   > 日本図書センター,1992年
   > 海軍軍属設営隊員の河東三郎の記録、場所:インド領ニコバル諸島
   >
   >  一九四三年秋、(ニコバル島に)内地から慰安婦が四人来たというニュースが入り、
   >  ある日、班長から慰安券と鉄カブト(サック)と消毒薬が渡され、
   >  集団で老夫婦の経営する慰安所へ行った。
   >  順番を待ち入った四号室の女は美人で、二十二、三歳に見えた。
   >  あとで聞いたが、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされ、
   >  わかって彼女らは泣きわめいたという。
   >
   > ( 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.386より重引用 )

 キーワード [ 河東三郎 ] でググってみる。

   2014年04月29日 twilog 山本宗補@asama888
   http://twilog.org/asama888/month-1404
   > (続)軍属といえば、草津栗生楽泉園に戦後に収容された河東三郎さんを思い出す。
   > 結婚して子供もいた河東さんは軍属で徴用され、カール・ニコバル島で
   > 滑走路建設労働などをさせられた。 酷使などで河東さんはハンセン病を発病。
   > 帰国船上では「銃殺にした方がいい」という声も聞いたと話した。
   >
   > posted at 10:35:06

 ああ、赤紙一枚で召集されて、片腕を失った恨み辛みで反日サヨクになってしまった水木しげる氏と 同じ臭いがしますね。 戦争に行かなければハンセン病に罹る事は無く、日本のアウシュビッツ収容所 と呼ばれた国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」に収容されることもなかったのに ・・・ という怨嗟の声 が聞こえて来そうですね。

 ついでなので、河東三郎氏のことをツイートしていた山本宗補氏の名前をキーワードにググってみる

 

 (ノ∀`) アチャー こちらも九条教徒でした。

 しかも

   雨ニモマケズ
   http://serinobu.jimdo.com/最近の読書から/2013年/

   > 『戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記録』(山本宗補・著 彩流社)
   >
   > 本書は今年8月15日発行の新刊です。
   > 被害、加害を問わず著者が70名の戦争体験者に聴き取り、
   > その人の写真と証言を左右2頁に治めた「写真集」でもある。
   > 冒頭に「元中帰連」の小山一郎さん(2010年没)が
   > 自らの「実的刺突」(中国人を縛り付け的の代わりに突き殺す初年兵の訓練)や強制連行、
   > 命乞いをする老婆の殺害などを証言している。
   > 他にも軍医だった湯浅謙さん(2010年没)、
   > 2000年に従軍慰安婦問題を裁いた「女性国際戦犯法廷」で
   > 加害証言をした金子安次さん(2010年没)、
   > 松江市の難波靖直さんの4人「元中帰連」の皆さんが収録されている。
   > 本書は@アジア、中国、シベリア、A東南アジア、B南洋、沖縄、 C本土、空襲、被爆者に
   > 4分類され、その各編に証言者の体験した場所が何処か解る地図も載っている。
   > 兵士の証言のみならず、所謂、従軍慰安婦、開拓団、現地人の証言、
   > 兵隊同様に「赤紙」一枚で招集された元日赤看護婦は「再び騙されてはなない」と訴えている。
   > 知られている通り南方の戦死の多くが「餓死」であり、「人肉を食べていた」との証言や、
   > 自殺した兵士は戦死したことにしたり、沖縄でも軍は民を守らず壕から追い出し、
   > 母親が自らの子を殺害した現場を見た証言などもある。
   > また、毒ガス工場で働いた証言、人間魚雷「回天」の元特攻隊員、沖縄戦を始め
   > 東京、名古屋、大阪などで空襲に遭い孤児になったり傷害を持って生きてきた証言、
   > 一人で反戦と憲法擁護を訴えてきた益永スミコさんは 『原因は自分たちにある』 と
   > 指摘している。
   > 写真家の福島菊次郎の証言も載っており、それぞれの証言者の写真や辛い写真もあるが、
   > 素晴らしい証言写真です。

 日本兵の人食という狂言を流布していた元凶のキチガイでした。

 そりゃこんなのと付き合いがあったという河東三郎氏に関しては、推して知るべしでしょう。



   > ■ 鈴木卓四郎『憲兵下士官』新人物往来社,1974年,pp.91-93
   > 鈴木卓四郎憲兵曹長(南支・南寧憲兵隊)の証言
   >
   >  一九四〇年夏の南寧占領直後に 〈陸軍慰安所北江郷〉 と看板をかかげた
   >  民家改造の粗末な慰安所を毎日のように巡察した。
   >  十数人の若い朝鮮人酌婦をかかえた経営者黄は
   >  〈田舎の小学校の先生を思わせる青年〉
   >  で、地主の二男坊で小作人の娘たちをつれて渡航してきたとのこと。
   >  契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂とのことだったが、
   >  〈兄さん〉 としたう若い子に売春を強いねばならぬ責任を深く感じているようだった。
   >
   > ( 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.383より重引用 )

 単に業者が売春婦に情を移したというだけの話。
 嫌なら、可哀想に思うなら店を畳んで仲介人に金を返せばイイだけだ。



   > ■ 鹿野正伍『ある水兵の戦記』光風社,1978年
   > 海軍所属の兵士・鹿野正伍の記録。
   > 場所:トラック諸島の夏島(現ミクロネシア・チューク諸島)
   >
   >  (夏島の慰安所で) 妓に内地に手紙を出してくれと頼まれた。
   >  「 助けると思って、中を読んでください。 騙されて連れてこられました 」
   >  妓は掌(てのひら)を合わせた。 媚びた感じではない。
   >  妓の目尻に光るものがみられた。

 漸く、海千山千の女狐が客の財布から金を巻き上げる為に吐いている嘘だとは思えない証言が出て 来ましたね。
 で。 問題はこの手紙を貰った兵士・鹿野正伍氏がどうしたか?ですよね。

   手紙を読んで上官に妓の救済を訴えた ─┬→ 訴えを聞き入れて妓は解放=日本軍は正義
.                             └→ 訴えは聞き入れられず=日本軍は悪
   手紙を読んだが握り潰した ──→ この鹿野正伍氏が悪

 という話でしょ。

 実際問題、当時の社会を鑑みるに、本人の与り知らない所で親や夫が本人を業者に売っていて当の 本人だけが知らなかった可能性は決して低くありません。

 それを考慮したら

   手紙を読んで上官に妓の救済を訴えたが訴えは聞き入れられず

 であっても

   本当に嬢は騙されていた ──→ 帰国させなかった日本軍は悪

   本当は親や夫が借金のカタに売った ──→ 帰国させたら借金抱えて死ぬだけ

 なのですから、当時としては手の付けられない問題だったというだけの話です。



   > ■ 『海を越える一〇〇年の記憶』図書新聞,2011年
   > 松原勝「軍による『慰安所』管理は紛れもない事実」pp.109-127
   > 1942年、第4海軍施設部軍属としてトラック諸島の夏島へ派遣された軍属の記録
   >
   >  ― その夏島に「慰安所」があったのですね。
   >
   >  松原 南國寮と南星寮の二か所、同じような規模でね。
   >      ( 夏島の地図を指し示しながら ) このチョンチョン橋を渡って海岸の方へ出て
   >      左折すると四経、四施とあるでしょ、その先に三棟ほどの南國寮がありました。
   >      源氏名でみどりさんという人がいてね、当時22歳っていってました。
   >      だまされてこんな所に連れてこられたってね。
   >      私がそこへ行き泊ると、泊まりを受けなかった女の子たちが3、4人集まってきて、
   >      いろいろ話をしてくれました。
   >      私はどこどこの出身だけど、親やきょうだいと引き離され、
   >      だまされてきたんだというわけですよ。
   >      人によってはね、子どもや夫にも引き離されてきたんだと泣いて訴えるわけです。
   >      高級将校のメイドにならないかとか、海軍病院の雑役の仕事だとか、
   >      30円くらいの月給で食事も泊まる所もただだから1年くらいこないかとね。
   >      でも、ここへ連れてこられて初めて仕事を知って心が裂けるように思ったと。
   >      ひどい話で、日に10人もの相手をさせられるとも言ってました。
   >      僕が第四海軍施設部の職員だと知っていたし、若かったからね、
   >      気を許していろいろなことを話してくれました。
   >      トラック島の「慰安婦」は、朝鮮の女性がほとんどでしてね、
   >      私の叔母が朝鮮の方と結婚しているということや学生のころ朝鮮人の知り合いもい て、
   >      朝鮮人には特別な気持ちを持っていたことも関係していると思いますね。
   >
   > ( http://194586245.web.fc2.com/18.html より )

 ああ、四千円の借金がまるっと返済できて、1万円もの大金が貯金出来たトラック島ですか。

 一日に10人が多数って・・・ワンセット90分間のソープ嬢でさえ、日に5〜6人は客を取るんだよ。

 一人30分間の設定 ( ベテランは、数分間で昇天させて回転率を上げていた ) で日に10人なら楽な 仕事じゃないか。 代わって欲しい位だわ。



   > ■ 陸軍通訳の永瀬隆の証言。場所:シンガポール
   >
   >  シンガポール市街の対岸のブラカンマティ島(現在セントーサ島)に駐留していた
   >  陸軍航空の燃料補給廠で通訳として勤務していた永瀬隆氏の証言によると、
   >  1942年11月になってから朝鮮人慰安婦12〜13人が送られてきて慰安所が開設された。
   >  …… 氏は朝鮮人慰安婦たちに日本語を教えるように部隊長から命じられたので、
   >  その教育にあたった。
   >  彼女らと話をしていた時に
   >  「 通訳さん、聞いてください。
   >   私たちはシンガポールのレストラン・ガールということで100円の支度金をもらってきたが、
   >   来てみたら慰安婦にされてしまった 」
   >  と泣きながら訴えたという。
   >
   > ( 林博史「マレー半島における日本軍慰安所について」
   >  http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper09.htm より )

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   2007年09月09日 真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史
   真実史観戦場に架ける橋帰省者や病死を虐待犠牲者17万と捏造軍罵倒売国奴永瀬隆通訳
   http://sinzitusikan.blog.fc2.com/blog-entry-50.html
   > 1 戦場に架ける橋帰省者や病死を虐待犠牲者17万と捏造軍罵倒売国奴永瀬隆通訳
   >
   > 他虐偽善者の典型永瀬隆
   >
   > 泰緬(たいめん)鉄道 タイ西部を走る、ビルマとタイをつなぐ鉄道。
   > 太平洋戦争中、旧日本陸軍がビルマにいる友軍への物資補給路として建設した鉄道で、
   > 総延長は415キロ。 線路区間は東京大垣間に相当。
   > 地理的には断崖、大密林が続く難ルート。
   > 工期は通常5年はかかるというところ、関係者の必死の努力で1942年7月5日から
   > 1943年10月25日までの1年4ヶ月で開通した。 がしかし5万人〜20万人が死んだ?
   >
   > この矛盾報道が検証した起因だ。
   > こんなに死ねば遅れるのが当たり前、それが短縮とは?
   > 5万人〜20万人の犠牲者を出し、工期短縮など現実論の製造業史観では絶無。
   >
   > 鶴田 勝 元陸軍少尉
   >
   > 木橋架橋。 橋は鉄ではなく木でつくられた。
   > 「 鉄道橋は六百以上架けられました。 これらは急ぐので木橋でした。
   >  鉄橋を作る時間はありませんでした。 戦場に架ける橋は木製でよかったのです。
   >  簡単な構造で手近な材料で、早く修理出来る木橋こそ、戦場に架ける橋に適している」
   >
   > 第九鉄道隊資料から体験を語る 鶴田 勝 元陸軍少尉。
   >
   > 建設に当たったのはタイの鉄道九連隊、ビルマの鉄道五連隊から成り、泰緬鉄道に従事した。
   > 鉄道連隊とは戦地における鉄道の建設・修理・運転や敵の鉄道の破壊を任務とするする連隊。
   > 最盛期1万5千人からなる鉄道隊が担当した。
   > +帝国大学を卒業した土木技師が参加して設計を行い、捕虜は工事の単純労働に従事。
   > 捕虜が橋梁を設計することなど不可能。
   > 捕虜は大本営直轄の捕虜収容所が管理しており、鉄道隊が労働者として借用した。
   > 捕虜の作業は運搬や掘削など簡単な仕事だった。
   > それを全区間同時に着工したので多数の現場があった。
   >
   《 泰緬鉄道の工法等の解説なので割愛 》
   >
   > 日本軍死者1割(1千人/1万人)、
   > 連合軍捕虜(風土病に対して抵抗力弱い)死者2割弱(1万3千人/7万人)
   > (プロパガンダは15000人)
   >
   > 現地人労務者は、風土病に対して強い耐性があるので今がある。
   > 欧米人や、日本人のように弱くは無い。
   > 現地人労務者の病死者は日本人より強いので少ないと考えるのが妥当だ。
   > そして現地人労務者は最盛期10万人
   > ( 工事開始時が最大人数で、鉄道隊と捕虜で間に合う時点では、
   >  給料と食費がかかるので皆帰省させた )
   > で、風土病蔓延期 (連合軍墓地記載の死亡年月日は、1943年6月から10月の雨季) は
   > 仕上げの微調整段階なので、少なかったはずだ。
   > 日本軍死者1千人、捕虜死者1万3千人にもかかわらず工期遅れの記録も無い、
   > 工事人員は十分に足りていたと、想像出来る。 結果この時期の現地人労務者は皆無。
   >
   > 「 現地労働者の犠牲者は30000人にも及んだ」
   > プロパガンダでさえこの人数である。
   > 暴動の記録が皆無なので、現地労働者の死者はほとんど無く、
   > 役目を終え、風土病蔓延期以前に帰省した。
   >
   > 結果5年かかる仕事をわずか16ヶ月の短期間で開通した。
   > 現地労働者の協力以外工期短縮の術は無い。
   > プロパガンダ5万人〜20万人犠牲者では仕事にならない。
   > わずか16ヶ月の短期間での開通は、主力の現地労働者の健康状態を証明している。
   > 主力の現地労働者が皆健康だったから、短期間で開通出来たのだ。
   >
   > 食費のかかる労務者は役目を終えると給料を払いすみやかに皆帰省させた。
   > 残った日本鉄道隊1万人と、捕虜7万人だけが風土病蔓延期に遭遇し、
   > 鉄道隊1割千人、捕虜2割弱1万3千人の病死者が出た。
   > 労務者は既に帰省し居なかったので病死者無し。
   > これが戦後の労務者の犠牲者数、3万人〜10万人の起因となった。
   > つまり帰省したものを犠牲者と数えて捏造で犠牲者数を1/3にしたのだ。
   >
   > 鉄道隊元大隊長菅野兼一資料にも
   > 「 死者は日本軍人千人(1万人の1割)、欧米人一万二千人(7万人の2割弱)、
   >  現地人多数となりました。 (石田英熊証言1万人。軍事裁判検事でさえ3万3千人) 」
   > と、あるのみ。
   > 捕虜の死亡率が高い(日本軍1割、捕虜2割弱)のは虐待死ではなく、
   > 風土病に対してもっとも耐性が弱かったからだ。 不可抗力の死であった。
   > 捕虜虐待死論などは論外、捕虜は大本営から鉄道隊が借りた、大事な戦力なのだ。
   >
   > 泰緬鉄道建設後日本本土に輸送された一部の白人捕虜は
   > 途中で輸送船が米国の潜水艦に撃沈され二千名が死亡した。
   > 米国は 「阿波丸事件」 のように国際協定で緑十字の印をつけた船でも撃沈していた。
   >
   > クワイ川鉄橋から歩いて10分のところに、戦前日本軍によって建てられた慰霊碑がある。
   > 「 泰緬旬連接鉄道建設間不幸病ヲ得テ斃レタル
   >  南方各国労務者及俘虜ノ為此ノ碑ヲ建テ恭シク其ノ霊ヲ慰ム
   >  昭和19年2月 日本軍鉄道隊 」
   > 戦前日本軍は現地カンチャナブリとビルマ側のタンビュザヤに日本軍人除き、
   > 犠牲者全員の慰霊塔を建立した。 日本軍人は靖国神社に祀られた。
   > 泰緬鉄道工事で命を落とされたすべての人々を祀る慰霊塔で日本語の他に、
   > 英語、マレー語、タルミ語、ベトナム語などが碑文に刻まれている。
   >
   > 日本人も現地労務者も、犠牲者がでると、念仏を書いた丸木一本だけ立てられた
   > 土まんじゅうの墓に埋葬。
   >
   > 日本軍は木の十字架をたて、捕虜の遺体はそれぞれ一斗缶と共に埋葬し、
   > その中に当時の日本軍の隊長、捕虜係の名前とともに死因等を詳しく書いたメモが添えられた
   > ( 日本軍は弔った。 あろう事か、これが戦犯確定の証拠となった )。
   > 連合軍は捕虜の墓を探して遺骨を収集し、タイのカンチャナブリおよびビルマのタンビュザヤに
   > 大墓地を作った。
   > メモを基にして、2ヶ所の連合軍墓地に埋葬されているひとつひとつの墓に
   > 氏名、所属部隊、死亡年月日、年齢が添えられた。
   >
   > 連合軍は日本軍の各地の墓地を破壊した。
   > ここが日本人と欧米人の慰霊感覚の違うところだ。
   > ただ日本軍人の霊は靖国神社にお祀りされている。
   >
   > 戦争が終わると、英軍が鉄道を接収し、建設した日本軍人を戦争犯罪人として逮捕した。
   > 泰緬鉄道全体で有罪の宣告を受けた人111人、死刑は32人にのぼった。
   > そして捕虜収容所の関係者が多数虐待され処刑された。 鉄道隊の人も処刑された。
   > 報復だった。
   >
   > ビルマ側は戦後の占領期に英軍が破壊した。 ビルマ独立後も再建されていない。
   > タイ側の鉄道は一部 ( 130Km ) が観光や生活に利用され、
   > この大プロジェクトの資料館 「泰緬鉄道センター」 が作られて多くの観光客が訪れている。
   >
   > 泰緬鉄道の史実 http://business2.plala.or.jp/kokki/taimen1.htm
   >
   >
   > 映画 「戦場に架ける橋」 は仏人ピエール・プールの創作で史実ではない
   >
   > 泰緬鉄道建設の話は
   > クワイ (クウエイと発音が正しい。クワイという発音は意味が異なる) 河マーチの音楽で
   > 有名な映画 「戦場に架ける橋」 でよく知られているが、実際はどうだったのだろうか。
   > 鉄道隊大隊長元陸軍少佐菅野廉一氏は
   > 「 映画は仏人ピエール・プールの創作でまったくのフィクションにもかかわらず
   >  若い人たちの間で史実と思われていることはまことに残念です 」
   > と述べてる。
   >
   > なぜ欧米の捕虜がいたのか。 欧米のアジアの植民地支配はどんなものだったのか。
   > 戦争の経緯が描かれていない。 なぜ欧米軍がアジアにいたのか。
   > なぜ日本軍が泰緬鉄道を作ろうとしたのか、時代背景が説明されていない。
   >
   > 捕虜が橋を設計し、捕虜収容所が橋を建設したのではない。
   > 陸軍鉄道隊(一万五千人)が工事の設計、施工を行った。
   > 捕虜は大本営直轄の捕虜収容所が提供し単純労働に従事したに過ぎない。
   >
   > 捕虜収容所の所長の経歴、大佐が若いころロンドンの学校で工芸の勉強をしたという。
   > 日本の職業軍人の経歴ではありえない話。 所長が宿舎で和服を着用、ありえない。
   > 東洋人であることを強調するための創作。
   >
   > 特殊部隊橋を爆破する。 橋は空から見えるので爆撃すればすむ。 特攻隊は不要。
   > 事実爆撃で破壊された。 地上からの破壊工作はなかった。
   >
   > コレラが大流行した史実が欠けている。
   >
   > 戦後連合国は降伏した日本軍人を捕らえると、殴るける、食事を与えないなどの虐待を行い、
   > さらに報復処刑している。 連合国も奇麗事ばかりしていたわけではない。
   > 互いに悲惨なのが戦争だ。 
   >
   > 映画「戦場に架ける橋」の虚実  http://business2.plala.or.jp/kokki/taimen2.htm
   >
   >
   > 「 僕の知らない戦争があった ― ナガセからの伝言 ― 」 永瀬 隆 2004年
   >
   > 酷使された捕虜と 「労務者」 と捏造する偽善者
   >
   > 私も通訳でシンガポールの駅で捕虜を送るときに通訳したことがあります。
   > 捕虜に食べ物を日本軍以下のものを食べさせた。
   > 彼らはパン食でしょ、だから脚気になったり、腹を下したりして非常に体調をくずしていた。
   > そのときに 「タイ国の保養地に連れていってやる。 志願したい者はおるか 」 というのですね。
   > そうするとみんな保養地があるんならと、志願したんです。
   > それで連れて行った数が68000人。
   >
   > どういう状況で連れていったかというと、私は目撃しているけど、有蓋貨車ね、
   > 貨車の屋根があるでしょ。 あの中にワラが敷いてあるんです。
   > そこへ1貨車に30人くらい入れる。
   > どのくらいの混み方かといいますと、自分が用便をたしにいって帰ってくると
   > 自分の場所がなくなっている、というような状態です。
   > そしてね,有蓋貨車で両側に鉄の扉が開いているでしょ。
   > ところがあれは風が中に入らないんですよ。 1週間かかってマレイ半島に送ったわけです。
   > だからフラフラになってしまった。 飯もまずい。
   >
   > ( 注:皆嘘である。
   >    1942年7月5日から1943年10月25日が工事期間。
   >    1943年9月『開通1ヶ月前』に配属された人には不可能。
   >    着工『1942年7月5日』以前にすでに人員確保完了済み。
   >    路線各部分に分散し、同時進行で工事をしている。
   >    開通1ヶ月前ともなれば、完成した線路もあったはず、
   >    門外漢の労務者は不用なので、食料節約のためにも順次帰省させる段階だ。
   >    足りなければ線路を機関車移動し、応援に回ればよいだけだ。
   >    捕虜を追加したとの記録も無い。
   >    戦後の侮日プロパガンダを、さも臨場したかのように捏造し話しているに過ぎない。
   >    悪意を感じる )
   >
   >
   > そして見せしめのために、日本軍は歩かせたんです、鉄道がひいてあったのに。
   > タイ人にたいする見せしめもあって、白人は全部歩かせたんです。
   > だから現場に行くまでにたくさん倒れてしまった。
   >
   > ( 注:捕虜の労働目的は、泰緬鉄道の早期開通だ。
   >    早期開通目的を妨害するようなことをするはずが無い。
   >    この人は護国の日本軍を貶めている。 己の名誉欲と、物欲を満たすために )
   >
   >
   > そしてそれ以上に、この占領地のビルマは地続きですからね、
   > ビルマから18万人、マラヤから8万5千人くらい、シンガポール含めて。
   > そしてこのインドネシアから4万5千人。
   > つまり30万人ぐらいの労務者を連れていったわけです。
   > それに日本軍が1万2千人ですから、全部で約40万人の人間が
   > この悪疫猖獗の山系にいたわけです。
   > ペストさえもありましたし、米食だから脚気になるんです。
   > それからアメーバー赤痢、マラリア。
   > 私も罹ったことがあるんですけど、ひどい病気ですよ。
   > そういう病気によってどんどん倒れていったんです。
   > とくに労務者の人はあまり衛生思想がなかったからバタバタ倒れていった。
   >
   > ( 注:開通1ヶ月前に配属された人には不可能。
   >    戦後の侮日プロパガンダをさも臨場したかのように捏造し話しているに過ぎない。
   >    膨大な人数 『労務者30万人で死者15万人』 はこの人だけが言っている
   >    『他は最高でも労務者10万5千人』。
   >    侮日プロパガンダ戦争博物館 「JEATH War Museum」 でさえ
   >    『労務者死者3万人』
   >    2001年8月15日のしんぶん赤旗の記事でも
   >    「 ロームシャ約三十万人のうち、約半数(15万人)が犠牲になった 」 と、話している )
   >
   >
   > 30万のうち半数は (15万人) この泰緬鉄道に埋没されています。
   > それはここにも書いてあるんですが、1人のインドネシア人が残ってたので、
   > その人をインドネシアに連れていったときに、そこの村長が、
   > うちの部落からは10人出て行ったが、帰ってきたのは5人だったと言っていた。
   > だいたいそれが平均なんです。 ビルマもみなそうです。
   > でもビルマは地続きだから逃げちゃうんですね。
   > 仕事は苦しいし、敵の爆撃があったりするから。
   > そこで脱走して逃げて帰ると、あくる日、その家に日本の兵隊と部落長さんが来て、
   > 「 夕べよく眠ったか、ご苦労さんやった。 また行ってくれ 」
   > いうて連れて帰るわけです。
   > だから2度目に脱走するときは自分の家に帰れないんです。
   > 帰ったらまた行かなきゃならないから。
   > だいたい労務者として連れていかれる人は1家の働き手でしょう。
   > そういうふうにしてビルマの18万人の家族は全部破壊されてしまった。
   >
   > ( 注:日本人も現地労務者も、犠牲者がでると、念仏を書いた丸木一本だけ立てられた
   >    土まんじゅうの墓に埋葬、日本軍人を除き、犠牲者全員の慰霊塔を建立し
   >    前述のように現在も在る。
   >    墓が無いので泰緬鉄道に埋没と捏造、なんと卑劣な男だ、子孫ではない )
   >
   >
   > ・・・ 私がタイのバンコックへ行ったときは1943年でした。 ・・・
   >
   > ( 注:語るに落ちている。
   >    青山学院大学英語科に在学中、旧日本陸軍に志願。
   >    昭和18 (1943) 年9月に、タイのカンチャナブリ憲兵分隊に通訳兵として配属された。
   >    その時は泰緬鉄道が開通する1ヵ月前。 開通1ヶ月前に配属された人には不可能。
   >    人を集めれば工期が短縮するものではない。
   >    開通1ヶ月前であれば開通した所も数多あり微調整の段階なので、鉄道隊の出番だ。
   >    門外漢の労務者は不用なので、食料消費削減のためにも、給料を払い
   >    順次帰省させるのが常識だ。
   >    終戦2年前労務者は工期を短縮し騒動も無く帰省している、
   >    給料不払いなど皆無だったのだ。
   >    日本軍人でさえ食料不足で苦しんでいた。
   >    捕虜5万7千人いるので、食費のかかる労務者は役目を終えると皆帰省させた。
   >    これが戦後の労務者の犠牲者数、3万人〜15万人の起因となった。
   >    帰省したものを犠牲者と数えたのだ。
   >    侮日プロパガンダは想像で労務者の犠牲者数1/1(3万人)にし、永瀬隆は捏造で、
   >    労務者の犠牲者数1/2(15万人)にしたのだ。
   >    現地人労務者は、風土病に対して強い耐性があるので今がある。
   >    欧米人や、日本人のように弱くは無い。
   >    しかも前述のように風土病蔓延期以前に労務者は役目を終え皆帰省しているので
   >    永瀬隆は労務者を見ていない。
   >    永瀬隆は、戦後の侮日プロパガンダを、さも臨場したかのように
   >    捏造して話しているに過ぎない。
   >    膨大な人数はこの人だけが言っているのだ、己の名誉欲と、物欲を満たす手段として )

   2につづく⇒

   2007年09月09日 真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史
   真実史観2クワイ河に偽善の虹をかけた男たったひとりの捏造騙り偽りの戦後処理
   http://sinzitusikan.blog.fc2.com/blog-entry-49.html
   > 2 クワイ河に偽善の虹をかけた男たったひとりの捏造騙り偽りの戦後処理
   >
   > 護国の兵を貶め悲惨をつまみ食いし正義の使者を気取る偽善者
   >
   > 05年証言集会B日本軍憲兵隊通訳 永瀬隆さんのお話
   > 2005.12.10 アジアフォーラム横浜証言集会。
   > ( 注:泰緬鉄道が開通する1ヵ月前、昭和18年9月に、
   >    タイのカンチャナブリ憲兵分隊に通訳兵として配属された。
   >    軍歴2年の通訳兵。 倉敷市在・英語塾経営 88歳 2005.12.10 )
   >
   >
   > 「 日本軍の一員としてお詫び申し上げます申し訳ありませんでした 」
   >
   > マイクを持ち、自己紹介をされた後、
   > すぐにアフマド (泰緬鉄道建設強制徴用労働被害者と称する人) さんと
   > ワン・ママット (ビルマ強制徴用労働被害者の息子と称する人) さんに深々と頭を下げ、
   > 謝罪した。
   > たくさんの戦争被害者に会って、謝罪と償いをし、和解の道を模索してきた人は
   > 今でもなお、謝り続けている。
   >
   > 「 当時、現場にいたものとして、この方たちがどんな扱いを受けたかを
   >  60年たった今でも昨日のように思い出す。
   >  泰緬鉄道全般にわたり、あの惨劇の全貌を見ているのは私だけだろう。
   >  だから、話さなければならないと思う 」
   > と次のように話し始めた。
   >
   > ( 注:泰緬鉄道が開通する1ヵ月前の配属なので、事実を見たわけではない。
   >    捕虜の遺体探し通訳として立ち会ったことを言っているのだ。
   >    日本軍の埋葬が良かったため、わずか1ヶ月で220ケ所、
   >    1万3千人の遺体を発見した )
   >
   >
   > 泰緬鉄道に30万人のロウムシャ
   >
   > インドネシアから4万5千人、マラヤから8万5千人、ビルマから18万人、合計約30万人が、
   > ロウムシャとして、強制徴用された。
   > さらに、鉄道隊として1万2千人、連合軍捕虜6万8千人が、泰緬鉄道建設のために
   > 送り込まれた。
   > 熱帯の山岳地帯の環境の悪いところでの重労働が悲劇を生まないわけが無い。
   >
   > ( 注:子孫を守るために、そんな悪環境でも先人は頑張ったのだ、
   >    開戦の理由も検証せず先人批判とは。戦争は悪、だから戦争をした
   >    日本人先人は悪人、短絡思考だ。
   >    合計約30万人がロウムシャとして強制徴用され、10万人が虐待され死んたと、
   >    兵役2年の泰緬鉄道が開通する1ヵ月前の配属の永瀬隆この人だけが
   >    誇大に話している
   >
   >
   > 土まんじゅうの墓るいるいと
   >
   > 1945年9月、連合軍命令により、バンコクの日本軍終戦処理司令部から、
   > 泰緬鉄道の地理に明るいという理由で白羽の矢が立ち、
   > 志望した連合軍捕虜の墓地捜索隊の通訳に駆り出された。
   > 鉄道沿線に散らばる東南アジア労務者たちの無数の犠牲者の土まんじゅうを
   > 横目に見ながら、文字通りジャングルの土の根を分け、朽ち果てた木の十字架を目印に、
   > 捕虜の遺体探しに1ヶ月間没頭した。
   >
   > ( 注:捕虜の墓は十字架と、区別していたことが判明する。 敵国に配慮して埋葬している )
   >
   >
   > 線路の路盤に埋められた遺体
   >
   > 捕虜の墓地数は220ケ所で、1万3千人の遺体を発見した。
   > これらの遺体は、カンチャナブリーの2ヶ所の連合軍墓地に埋葬されている。
   >
   > ( 注:短期間の発見は、捕虜の墓は整理されて埋葬されていたことを物語っている )
   >
   >
   > その周りには労務者たちの丸木一本だけ立てられた土まんじゅうの墓がるいるいとある。
   > そのように葬られたのはまだいいほうで、クワイ河に投げ込まれたり、線路の路盤に
   > 土の代わりに埋め込まれた遺体もあった
   > 開墾された畑地からは遺骨が現れていると聞いている。
   >
   > ( 注:泰緬鉄道が開通する1ヵ月前の配属で、事実を見たわけではなく、
   >    戦後のプロパガンダを聞き信じているに過ぎない )
   >
   > 『 1976年、泰緬鉄道関係者の日本側と連合国側の有志がクワイ河で再会した。
   >  そのときに、連合国側の記者の一人から、
   >  「 東南アジア各地から、労務者25万人以上をタイメンに強制連行しており、
   >   そのほとんどがまだ故国に帰還していないのではないか 」
   >  と詰問された。 まったく、寝耳に水のショックであった。
   >  労務者たちは、かえるにパスポートをもたず、未だに泰緬鉄道の沿線で、
   >  掘っ立て小屋にうずくまっているのをわたしは知っている。
   >  私自身、他の泰緬関係者より実状はいちばん良く知っていると自負していただけに、
   >  その数はひどく応えた 』 (クワイ河捕虜収用所 現代教養文庫 社会思想社) より
   >
   > ( 注:泰緬鉄道が開通すれば捕虜も労務者も不要なので捕虜はもとの収容所に戻され、
   >    労務者解雇が常識。開通1ヵ月前の配属で、終戦まで2年間この人は
   >    何を見ていたのか、軍歴を疑いたくなる )
   >
   >
   > 証言者:アフマド・ハムザ73歳 (当時10歳) さん
   > ( 泰緬鉄道建設強制徴用労働被害者と称する人 )
   >
   > アフマドさんは父親と一緒に働きました。
   > 大人は1ヶ月の給料が、2.5から3ドルでしたが、アフマドさんは1ドルでした。
   >
   > 「 父は病気になって亡くなりました。 医者にも診てもらえませんでした。
   >  宿舎の近くに埋葬しましたが、今ではどこかわかりません 」。
   >
   > アフマドさんたちの宿舎は竹で作られ、屋根は草を葺いただけでした。
   >
   > 「 雨が良く降りました。すぐに雨漏りがしました。
   >  マラリア・赤痢・栄養失調で何人も亡くなりました。
   >  毒虫に刺されて亡くなった人もいます。
   >
   >
   > 証言者:ワン・ママット・ビン・ガー (ビルマ強制徴用労働被害者の息子と称する人) さん 
   > 50歳。 強制徴用労働者と遺族の会を率いる。
   >
   > 父親のワン・ガーさんが強制徴用労働者。
   >
   > 16歳だった父は、日用品を買いに店に行く途中で他の30人の人とともに
   > 突然日本軍に捕らえられ、トラックでケランタンに送られました。
   > そして鉄道馬車で移送中多くが飢えと暑さで死んだが、埋葬されることもなく、
   > 車両からただ投げ捨てられるだけだったそうです。
   > そして、3年66ヶ月働いたけど、給料をもらったのは最初の2ヶ月だけ。
   > 父は今では体も弱り、82歳になります。
   > 我々マレー人は泰緬鉄道建設の不払い賃金の支払いを
   > 日本政府に求めるための話し合いを始めました。
   >
   > ロウムシャはマレーシアやインドネシアから徴用されました。
   > 建設現場での死亡は連合軍捕虜1万2千人に対し、ロウムシャは10万人でした。
   > そうした中から、マレー系ロウムシャとその遺族が今、沈黙を破って
   > 不払い賃金の支払いを求める動きを見せています。
   >
   > マレー系住民は日本軍の占領下での犠牲についてこれまで沈黙してきました。
   > 日本軍による分割統治の下、中国系住民との反目もありました。
   > 日本には、マレー半島での日本の加害は中国系住民が騒いでいるだけだと
   > 難癖をつけてきた一部の声がありましたが、戦後60年目の節目に、
   > マレー系住民が、中国系住民とも情報交換をしつつ、沈黙を破ろうとしています。
   >
   > ( 注:なんで戦後60年も経た今語るのだ。 作為を感ずるのは私だけではないはずだ )
   >
   >
   > 両者の会合に参加された高嶋伸欣さんは、長年マレーシアに通ったが、
   > 非常に貴重な動きと述べられ、今回の来日実現にご尽力いただき、日本で初めて
   > マレー系マレーシア人の証言者を迎えることが出来ました。
   >
   > ( 注:高嶋伸欣が煽り、日当を支払い、招待したようだ )
   >
   >
   > 戦争責任に関心のない日本歴史の真実を語り続ける大切さ琉球大学教授 高嶋伸欣
   >
   > アジアの国々では小泉首相や閣僚の靖国参拝は写真入で大きく取り上げられる。
   >
   > 謝罪する一方で靖国を参拝することは誠意が無いと受け取られている。
   > 「 マレーシアの華人団体は日本の常任国入りに抗議する集会を開いた 」
   > と2005年4月25日の東京新聞のみが報じている。
   > アジアの人々に今の日本の戦争責任に対する対応がをおかしいと思っている人たちが
   > 日本にもいるということを知ってもらうためにも、今日のこの集会は大切だと思う。
   >
   > 昨年の23月8日の朝日の社説は「真珠湾攻撃から太平洋戦争は始まった」 と書いていた。
   > 新聞社の論説委員に
   > 「 真珠湾攻撃の1時間前にコタバルに日本軍は上陸していた。
   >  この戦争は東南アジアや中国を旧帝国主義国と新帝国主義国の覇権争いという
   >  戦争の輪郭をはっきりさせないといけないのではないか 」
   > と電話した。 今年の社説は少し良くなっているのでやはり言い続けることが大切だと思った。
   > 言い続けることで歴史の認識を変えていけるのではないか。
   > そのためにも、このアジアフォーラムのような小さな組織が
   > 毎年アジアの戦争被害者を招き、証言集会をすることは大切だ。
   >
   > ( 注:宗主国に攻められて、自衛のためアジア解放に立ち上がった日本に、
   >    戦争責任などあるはずが無い。 鵜呑みし嘘を撒き散らす職責も果たさない鵜人だ )
   >
   >
   > 呼びかけ人
   > ( 注:無検証で鵜呑みし、捏造を撒き散らす、捏造でも成り立つ非製造業者。
   >    非現実論の非製造業者仮想現実界 「通訳、作家、教授、先生、マスコミ」 は
   >    職責も果たさず嘘でも成り立つ職業なのだ。 私も騙されていた。 鵜呑み危険 )
   >
   > 石田甚太郎(作家)、笠原十九司(都留文科大学)、信太正道(厭戦庶民の会)
   > 高嶋伸欣(琉球大学教授・高嶋教科書訴訟原告)
   > 高良真木(日中友好神奈川県婦人連絡会)、俵義文(教科書ネット21)
   > 西野瑠美子(ルポライター VAWW-NETジャパン)、林博史(関東学院大学)
   > 前田朗(東京造形大学)川田龍平(松本大学)2005.10.25現在 
   > 12.8を忘れない アジア・フォーラム横浜 第12回証言集会 
   >
   >
   > 『運命の旅路〜元通訳兵の戦後〜』 (岡山放送)
   > ◆ 放送日時 2006年8月20日(日)深夜2時55分〜3時50分放送
   > 第15回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
   >
   >
   > ・・・ 岡山県倉敷市に住む永瀬隆さん(88歳)は、
   > 今、この泰緬鉄道の世界遺産登録を求める活動を行っている。
   > 日本にとってはいわば 「負の遺産」 といえる鉄道を、なぜ世界遺産登録しようとするのか…。
   >
   > 大正7年生まれの永瀬さんは、青山学院大学英語科に在学中、旧日本陸軍に志願。
   > 昭和18年9月に、タイのカンチャナブリ憲兵分隊に通訳兵として配属された。
   > その時は泰緬鉄道が開通する1ヵ月前。すでに1万人もの捕虜は遺体となって埋葬されてい た。
   > 戦争と泰緬鉄道の真実を永瀬さんが知ることになるのは終戦直後のあることがきっかけだっ た。
   >
   > 防衛庁防衛研究所の資料を見ると、泰緬鉄道建設に従事した連合軍捕虜は6万1800人。
   > そのうち7割が病に倒れ、1万2000人以上が死亡したと言われている。
   > 病気で多いのはマラリアと熱帯性の潰瘍。
   >
   > ・・・ 永瀬さんの人生を大きく変えたのは終戦後の運命的な3週間だった。
   > 泰緬鉄道沿いに転々と埋められていた連合軍捕虜の遺体発掘調査を
   > 連合軍から依頼された永瀬さんは、朝から晩まで作業を続け、連合軍将兵と一緒に、
   > 220カ所の埋葬場所を探り当てて遺体を掘り返した。
   > 永瀬さんは捕虜の遺体がそれぞれ一斗缶を抱いているのに気付く。
   > その中のメモには当時の日本軍の隊長、捕虜係の名前とともに死因が詳しく書かれていた。
   > それを元に、捕虜に対して残虐行為を行った旧日本軍将兵は戦後の戦犯裁判で
   > 次々に裁かれていったのだ。
   > 戦争時の捕虜虐待を禁じたジュネーブ国際協定が交わされたのは、
   > 太平洋戦争が始まる12年前。
   > しかし、日本政府はこの協定を 「準用する」 という曖昧な立場をとり、
   > 日本兵に協定の存在を教育することもほとんどなかった。
   >
   > 日本軍に対する失望。
   > 何も信じられなくなっていた永瀬さんに、一筋の光が差したのは
   > 終戦から1年ほど経った頃だった。
   > 永瀬さんに法律論・責任論を超えたひとつの信念が芽生えたのだ。
   > 永瀬さんは私財を投げ打ってカンチャナブリに小さなお寺を建立。
   > これまで120回以上タイを訪れ、異国の地に散った捕虜たちの霊を慰めている。
   > 永瀬さんの発言や行動に不快感を抱く元日本兵や日本人も少なくないが、
   > ひとりの日本人として亡くなった人たちに謝罪したいと永瀬さんは言う。
   >
   > その人生が、まさに泰緬鉄道に導かれてきた旅路であるといえる永瀬さんも今年88歳。
   > 泰緬鉄道の世界遺産登録を、歴史を語り継ぐ活動の集大成と位置付けているのである。
   > 永瀬さんの姿を通し、戦争の悲惨さだけでなく、歴史を正しく伝える大切さを描いていく。
   >
   > ( 注:戦争は悪、だから戦争をした日本の先人は悪人、
   >    短絡思考で永瀬隆が、私利私欲偽善で謝れば謝るほどに
   >    先人が、日本が、貶められていることに気付いていない、
   >    木だけを見る私利私欲の偽善者だ。
   >    先の大戦を検証もせず護国の兵を極悪軍人と決めつけ、
   >    不可抗力の疫病死を虐待死であるかの様な報道をする報道者も同罪だ。
   >    互いに残酷なのが戦争だ。 日本人だけが残酷なのではない )
   >
   >
   > 暮らし・元陸軍憲兵隊通訳・永瀬隆さんの夏
   >
   > 横浜市保土ヶ谷区にある英連邦戦死者墓地で2006年8月5日の午前営まれた
   > 戦没捕虜の追悼礼拝での元陸軍憲兵隊通訳・永瀬隆の挨拶。
   >
   > 「 わたしは終戦直後、泰緬(たいめん)鉄道の沿線の
   >  捕虜の墓地の調査隊の通訳をやりまして、3週間、朝から晩まで
   >  捕虜のご遺体を拝見しまして、いかに日本人が残酷になれるかということを
   >  身を沁みて感じました。 そのことを知っているのはこの私ひとりだけです」
   >
   > ( 注:偽善者誇示 )
   >
   >
   > ・・・ 「 わたしたちは本当になんとも申し訳ないことをいたしましたので
   >  (母校の)青山学院の関係者が集まりましてこういうこと(追悼礼拝)を始めましたが、
   >  歴史の続く限り、日本国の続く限り、学校の続く限り続けていきたいと思います。
   >  みなさまごいっしょにここに眠る1800余りの人のご冥福をずっと祈っていただきますように
   >  今後のご協力をお願いいたします 」
   >
   > ( 注:追悼礼拝は立派なことである。
   >    しかしそのために日本人を冒涜し己の名誉欲(私利私欲)を成すとは、語るに落ちてい る。
   >    永瀬隆は、不可抗力の病死を、虐待死と捏造しているのだ。
   >    互いに残酷なのが戦争だ。 日本人だけが残酷なのではない。
   >    永瀬隆は、ここが欠落している。
   >    5万人〜20万人の犠牲者を出し、工期短縮など現実論の製造業史観では絶無。
   >    非現実論の非製造業者 「通訳、作家、教授、先生、マスコミ」 は職責も果たさず
   >    嘘でも成り立つ職業なのだ。 私も騙されていた。 鵜呑みせず検証しよう )
   >
   >
   > 開国以来10から20倍以上の超大国と、資源の無い小国日本は対峙し、
   > 弱肉強食の時代 (話し合いではなく、武力で物事を解決する時代) を軍国の衣をまとい
   > 皇民化し一丸となり、不可避の戦いを戦い護国し、国づくりに励み、今の日本がある。
   > 禍の無い物づくりなど絶無。
   > 護国し国づくりの過程の禍を、己の名誉欲を満たすため、針小棒大に拡大し、
   > あらんかぎりの罵倒をする、子孫と名乗る輩がいる。
   > 物事には必ず禍福があるのだ。 偽善者の典型、こんな輩は子孫ではない。
   >
   >
   > 東京裁判判決から43年後の平成3 (1991) 年秋NHKスペシャル番組での
   > 日本人通訳の証言
   >
   > 「 日本人として同じ日本人である戦犯に、被告を死刑に処するなんていう
   >  酷な通訳が出来ますか!
   >  判決文の通訳だけは、日系のアメリカ人に代わってくれと言ったんです 」
   >
   > 「デス・バイ・ハンキング」 の通訳を断ったという日本人通訳43年後の証言。
   > 当時も現代と同様の戦犯バッシングの最中で、なんと、犯日工作員の巣窟NHKでだ。
   > 当時の日本人の心根と、気概を語って余りある。
   > 元陸軍憲兵隊通訳歴2年・偽善者永瀬隆と、なんと対比が際立つことか。
   >
   >
   > 【産経抄】の温まる話
   >
   > 泰緬鉄道は日本軍が英蘭捕虜を酷使したと戦後プロパガンダされ、
   > 「死の鉄道」 といわれた。
   > ところが、ビクロムさんの母 (当時17歳) は、
   > 日本兵が本当はやさしい人々であったと息子に話していた。
   > 一念が岩をも通すというのは本当だった。
   > 4カ月前の小欄で、戦時中の泰緬鉄道に関係した日本兵を探す
   > タイ人の著名ビジネスマン、ビクロム・クロマディットさん(53)のことだ。
   > そのビクロムさんが、鉄道第9連隊第6中隊で、彼の母親を知る大塚高二さん(91)と
   > 対面したのだ。 2006年12月7日 【産経抄】
   >
   >
   > カンチャナブリの戦争記念館前にはこう書かれている
   >
   > Forgive But Not Forget 
   >
   > 以前 → 日本鉄道隊を許そう でも 忘れない
   >
   > 以後 → 宗主国を許そう でも 忘れない
   >
   >
   > 防衛庁防衛研究所の資料 『カンチャナブリ戦争博物館』の資料より 
   > 「ある戦犯の手記」 (樽本重治著 現代資料出版 3200円+税) 
   > 鉄道第九連隊資料 泰緬鉄道建設体験記 『運命の旅路〜元通訳兵の戦後〜』

 要約すると、泰緬鉄道開通1ヶ月前に赴任して来て、現場を何も見ていないのに、この永瀬隆は自分 が正義の人であったという捏造史を史実化するために、サヨクの傀儡となって見て来たような嘘を撒き 散らした反日売国偽善者。
 泰緬鉄道に於いてコレなのですから、シンガポールで朝鮮人慰安婦たちに日本語を教えていた時の 話というのも、当然の事ながら信用できません



   > ■ 溝部一人 編『独山二』〔独立山砲兵第二連隊の意〕私家版,1983年,p.58
   > 山口時男軍医の1940年8月11日の日記 場所:中国中部
   > 1940年8月、湖北省董市附近の村に駐屯していた独立山砲兵第二連隊は、
   > 「慰安所」の開設を決定し、保長や治安維持会長に「慰安婦」の徴募を「依頼」した。
   > その結果、20数名の若い女性が集められたが、その性病検査を担当した軍医は、
   > 8月11日の日記に次のように記録している。
   >
   >  さて、局部の内診となると、ますます恥ずかしがって、なかなか襌子(ズボン)をぬがない。
   >  通訳と維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせる。
   >  寝台に仰臥位にして触診すると、夢中になって手をひっ掻く。
   >  見ると泣いている。 部屋を出てからもしばらく泣いていたそうである。
   >  次の姑娘も同様で、こっちも泣きたいくらいである。
   >  みんなもこんな恥ずかしいことは初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、
   >  屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。
   >  保長や維持会長たちから、村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣く来たのであろうか?
   >  なかには、お金を儲けることができると言われ、応募したものもいるかも知れないが、
   >  戦に敗れると惨めなものである。 検診している自分も楽しくてやっているのではない。
   >  こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙しているという意識が
   >  念頭から離れない。
   >
   >  ( 『日本軍「慰安婦」制度とは何か』岩波書店,2010年,pp.25-26より重引用 )

 この辺は、まぁ、真実かも知れません。

 しかし、朝鮮半島に居た、朝鮮人を相手に商売をしていた職業売春婦の多くは、売春婦になって以 来、タダの一度も性病の検査を受けたことがない可能性が高いと言う事を考慮する必要があります。

 つまり、検査を拒否しているのは 「 恥ずかしいから 」 ではなくて、「 性病が発覚したら商売が出来な くなるから 」 である可能性があるということです。

 いやまぁ、さすがにゲスパーが過ぎますかね。

 実際は、やはり本人の与り知らないトコロで親や夫に売られた可哀想な女性達だったのでしょう。



 もうぼちぼちネタ切れのようで、次は毎度おなじみ『日本人捕虜尋問報告 第49号』の登場です。

   > 公文書に記述された慰安婦の強制
   >
   > ■ 『日本人捕虜尋問報告 第49号』1944年
   >
   > 1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた
   > 20名の朝鮮人慰安婦と2名の日本人の周旋業者に対する尋問調書。
   >
   > 場所:ビルマ・ミッチナ(ミャンマー・カチン州)
   >
   >  1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された
   >  東南アジア諸地域における 「慰安役務」 に就く朝鮮人女性を徴集するため、
   >  朝鮮に到着した。
   >  この 「役務」 の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、
   >  包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると
   >  考えられていた。
   >  これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、
   >  それに、楽な仕事と新天地 ―― シンガポール ―― における新生活という
   >  将来性であった。
   >  このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、
   >  2、3百円の前渡し金 (前借金) を受け取った。
   >
   > アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日
   > http://megalodon.jp/2008-1206-1528-25/members.at.infoseek.co.jp/ash_28/ca_i02_1.html
   >
   > この資料は歴史修正主義者に都合良くつまみ食いされることが多いのですが、
   > 丁寧に読んでいけば、軍から慰安婦の徴集を依頼された日本人の業者が
   > 朝鮮半島で騙しによる誘拐と人身売買によって、連行当時17,8歳の未成年を含む
   > 女性たち22名を連れて来ていること。
   > そして女性たちが軍の管理下の慰安所で本人に意思に反し性的“慰安”を強要されたことが
   > 明らかにされています。

 本当に息を吐くように嘘を吐くサヨクですね。

   この資料は歴史修正主義者に都合良くつまみ食いされることが多い

 は何と云う 「 お前が言うな 」 でしょうか。

 この史料には 「サヨクにとって有利な部分」 と 「ネトウヨにとって有利な部分」があり、双方が自分に とって都合の良い部分だけを取り上げて主張しています。

   アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日
   http://megalodon.jp/2008-1206-1528-25/members.at.infoseek.co.jp/ash_28/ca_i02_1.html

 の始めから順次ピックアップしてみましょう。

   ◇ サヨクにとって有利な部分 ◇

   ・ 「慰安婦」という用語は、日本軍特有のものである。

   ・ この報告は、日本軍によって徴集され、かつ、ビルマ駐留日本軍に所属している
    朝鮮人「慰安婦」だけについて述べるものである。

   ・ 日本は、1942年にこれらの女性およそ703名を海上輸送したと伝えられている。
     → 703名を海上輸送した = 703名が強制連行されて強制売春させられた。

   ・ 1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された
    東南アジア諸地域における 「慰安役務」 に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。
    この 「役務」 の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、
    包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると
    考えられていた。
    これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、
    それに、楽な仕事と新天地 ――シンガポール―― における新生活という将来性であった。
    このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を
    受け取った。
    これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」 に以前からかかわっていた者も若干いたが、
    大部分は売春について無知、無教育であった。
    彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額に応じて
    6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と 「慰安所の楼主」 のための役務に束縛した。

   ・ 「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点で
    どの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、
    慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。
    これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。
    慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。
    多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、
    彼女たちは生活困難に陥った。

   ・ 彼女たちは、「慰安婦」 が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と
    要望した。
    彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の慰安婦の生命が危険になるから
    である。


   ◇ ネトウヨにとって有利な部分 ◇

   ・ 「慰安婦」とは、将兵のために日本軍に所属している売春婦、
    つまり「従軍売春婦」にほかならない。

   ・ 日本は、1942年にこれらの女性およそ703名を海上輸送したと伝えられている
     → 703名を海上輸送した = 「来た人」 と 「帰った人」が居る

   ・ 尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は25歳くらいで、
    無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。
    慰安婦は、日本的基準からいっても白人的基準からいっても、美人ではない。
    とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。
    見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、
    「女の手練手管を心得ている」。

   ・ ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。
    この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。
    食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金は
    たっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。
    彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、
    それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
    彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、
    また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。
    彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。

   ・ 慰安婦は接客を断る権利を認められていた。
    接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。

   ・ 1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には
    帰国を認める胸の指示を出した。 その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。

   ・ 尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。
    彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、
    また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。
    慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気配りすように
    十分な訓練を受けていた。
    日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦は
    すべて処置を施され、隔離されたのち、最終的には病院に送られた。

   ・ 結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。

 まぁ、バカサヨクでもネトウヨでもない一般人が先入観抜きで普通に読んだら、
 「 騙されてやってきても、人はその環境に慣れてしまうんだなぁ 」
 「 性奴隷と呼ぶには恵まれた環境だったんじゃないのかな。 肉便器に求婚なんかしないよね 」
 位にしか感じないと思います。

 報告書を作成するために尋問を始めていた頃には、もう十分過ぎるほどにハイパーインフレが進ん でいましたので、バカサヨクは

   ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。

 と書いてあるものの

   この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。

 と但し書きが付いているので、尋問を受けた近日は生活が大変だったに違いない、と妄想を膨らませ ます。
 しかし、この 『日本人捕虜尋問報告 第49号』 は太平洋戦争の真っ只中に於いて、日本軍の悪逆非 道っぷりを喧伝するために作成された報告書です。
 日本軍が大量の軍票を刷ったことによって、慰安婦の生活が困窮していたなら、それに言及しない理 由はありません。 言及されていないということは、それほどトンデモナイ困窮ではなかった、ということ でしょう。

 後は、この

   この 「役務」 の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、
   包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると
   考えられていた。
   これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、
   それに、楽な仕事と新天地 ――シンガポール―― における新生活という将来性であった。
   このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を
   受け取った。
   これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」 に以前からかかわっていた者も
   若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。

 にある

   慰安婦達の大部分は、根っからの売春婦ではない普通の女性たちであり、
   病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやる仕事だと偽られて応募した
   詐欺の被害者である

 という部分を先述の

   騙された女性は本当に気の毒だが、なかにはこんな話もある。
   「 『従軍看護婦募集』 と騙されて慰安婦にされた。 私は高等女学校出身なのに 」
   と、兵士や下士官を涙で騙して既定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。
   また、それを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。

 を適用して、

   もしかしたら、新しい客に成るかも知れない尋問官に
   同情を買わせようとして吐いた嘘かも知れない

 と下衆の勘繰りをしたら、この『日本人捕虜尋問報告 第49号』に書かれている内容は、その大半が ネトウヨに有利な内容になってしまいます。

 もちろん、

   騙された女性は本当に気の毒だが、なかにはこんな話もある。
   「 『従軍看護婦募集』 と騙されて慰安婦にされた。 私は高等女学校出身なのに 」
   と、兵士や下士官を涙で騙して既定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。
   また、それを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。

 を適用させるのは、下衆の勘繰りでしかありません。

 しかし、先から繰り返し書かせて頂いている通り、本当に

   慰安婦達の大部分は、根っからの売春婦ではない普通の女性たちであり、
   病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやる仕事だと偽られて応募した
   詐欺の被害者である

 であったなら、彼女達の任期は、

   6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と 「慰安所の楼主」 のための役務に束縛した。

 でしたから、任期を終えて帰国した被害女性達が

   病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、
   そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事である

 というのは、

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 と騒いで、日本軍.が用意した嘘は瓦解してしまったでしょう。

 でも実際に、そんな騒ぎは起こりませんでした。

 この事実が

   この 「役務」 の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、
   包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると
   考えられていた。

 の正体が

   新しい客に成るかも知れない尋問官に同情を買わせようとして吐いた嘘

 もしくは

   儒教的に目上の存在である親や夫に売られた可哀想な女性
   ( だから、帰国した後でも訴えることができなかった )

 であるという可能性が極めて高い事を示しています。



 いよいよ、次がラストの様です。


   > ■ 『極東国際軍事裁判速記録』10巻・雄松堂書店,1968年,p.186
   >
   > 極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決 
   >
   > 場所:中国南部の桂林
   >
   > 桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。
   > 工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。
   > こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した

 東京裁判の判決文のなかに、日本の軍隊が女性を 「女工を募集」 と騙して集め
 「醜業(売春)を強制した」 と記述されています。
 これは軍が女性たちに売春を強制し慰安婦にしていた証拠ですが、
 ここで重要なのは、このような犯罪行為が当時、軍のなかでなんら問題にされず
 見過ごされていたということです。

 へーほーふーん。

 日本の軍隊に依頼された業者が

   女性を 「女工を募集」 と騙して集め 「醜業(売春)を強制した」

 ではなくて、

   日本の軍隊が女性を 「女工を募集」 と騙して集め 「醜業(売春)を強制した」

 ですか、そうですか。

 だったら、日本軍が慰安婦の強制連行に直接関与したという重大な証拠ですよね。

 どうして、国会で安倍首相にコレを突き付けないの?

 日本政府は、「 日本軍が慰安婦の強制連行に直接関与した事を示す証拠は存在しない 」 と言って のらりくらりと逃げ回っているんでしょ。 こんなに素敵な “証拠”があるのに、どうして活用しないの?  それとも活用したけど返り討ちに遭っちゃったの?

 どっちにしても、弁護側の反論が一切無視された極東国際軍事裁判での判決なんか何の根拠にもな りません。

 裏付けのある証言か、もしくは物証を持って出直しなさい。



 暇に飽かせて、徒然なるままに全ての 「兵士が見た可哀想な慰安婦の実態」 を検証して来ました が、やはり、これらの証言を以て 「日本軍が業者の犯罪を看過していた」 と結論付けることは出来ま せんでした。

 理由のひとつめは、風俗嬢が客から金を巻き上げる為に嘘を吐くのは、今の日本人の性風俗嬢でも 普通の事。 それが、今現在に偽証罪は日本の427倍、誣告罪は542倍なんていう嘘吐きである朝鮮 人女が性風俗嬢をやっていたんだから、本当の事を言っていると信じる方がアタマオカシイです。

 理由のふたつめは、当時は貧困に喘いだ挙句に、子や妻を売春宿に売るなんて悲劇が日常的に起 こっていた。
 その際に、親や夫から嘘の就業先を教えられていた所為で、「騙された」 となった可能性が高い。

 理由のみっつめは、 「兵士が見た可哀想な慰安婦の実態」 の“兵士”が、中帰連や九条教信徒,ガ チサヨク等、日本を貶める為に吐く嘘なら躊躇しない屑である可能性が高い ( 証言の幾つかは、既に 屑の発言であることが判明しています )。

 これだけ懐疑的に成らざるを得ない点が揃っていて、「やっぱり、日本が悪い」 はありえません。

 サヨクは、「これさえ貼ればネトウヨは押し黙るに違いない」 とばかりに、ありとあらゆる掲示板に繰り 返し繰り返しコレを貼っていやがりますが、こんなもの百均で売ってるお呪いの御札ほどの効果もあり ません。

 ちゃんと

 ・ 本人が嘘を吐いている可能性が皆無で

 ・ 自分を売った親や夫に騙されていた可能性も皆無で

 ・ 中帰連や九条教信徒,脳味噌お花畑サヨク等が妄想を騙っている可能性も皆無な

 証言を持って来なさい。

 逆に、こんなものしか貼れないなら、それはもう負けを認めるしかありません。

 これ等は、それ位にしょうもない証言群です。


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