『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責任』 を斬る 《跡地》



Q&A - 2 慰安所における実態

 - 8 文玉珠(ムン・オクチュ)さんはビルマで大金持ちになった? を斬る

 引用元URL → http://fightforjustice.info/?page_id=166 (なお魚拓は無効な構造です)

   ↓ ↓ ↓

 発覚したのは、平成25年12月03日ですが、webサイト 『 Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却 への抵抗・未来の責任 』 の構造が変更になり、魚拓の取得が可能になりました ( 一部で取得エラー が出ますが ) 。 さっと目を通した限りで文章の変更は無い様に思われます。


 2-8 文玉珠(ムン・オクチュ)さんはビルマで大金持ちになった?
 http://fightforjustice.info/?page_id=2391 ( 魚拓 )


 以下、青い色の文字がwebサイト『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責 任』からの“引用”です。


 Q&A編 2 慰安所における実態

 8 文玉珠(ムン・オクチュ)さんはビルマで大金持ちになった?

 「慰安婦」は金儲けをしたのかのように言っているものがありますが、
 そういう主張の例に挙げられるのが、ビルマの慰安所に送られた文玉珠(ムン・オクチュ)さんが
 2万円以上貯金をしていたことです。
 2万数千円は現在の価値でいえば数億円にあたると吹聴している人さえいます。

 またアメリカの戦時情報局Office of War Information(OWI)のレポート第49号(1944.10.1)や
 東南アジア翻訳尋問センターSEATICのレポート(1944.11.30)のなかで
 慰安婦の収入が月300円から1500円ほどあったことも、その理由に挙げられています。
 ここでは、文さんのケースを検証しましょう。

 1 ビルマにいた「慰安婦」が得たお金

 ビルマで得た収入ですから、日本国内の円ではなく、ビルマで流通していた軍票または
 南方開発金庫券(南発券)です。
 後者は厳密に言えば、軍票ではありませんが、事実上は、軍票と変わらないし、
 日本人にも現地の人にも軍票として認識されていました。


   [ 画像:マレー半島で使われていた軍票 省略、(引用元アドレスをご参照ください)

   マレー半島で使われていた軍票


 2

 慰安婦の月収が1500円ほどあっても、楼主に月750円を渡していました。
 また 「 多くの楼主は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしたため、
 彼女たちは生活困難に陥った 」 とあります。
 つまり慰安婦の生活は、 「 多額 」 の収入にもかかわらず楽ではなかったことが書かれて
 います。 その一因は業者による収奪ですが、それだけにはとどまりません。

 

 同じ資料から自分に都合の良い部分だけを提示して、自分に都合の悪い部分は黙して語らず、です か、そうですか。 インターネットが普及した今日に、そんな手段はもう通じないんですよ。

 

   http://texas-daddy.com/comfortwomen.html
   ※ htmlファイルがダウンロードされます。 ファイルを開くとページが見れます。

   > PAY AND LIVING CONDITIONS;
   >
   > The "house master" received fifty to sixty per cent of the girls' gross
   > earnings depending on how much of a debt each girl had incurred
   > when she signed her contract.
   > This meant that in an average month a girl would gross about fifteen hundred yen.
   > She turned over seven hundred and fifty to the "master".
   > Many "masters" made life very difficult for the girls by charging them high prices
   > for food and other articles.

   > 報酬および生活状態
   >
   > 「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦 が、契約を結んだ時点で
   > どの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、
   > 慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。
   > これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。
   > 慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。
   > 多くの「楼主」は、食 料、その他の物品の代金として慰安婦たちに
   > 多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。

 ↑ これが、そちらが引用した部分。 そのひとつ前のページに↓こう書かれています。

   > LIVING AND WORKING CONDITIONS;
   >
   > In Myitkyina the girls were usually quartered in a large two story house
   > (usually a school building) with a separate room for each girl.
   > There each girl lived, slept, and transacted business.
   > In Myitkina their food was prepared by and purchased from the "house master"
   > as they received no regular ration from the Japanese Army.
   > They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places.
   > This was especially true of their second year in Burma.
   > They lived well because their food and material was not heavily rationed
   > and they had plenty of money with which to purchase desired articles.
   > They were able to buy cloth, shoes, cigarettes, and cosmetics
   > to supplement the many gifts given to them by soldiers
   > who had received "comfort bags" from home.
   >
   > While in Burma they amused themselves by participating in sports events
   > with both officers and men, and attended picnics, entertainments, and social dinners.
   > They had a phonograph and in the towns they were allowed to go shopping.

   > 生活および労働の環境;
   >
   > ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋
   > (普通は学校の校舎)に宿泊していた。
   > それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。
   > 彼女たちは、日本軍から一定の食料を買っていた。
   > ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。
   > この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。
   > 食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金は
   > たっぷりもらっていたので、彼女たちの 暮らし向きはよかった。
   > 彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、
   > それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
   >
   > 彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、
   > また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。
   > 彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。

 随分と優雅な“生活困難”ですことw



 3 物価水準

 太平洋戦争が始まった1941年12月を100とした場合、物価指数は次のように変化しています。

        東京   ラングーン   シンガポール   バタビア
 1944.6   121     3635       4469       1279
 1945.8   156   185,648      35,000        3197

 (日銀統計、安藤良雄編『近代日本経済史要覧』、岩武照彦『南方軍政下の経済施策』下)

 
     [ 画像:2-1-13c 本2 圧縮 省略、(引用元アドレスをご参照ください)

     2-1-13c 本2 圧縮


 1942年の軍票発行段階では、1ルピー(ビルマ)=1ドル(マラヤ)=1円(国内)で設定されました。
 つまりビルマと日本の円は等価とされていました。

 しかし、OWI レポートに記された「慰安婦」たちが捕まったのは1944年8月10日ですが、
 その直前の時点(1944.6)でのインフレは、東京に比べて、ビルマは約30倍でした。

 したがって、「慰安婦」たちの月収が1500円としても、
 貨幣価値は東京では、1500円÷30=50円程度にしかすぎません(下士官クラスの収入)。
 ですから1500円の収入があったとしても、半分は楼主にとられ、さらに食料などで高い額を
 請求され、生活困難に陥ったのは当然と考えられます。

 

 だとしても、是もまた事実です。

   日本人慰安婦の証言
   http://www.tamanegiya.com/nihonnjinnniannfu20.8.27.html
   > 「 証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭 」 より、
   > 芸者菊丸さん、本名山内馨子さん(大正一四年青森県生まれ)についてです。
   > 山内さんは、一〇歳のときに芸者置屋の仕込っ子として東京に売られ、
   > 一九四二年三月、満一八歳の時に、西小山で芸者をしているとき、
   > 置き屋の借金を肩代わりしてくれるということで、朋輩と二人でトラック島に渡る。
   > その山内馨子さんの証言として
   >
   > 「 あの当時で四千円近い借金があったの(葉書が二銭のころ)。
   >  芸者というのはお金がかかるのよ。
   >  着物一枚買うにも借金だし、踊りや三味線も習わなきゃならないでしょ。
   >  お座敷に出るときには島田に結うの。
   >  蕕つけだとか、元結、たて長など使うので、結う旅に一円近くかかってしまう。
   >  だから借金は増えるばかりだったわ 」p一九
   >
   > 「 契約は一年半。
   >  略)
   >  働いたお金は四分六分で四分が自分のもの、
   >  略)
   >  帰国したときに、借金を返したあと一万円くらい残ったかしら 」p二四
   >
   > つまり、この山内馨子さんという慰安婦は当時で四千円近い借金があったが、
   > 一年半働いたのち、借金を返したあと一万円くらい残った。
   >
   > そして、野口幸一氏という日本兵だった方の証言として、五百円の前借金が抜けないで
   > トラックに来た慰安婦が、その金を三カ月で返したという証言や、
   > 仮名ながら、一年で前借金の二千三百円を返しただけでなく、
   > 一万円の貯金ができていたという証言が掲載されている。

 そして

   > LIVING AND WORKING CONDITIONS;
   >
   > In Myitkyina the girls were usually quartered in a large two story house
   > (usually a school building) with a separate room for each girl.
   > There each girl lived, slept, and transacted business.
   > In Myitkina their food was prepared by and purchased from the "house master"
   > as they received no regular ration from the Japanese Army.
   > They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places.
   > This was especially true of their second year in Burma.
   > They lived well because their food and material was not heavily rationed
   > and they had plenty of money with which to purchase desired articles.
   > They were able to buy cloth, shoes, cigarettes, and cosmetics
   > to supplement the many gifts given to them by soldiers
   > who had received "comfort bags" from home.
   >
   > While in Burma they amused themselves by participating in sports events
   > with both officers and men, and attended picnics, entertainments, and social dinners.
   > They had a phonograph and in the towns they were allowed to go shopping.

   > 生活および労働の環境;
   >
   > ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋
   > (普通は学校の校舎)に宿泊していた。
   > それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。
   > 彼女たちは、日本軍から一定の食料を買っていた。
   > ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。
   > この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。
   > 食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金は
   > たっぷりもらっていたので、彼女たちの 暮らし向きはよかった。
   > 彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、
   > それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
   >
   > 彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、
   > また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。
   > 彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。

 物価が高騰する前に足抜けした慰安婦は、大金を手にして帰郷することが出来ました。

 物価が高騰した後も慰安婦であり続けた売春婦たちも ( 少なくとも、アメリカの戦時情報局Office of  War Information(OWI)がレポート第49号(1944.10.1)を発行するために慰安婦に尋問していた段階で は ) 日本軍から支給される食料で腹を満たして、兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う 衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を“たっぷりもらっているお金”で買うことができたのです。
 常識的に考えれば、ある程度は物価の高騰に応じて軍票が多く刷られ、慰安所の利用料金も大東 亜戦争開戦初期に比べて高くなっていたのでしょう。 軍票自体は原資を考慮することなく、刷られまし たから、軍票が刷られて物価が高騰すれば、其れに沿って更に軍票が刷られる悪循環を繰り返しまし た ( だから激しいインフレになりました )。 そうであるなら、30倍ものインフレは一攫千金を狙ってい たガチプロ売春婦にとって哀しい結果だったのかも知れませんが、普通に生活をエンジョイする余裕は ありました。 「 “贅沢な”生活が困難 」 であったり 「 “故郷に多額を送金する”生活が困難 」 だっただ けの話です。

 月収300円以上に釣られてやってきたものの、実月収25円 ( 50円の半分は楼主の懐へ )はガチプロ の売春婦に取って 「 騙された! 」 と言いたくなる金額でしょう。 それでも、貧困に苦しんで 「 このま まだと、一家全員が飢え死にする 」 という極限状態から、親や夫に売られて慰安婦になった女性にし てみれば、十分すぎるパラダイスだったのではないでしょうか。



 4 文玉珠さんの場合

 文さんが2万円以上の貯金があるといっても、彼女が貯金を預け入れたのは、
 1945年4月に10,560円、1945年5月に10,000円などと、ほとんどが1945年に集中しています。

 敗戦時には、東京の物価は、1.5倍の上昇にとどまっていたのに対して、ビルマは1800倍、
 つまり東京と比べて、1200倍のインフレでした。
 つまり、ビルマで貯めた2万数千円は、その1200分の1、つまり20円程度しか
 価値がなかったのです。
 なおビルマは、日本の占領地の中でも最もインフレがひどかった地域でした。

 

 ビルマで貯めた2万数千円がビルマでしか下ろせないとか、ビルマから日本へ 「 円 」 として送金す ることが出来ないというなら、その通りだろう。

 だが違う。 文玉珠氏は5,000円を実家へ送金している。 だから実際に貯めたお金は3万1千円強 で、内2万6千円を貯金したまま帰国したのだ。

 その2万6千円がどうなったのか、についてはこのページで後述する。



   [ 画像:2-1-13a グラフ 圧縮 省略、(引用元アドレスをご参照ください)

   5 物の値段


 参考までに当時の現地での物の値段の例を紹介しておきましょう。

 ビルマでの1945年初頭時点での物の値段は、次のようだったということです。

 コーヒー              5 ルピー
 背広1着          10,000 ルピー
 シャツ1枚       300-400  ルピー
 絹ロンジー1着   7,000-8,000 ルピー

 (太田常蔵『ビルマにおける日本軍政史の研究』吉川弘文館)

 さらにこの時点よりインフレは一層ひどくなりますから、
 2万円があっても背広1着も買えなかったでしょう。

 

 ビルマではそうであっても、1ルピー(ビルマ)=1円(国内)ですから、日本へ帰れば2万円は大金で す。 少なくとも1945年初頭の頃に帰国していれば大金持ちになっていました ( ただし、文玉珠氏の貯 金約2万6千円の内、2万円は敗戦年の4月と5月に入金された物ですので、早く帰国していたら持ち 金は6千円でした )。

 ですから

 誤:2万円があっても背広1着も買えなかったでしょう。

 正:2万円(ルピー)があってもビルマでは背広1着も買えなかったでしょう。

 ですね。



 なお、太田氏は「20年〔1945年〕3月マンダレー失陥後は、
 軍票はほとんど無価値になってしまった」と記しています。

 文さんの貯金の大半は、軍票が無価値になった時期に将校たちからもらったものです。

 

 そりゃ原資抜きに刷りたいだけ刷ってるんだから当然だわな。

 ただし、逆に言えば、無価値になった軍票を正規の通貨として、 「日本円で貯金あり」 とした日本郵 政は善人が過ぎますね。 更に言えば、敗戦のドサクサで通帳などを紛失した慰安婦たちが現地に遺 した預貯金を保障する為に日韓基本条約で検討された事も善人が過ぎるという物です。

 無価値だったんだから、補償なんかしなくて良いのに。



 ところでほかの地域での例も紹介しておきましょう。
 いずれもビルマほどにはインフレがひどくなかったことに留意してください。
 それにしてもひどいインフレで、日本軍に占領された東南アジア各地の経済が
 破壊されたことがよくわかります。

 米 6kg  1942.12  $ 5   →  1945.8  $  750
 腕時計   1942.12  $85  →  1945.8  $10,000

 シンガポールでの物の価格(シンガポールの中学歴史教科書による)

 

 欧米から圧政と差別で搾取されていた植民地の原住民に『腕時計』って何の冗談だよ。

 そんなもの1万ドルの118分の1の値段で買えた時でも欧米の支配者しか買えなかったわ。

 シンガポールは ( というか朝鮮半島以外は )、日本政府が重工業などの生産設備を調えなかったの で、日本の新領土となっていた期間でも、生産者は主に農家だった。 しかも、化学薬品の農薬も人工 肥料もなく、燃料を焚いたトラクターで耕すワケでもなかったから、食料品の物価高騰も現地の一次生 産農業や漁業等への悪影響はそんなに大きくなかったであろう ( もちろん、影響はゼロではない。 ゼ ロではないが、貨幣経済にどっぷりと嵌り込んだ現在の我々が想像するよりは緩やかな影響だっただ ろうと推測される )。

 もちろん、だからといって原資を考慮せず、戦争に勝たなければ払い切れない様な膨大な額の軍票 を、敗戦が濃厚となった頃まで平然と刷り続けた日本の罪は認めなければならないと思いますが。



   [ 画像:2-1-13b 本1 圧縮 省略、(引用元アドレスをご参照ください)

   (出典)小林英夫『日本軍政下のアジア』岩波新書、p179


 スマトラでは、ある将校の回想によると、将校の1か月の給料で、
 ラーメン1杯しか食べられなかったといいます(つまり、100円あるいはそれ以上)。

 (小林英夫『日本軍政下のアジア』岩波新書、『証言集―日本占領下のインドネシア』)


 6 ビルマで貯金したお金は?

 占領地での通貨は、当初、円と等価とされていましたが、
 東南アジアなどインフレが進んだ地域のお金を等価で円に換えると
 為替差益で大もうけしてしまうので、それを規制するために、1945年2月に外資金庫を設立、
 東南アジアのインフレが日本国内に波及しないための措置がとられていました。
 つまりビルマで貯金をして、額面では多額になったとしても、日本円には交換できなかったし、
 しかも日本が負けると、軍票も南発券もただの紙切れになってしまいました。

 

 > 1945年2月に外資金庫を設立

 ということは、それまでは大金を日本に送れば日本で日本円の紙幣に替えることが出来たワケです。

 実際問題、文玉珠氏は

   1990/03/14 従軍慰安婦問題を考える
   「元・従軍慰安婦」証言者 - 文玉珠(ムン・オクチュ)
   http://sikoken.blog.shinobi.jp/慰安婦証言/文玉珠(ムン・オクチュ)

   > 【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
   >
   > 1924.4.3大邱(テグ)生まれ。
   > 9歳の時、独立運動をしていた父が帰宅し長患いの後、死亡。
   > 暮らし向きは楽ではなかった。
   > 1940年16歳の時、帰宅途中に軍服を着た日本人に連行され、
   > 満州にて慰安婦生活を強いられる。 約1年後、将校を騙して朝鮮に帰る。
   > 1942年、女中をしている時に友人から「食堂で働かないか」と誘われ、
   > 1942年にビルマ(現ミャンマー)にて慰安婦となる。
   > 慰安婦時に軍事郵便貯蓄にて26,145円の貯蓄をし、また、別途、5,000円を実家に送金。
   > ( 「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」その他より )

 5,000円もの大金を実家 ( 彼女の場合は日本ではなくて韓国南部の都市『大邱』でしたが ) へ送金し ています。

 ・・・ 日本の敗戦が1945年8月ですから、終戦の半年前迄なら、インフレの進んだ地区から本土へ送 金すればお金持ちに成っちゃったワケです。 あまりの笊っぷりに眩暈がしそう。 そりゃそんないい加 減なことやってたら勝てる戦争でも負けてしまうわ。



 

 したがって、ビルマでの事例を持ち出して「慰安婦」は金もうけをした、
 文さんは現在の価値で数億円もの大金持ちになったというのは、
 占領地の経済状況を無視した、まったくの空論にすぎません。
 占領地のひどいインフレは、少し調べればかんたんにわかることなのですが……。

 

 文玉珠氏が大金持ちになれなかったという点については同意するが、仔細がちょっと違います。

 これ↓と

   日本人慰安婦の証言
   http://www.tamanegiya.com/nihonnjinnniannfu20.8.27.html
   > 「 証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭 」 より、
   > 芸者菊丸さん、本名山内馨子さん(大正一四年青森県生まれ)についてです。
   > 山内さんは、一〇歳のときに芸者置屋の仕込っ子として東京に売られ、
   > 一九四二年三月、満一八歳の時に、西小山で芸者をしているとき、
   > 置き屋の借金を肩代わりしてくれるということで、朋輩と二人でトラック島に渡る。
   > その山内馨子さんの証言として
   >
   《中略》
   >
   > 「 契約は一年半。
   >  略)
   >  働いたお金は四分六分で四分が自分のもの、
   >  略)
   >  帰国したときに、借金を返したあと一万円くらい残ったかしら 」p二四
   >
   > つまり、この山内馨子さんという慰安婦は当時で四千円近い借金があったが、
   > 一年半働いたのち、借金を返したあと一万円くらい残った。

 これ↓を見比べて欲しい。

   1990/03/14 従軍慰安婦問題を考える
   「元・従軍慰安婦」証言者 - 文玉珠(ムン・オクチュ)
   http://sikoken.blog.shinobi.jp/慰安婦証言/文玉珠(ムン・オクチュ)

   > 【生い立ち・慰安婦になった経緯等】
   >
   > 1924.4.3大邱(テグ)生まれ。
   > 9歳の時、独立運動をしていた父が帰宅し長患いの後、死亡。
   > 暮らし向きは楽ではなかった。
   > 1940年16歳の時、帰宅途中に軍服を着た日本人に連行され、
   > 満州にて慰安婦生活を強いられる。 約1年後、将校を騙して朝鮮に帰る。
   > 1942年、女中をしている時に友人から「食堂で働かないか」と誘われ、
   > 1942年にビルマ(現ミャンマー)にて慰安婦となる。

 行った先は、トラック島とビルマで異なりますが、奇しくも両者が慰安婦になったのは1942年です。

 そして、山内馨子氏は1年半の契約中に4,000円の借金を返済して一万円の大金を掴んで帰国しまし た。 一方の文玉珠氏も、契約期間を終えて帰国していたら ( もっとも、サヨクは 「 騙されて(広義の) 強制連行されたんだから契約なんか無い 」 って言い張るんでしょうけど ) 、同じ様に大金を手にして 故郷に錦を飾ることが出来たハズです。

   ソース:
   朝鮮人売春婦のウソ
   http://www.tamanegiya.com/tyousnenjinnbaisyunfu%20nous.html
   > 千田夏光の『従軍慰安婦正篇』には一九三七年(昭和12年)位の話として、
   > 内地にて前借金千円で集めたとしている。
   > そして彼女らは遅くても数カ月で借金を帰し、自由の身になったが
   > 誰もこの商売を止めなかったと書いている。

 ビルマに居る間は激しいインフレで、稼いでも稼いでも豪奢な生活は出来なくて、それでも通貨単位 が「円」の区域に戻って貯金を下ろせば、物凄い大金持ちになれるハズでした。

 ところが現実は、日本が戦争に負け、価千金が約束されたハズの金額は額面通りの「円」に換えるこ とができなくなります。

   軍事郵便貯金等特別処理法 ( 昭和二十九年五月十五日法律第百八号 )
   http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S29/S29HO108.html
   > ( 軍事郵便貯金の換算 )
   > 第三条  昭和二十年八月十六日以後預入された軍事郵便貯金の現在高
   >       ( この法律の施行前に本邦にある郵便局で払いもどしがあつた
   >        軍事郵便貯金については、その払いもどし前の現在高 )の金額は、
   >       左に掲げる換算率により換算した金額の合計額とする。
   >
   >       一  表示金額千五百円までの部分につき
   >
   >          別表甲欄に掲げる換算率
   >
   >
   >      二  表示金額千五百円をこえる部分のうち、
   >          別表乙欄に掲げる換算率により換算した金額が
   >         三千五百円となるまでの部分につき
   >
   >         別表乙欄に掲げる換算率
   >
   >
   >      三  表示金額千五百円をこえる部分のうち、別表乙欄に掲げる換算率により
   >         換算した金額が三千五百円をこえることとなる部分につき
   >
   >         別表丙欄に掲げる換算率
   >
   >
   > ( 外地郵便貯金の換算 )
   > 第五条  昭和二十年十月一日以後預入された外地郵便貯金の現在高の金額は、
   >       左に掲げる換算率により換算した金額の合計額とする。
   >
   > 一  表示金額を別表乙欄に掲げる換算率により換算した金額が
   >    五千円となるまでの部分につき
   >
   >    別表乙欄に掲げる換算率
   >
   >
   > 二  表示金額を別表乙欄に掲げる換算率により換算した金額が
   >    五千円をこえることとなる部分につき
   >
   >    別表丙欄に掲げる換算率

 別表
┌───────────────────────┬──────────────┐
│取扱機関の所在地域              │換算率(1円に対する表示金額)│
│(旧野戦郵便局及び旧海軍軍用郵便所にあつては、├────┬────┬────┤
│ その最後の所在地域)            │  甲  │  乙  │  丙  │
├───────────────────────┼────┼────┼────┤
│朝鮮及び台湾                 │  1円│  1円│1.5円│
├───────────────────────┼────┼────┼────┤
│関東州                    │  1円│  1円│1.6円│
├───────────────────────┼────┼────┼────┤
│華北                     │  1円│ 11円│100円│
├───────────────────────┼────┼────┼────┤
│華中及び華南                 │  1円│ 11円│432円│
├───────────────────────┼────┼────┼────┤
│香港及び海南島                │  1円│ 10円│ 10円│
├───────────────────────┼────┼────┼────┤
│マライ及びビルマ               │  1円│ 11円│432円│
├───────────────────────┼────┼────┼────┤
│旧蘭領東印度諸島(北ボルネオを含む)     │  1円│  1円│  6円│
├───────────────────────┼────┼────┼────┤
│その他の地域                 │  1円│  1円│  1円│
└───────────────────────┴────┴────┴────┘

 文玉珠氏が貯めに貯めた約26,000円の大金は、『軍事郵便貯金の換算』に従えば、 1,500円までは 甲欄、すなわち1/1で、そのまま1500円です。 1,500円超えから乙欄が適用、すなわち1/11で、残る24, 500円が2,227円27銭になります。
 合せて3,727円27銭。

 一方、『外地郵便貯金の換算』に従えば、約26,000円の内、11,000円が乙欄、すなわち1/11で千円に なります。 残る16,000円に丙欄が適用され、16,000円÷432=37円04銭(!)になります。
 合せて1,037円04銭。

 ですから、ビルマでしこたま溜め込んだ文玉珠氏の貯金26,000円を敗戦後に引き出そうとすると、『軍 事郵便貯金の換算』が適用されれば3,727円27銭に、『外地郵便貯金の換算』が適用されれば11,037 円04銭になってしまうのです。

 これは今のお金だと幾ら位になるのでしょうか?

 この頃の初任給100円を今の正社員初任給20万円と比較して2000倍と捉えるなら、当時の3,727円27 銭は745万4,540円に、1,037円04銭は207万4,080円になります。 貯金の額面のままだったら、今のお 金で26,145×2,000=5229万円だった筈なんですから、これはもう 「 日本に騙された 」 と思い込んでし まっても不思議ではありません。

 さすがに気の毒になりますが、敗戦日の3週間ほど後の1945年9月6日に、連合軍最高司令部が 『  法貨に関する覚書 』 を発表して「 日本政府陸海軍の発行せる一切の軍票及び占領地の通貨は無効 無価値にてかかる通貨の授受は一切の取引に於いて 禁止する 」 と発表した後ですから、僅かとはい え金に換えられるだけマシなのかも知れません。

 ただし、窓口で換算後の金額を聞かされて 「 こんなハシタ金なんか要るか、ボケ 」 と思ったのか、あ るいは日本が敗戦した事に因って、貯金が失効してしまったと思い込んで窓口に行かなかったのか、 いずれなのか定かではありませんが、文玉珠氏は貯金を下ろしませんでした。
 そして、その貯金は1965年に失効します。

 しかし、( おそらくは日本のサヨクに焚き付けられて ) 文玉珠氏は失効後27年も経ってから『戦時郵 便貯金の払い戻し請求』という訴訟を起こします。 いわゆる 『 下関裁判 』 です。

 結果は、

   wikipedia「釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟
   http://ja.wikipedia.org/wiki/釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟

   > 1998年4月27日、山口地裁下関支部は、判決で立法不作為による国家賠償責任について
   >            一部原告側の訴えを認め ( 平成4年(ワ)第349号、平成5年(ワ)第373号、
   >           平成6年(ワ)第51号 訴訟は3次に渡る 判例時報1642号24頁 )、
   >           計90万円の支払いを日本政府側に命じる[1]。
   >
   > 2001年3月29日、広島高等裁判所は、下関支部の判決を取り消し原告の訴えを棄却した。
   >           (平成10年(ネ)第278号)(判例時報1759号42頁、判例タイムズ1081号91頁)
   >
   > 2003年3月25日、最高裁判所(第3小法廷)は、控訴を棄却。原告敗訴確定[1]。

 と最終的に全面敗訴しているのですが、地裁のキチガイ判決がサヨクの喧伝活動に利用される破目 に陥りました。

 この『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責任』でも、 [ 2 慰安所におけ る実態 - 1 文書がないから事実(被害)を証明できないか? ] で「 裁判所で事実認定がされてい る 」 や 「 精神的損害賠償を認めた勝訴の判決 」 等とよく読めば噴笑モノの判決文()を添えて喧 伝しています。

 困ったモノです。

※:この下りです。 詳しくはインデックスページから [ Q&A編 - 2 慰安所における実態 - 1 文書が ないから事実(被害)を証明できないか? ] をご参照ください。

 下関判決の例をあげます。

   従軍慰安婦制度の実態及び慰安婦原告らの被害事実、

   2、慰安婦原告らの被害事実

     〔明瞭詳細な事実の確定が不可能な証拠状態であるため〕ここではひとまず
     証拠(甲1、甲3ないし甲6、原告朴頭理、原告李順徳)の内容を摘記した上、
     末尾においてその証拠価値を吟味し、確実と思われる事実を認定することとする。

     〔次にくる(一)(二)(三)は、原告3人の陳述・供述が摘記されている〕

     (四)、慰安婦原告らの陳述や供述の信用性

     〔慰安所の詳しい所在地や人物・部隊名特定など詳細は分からないが、〕
     いずれも貧困家庭に生まれ、教育も十分でなかった〔上に〕
     高齢に達していることを考慮すると、その陳述や供述が断片的であり、
     視野の狭い、ごく身近なことに限られてくるのもいたし方ないというべきであって、
     その具体性の乏しさのゆえに、陳述や供述の信用性が傷つくものではない。
     かえって、…原告らは、自らが慰安婦であった屈辱の過去を長く隠し続け、
     本訴にいたって初めてこれを明らかにした事実とその重みに鑑みれば、
     本訴における同原告らの陳述や供述は、むしろ、同原告らの打ち消し難い
     原体験に属するものとして、その信用性は高いと評価され、
     反証の全くない本件においては、これをすべて採用する
     ことができるというべきである。


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