『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責任』 を斬る 《跡地》



【追加】 Q&A 4 日韓関係・植民地支配

 -3 日本のおかげで朝鮮が豊かになった? を斬る

2015.05.04 併合前の朝鮮人の平均寿命に関する資料を入手しましたので、末尾にて解説
2012.02.24 併合前の朝鮮人の平均年齢に関する記述は、ソースが希薄だったので削除しました。


 引用元URL → http://fightforjustice.info/?page_id=2381 ( 魚拓 )

 このページは、webサイト『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責任』が開設さ れた2013年08月01日時点で存在しなかったページです。

 いつ追加されたのか?は、サイト内に履歴が無いので分かりません。


 以下、青い色の文字がwebサイト『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責任』 からの“引用”です。




 はじめに

 「 日本としては朝鮮の鉄道や港を造ったり、農地を造成したりし、
 大蔵省は、当時、多い年で二〇〇〇万円も持ち出していた」。
 1953年、第3次日韓会談の際の日本側首席代表久保田貫一郎(外務省参与:当時)の発言です。
 1951年に日韓国交正常化交渉が開始されて以降、
 これに代表される“日本の植民地支配は朝鮮(韓国)に経済的な利益をもたらした”式の発言が
 日本側から相次ぎました。
 1965年に両国間の国交は正常化しましたが、それ以降も、今日に至るまで、官民を問わず、
 日本社会のなかでこうした発言をする人々は後を絶ちません。
 以下では、植民地朝鮮における経済開発の実態を示すことで、
 上記のような、いわゆる「植民地支配=恩恵」論に対して反論を示してみようと思います。

 

 そもそも黄色人種を牛馬未満の使い捨て労働力として扱った欧米の植民地支配に於いてさえ、第二次 世界大戦を迎えようとする頃は、収支は赤字でした。

   2013年11月17日 BLOGOS 池田信夫
   植民地支配はもうかったのか
   http://blogos.com/article/73841/
   > 「日帝36年」をうらむ韓国人は、
   > 日本が「植民地支配」で富を搾取したために韓国が遅れたと信じている
   > (かなりの知識人でもそういう話をする)。
   > しかしエッカートが実証したように日本の韓国併合の収支は大幅な赤字であり、
   > これを植民地と呼ぶのは正しくない。
   >
   > それでは日本が追いつこうとしていた「列強」の植民地支配の収支決算は
   > どうだったのだろうか。
   > これについては統計の入手可能性が限定されているが、
   > 本書はヨーロッパ諸国から植民地への輸出品の国内生産に占める比率を示している。
   > それによれば、図1のように各国は18世紀までは植民地から利益を得ることができ、
   > 特にイギリスは大きかった。

   
   図1 ヨーロッパ各国の植民地むけ輸出の国内比率(%)

   > しかし帝国主義戦争の始まった19世紀以降、スペインは南米の植民地を失って
   > 経済が停滞し、フランスはアフリカに多くの植民地を建設したが
   > 市場としてはほとんど役に立たず、植民地支配は大幅な赤字だった。
   > オランダ・ポルトガルはそれより少しましな程度だった。
   >
   > 他方で植民地戦争の財政負担は大きかった。
   > 1793年から1815年にかけてイギリスの軍事費は倍増し、政府予算の61%を占めた。
   > このため国債の発行も1798年までに倍増し、国債は暴落し、
   > 利払い費が政府予算の30%を占めた。
   > 図2のようにイギリスの税負担は激増し、ナポレオン戦争時代の19世紀前半には
   > GDPの20%を超え、国債残高は200%を超えた。

   
   図2 イギリスの税負担のGDP比(%)

   > イギリスがこの巨大な政府債務に耐えることができたのは、
   > それまでに獲得した世界の植民地から収奪した富のおかげだった。
   > このようなコストを考えると、イギリスでさえネットの収益はそう大きくなく、
   > 19世紀後半以降のヨーロッパ全体で植民地支配の利益はGDPの2%程度だった、
   > と本書は推定している。
   >
   > 長期的にみると、初期の重商主義時代にイギリスが植民地(特に北米)から得た利益は
   > 大きく、この富によって大英帝国は世界市場を支配した。
   > 他方、大陸諸国(特にスペインとオランダ)は18世紀までは植民地から利益を得たが、
   > ナポレオン戦争で500万人近い死者を出して経済力を消耗し、
   > 植民地支配は大幅に縮小されてイギリスの競争相手はいなくなった。
   >
   > しかし19世紀後半以降はほとんどの国の植民地はお荷物になり、
   > それを維持するコストや軍事費が利益を上回るようになった。
   > イギリスも第2次大戦後に植民地が独立したため、財政破綻をまぬがれた。
   > 17世紀以降の400年を通算すると、イギリスがひとり勝ちで大幅な黒字だった以外は、
   > ほとんどの国の植民地支配はプラスマイナスゼロ程度か赤字だった。
   >
   > ただ激しい帝国主義戦争が各国の財政の効率化をうながし、
   > 経済力を強化するインセンティブになったことは間違いない。
   > ヨーロッパ諸国が植民地から得た利益よりも、各国が競争したことによる
   > 経済効率化の利益のほうが大きかった。
   > そういう「外圧」が恒常的にかかるしくみを結果的につくったことで、ヨーロッパは発展したのだ。
   >
   > 20世紀に入ってからは、植民地は財政赤字の元凶として
   > 各国で問題視されるようになったのだが、そのころどん尻で植民地争奪戦に加わったのが
   > 日本だった。
   > 結果的には朝鮮半島や満州への投資は大幅な赤字になったばかりでなく、
   > 無謀な戦争に突っ込んで国家が破綻した。
   > 韓国は、間抜けな大日本帝国のインフラ投資に感謝してもいいのだ。

 ですから、「植民地支配=恩恵」論だけで言えば、日本が朝鮮半島を併合した頃の欧米の植民地支配も 「植民地支配=恩恵」論に当て嵌まることになります。

 日本による朝鮮半島併合が非植民地支配である理由は、本国を凌ぐインフラ整備に伴う赤字の発生に あるのではなく、牛馬未満の労働力として扱うなら不要であったであろう現地人への教育や医療・衛生の 整備に在ります。

 ただし、朝鮮半島を新生日本国とする為に日本政府が莫大な費用を投じた事もまた事実であり、同時期 に欧米の過酷な植民地支配が赤字であったから、日本の併合も現地人を人間扱いしない統治であったと 捉えられては堪ったモノではありません。

 その辺の事も含めて、おいおいと反駁させて頂く事にしましょう。



 植民地朝鮮への資金流入

 植民地朝鮮の統治機構であった朝鮮総督府の財政に対しては、
 植民地期を通じて、日本政府の財政から「補充金」という費目の補助金が支出されていました。
 冒頭の久保田発言にある「二〇〇〇万円も持ち出していた」というのは
 これを指していると思われます
 (水田直昌監修『総督府時代の財政』友邦シリーズ第19号、友邦協会、1974年、160頁)。
 しかし、その大部分は、朝鮮総督府やその付属機関で働く日本人職員の俸給に対する
 割増支給と各種手当の財源となっていました。
 久保田発言は、この「持ち出し」が鉄道などインフラの整備と結びついていたかのような
 印象を与えており、正確ではありません。

 もちろん、この「補充金」以外にも、日本から朝鮮に対する財政資金・民間資金の流入があり、
 インフラの整備や農業・工業などの産業開発に投資されました。
 その年ごとの流入額は、産業開発が本格化する1920年代以降に増大し、
 とくに工業化と軍事化が進展する1930年代以降には急増しました。
 ただし、「持ち出し」論では、朝鮮から日本国内への、預金部資金貯金(郵便貯金)や
 有価証券買入れ等の形態による資金移動の存在が見過ごされています。
 その年ごとの流出額もまた、時期を追うごとに増大しています。
 とくにアジア・太平洋戦争期には、戦時下での強制貯蓄を原資として
 日本国内債券を引き受ける金額が急増したために、流出額は流入額を上回る水準に
 達しています。
 その他にも、配当金や保険支払などのかたちをとった日本国内への資金流出額も増大しました
 (金洛年『日本帝国主義下の朝鮮経済』東京大学出版会、2002年、第5章を参照)。

 1910年「韓国併合条約」は、「完全且永久」な併合を謳っています。
 当時の日本政府にとっても民間投資家にとっても朝鮮植民地支配は
 「永久」に続くべきことがらでした。
 一旦は「持ち出し」として朝鮮に投資された資金は、朝鮮における産業開発を通じて投資者に、
 利潤や地代、あるいは利子・配当といった所得をもたらしました。
 そして、それら所得の一部は、帝国本国に還流していました。
 さらに、戦時体制下には、強制貯蓄政策の展開にともなって、
 年次単位でみれば、その「持ち出し」状態さえ解消されていました。

 

 肝心の事をさらりと流すな。

 > 年次単位でみれば、その「持ち出し」状態さえ解消されていました

 というのは、「 併合期後半に於いては、 [ 資金投入 ] < [ 成果回収 ] だった年があった 」 という意味で しかない。

 日本が得をしたのか or 損をしたのか、を語るには最低でも併合機関全体を通じての収支を見なければ 意味がありません。

 特定の期間に
 
 [ 利潤や地代、あるいは利子・配当といった所得の一部で帝国本国に還流した分 ] > [ その年に投入し たインフラ原資 ]
 であったから搾取である

 とは言えません。

 そして損得勘定で言えば、日本は完全に大損を扱いています。

   正統史観年表 日韓合
   http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-101.html
   より、

   > 併合前・後の日本の財政負担と、朝鮮の「もらい得」
   >
   > 歴史を偽装する韓国・中川八洋著より
   >
   > 併合以前の朝鮮への日本の財政負担(1904〜1910)
   >
   > 朝鮮は、もともと予算の編成能力すらなく、
   > 目賀田顧問の指導監督で初めてできた予算では、
   > その歳入は1906年度で748万円しかなかった。
   > これで韓国を近代国家として運営するに必要な年3000万円以上の予算を組むには、
   > 日本から差額すべてをもっていくほかはなかった。
   > かように日本は巨額の支出を強いられた。
   >
   > 「持参金付きの統治代行」であるがために生じた朝鮮への日本の財政負担は、
   > 1904年の第一次日韓協約による、1904年10月の目賀田財政顧問の着任から始まる。
   > それから1910年8月末の併合・総督府設置されるまで、日本は日本人の税金から、
   > 朝鮮の歳入不足分を無利子・無期限にて朝鮮政府に「立て替え」て交付した。
   >
  ┌──┬──────┬─────────┬──────┐
  │年度│日本の立替金│日本政府の直接支出│   計   │
  ├──┼──────┼─────────┼──────┤
  │1907│  177万円 │   約2500万円 │ 約2700万円│
  ├──┼──────┼─────────┼──────┤
  │1908│  526万円 │   約2600万円 │ 約3100万円│
  ├──┼──────┼─────────┼──────┤
  │1909│  465万円 │   約1600万円 │ 約2100万円│
  ├──┼──────┼─────────┼──────┤
  │1910│  260万円 │    2242万円 │ 約2500万円│
  ├──┼──────┼─────────┼──────┤
  │ 計 │ 1428万円 │   約9000万円 │ 約10400万円│
  └──┴──────┴─────────┴──────┘
   「総督府時代の財政」水田直昌監修、友邦協会
   >
   > その額は、4年間で1428万円。
   > 朝鮮政府の税収不足分をそっくりそのまま日本が「立て替え」た。
   > そればかりか、朝鮮政府を経由せずに日本政府は直接にも支出して、
   > 韓国の行政を代行した。
   > が、その額は、「立替金」の数倍にのぼった。
   > すなわち、司法と警察など、日本が受託した分野では、日本政府が直接に支出した。
   >
   > 1910年8月末までは「旧韓国」の朝鮮政府があり、その歳入に入れたのを「立替金」と呼ぶ。
   > 翌9月から、総督府の歳入に入れた日本人の税金を「補充金」と呼ぶ。
   > 1910年9月から翌1911年3月末までの補充金は289万円で、
   > 表中の日本政府の直接支出に含めた。
   >
   > また、1910年8月29日に明治天皇からの臨時恩賜金3000万円が与えられたが、
   > これは、1910年度の日本の持ち出し総額約2500万円には含まれていない。
   > また、旧韓国が日本政府から直接借り入れしていた「借金」2651万円は、棒引きにした。
   >
   >
   > 併合後の日本の財政負担(1911〜1945)と朝鮮の「もらい得」
   >
   > 併合後の1911年以降は、「補充金」と呼ばれる日本政府からの持ち出し
   > (=日本人の税金)は、同年度の1235万円と、それ以前の半分となったのは、
   > 残りの半分を日本で発行した公債や日本からの借入金で補えるようにしたからであり、
   > 日本から約2000万円前後を調達した状況は変わらなかった(B)。
   >
   > それは、朝鮮人の税・印紙収入(A)の倍に及んでいた。
   >
   併合直後の朝鮮の歳入の対日依存
  ┌──┬──────┬──────┬─────┬───┬───┐
  │年度│税・印紙(A)│ 公債.借入金│ 補充金 │計(B)│A+B│
  ├──┼──────┼──────┼─────┼───┼───┤
  │1911│  1330  │  1000  │  1235 │ 2235 │ 3565 │
  ├──┼──────┼──────┼─────┼───┼───┤
  │1912│  1468  │  1490  │  1235 │ 2725 │ 4193 │
  ├──┼──────┼──────┼─────┼───┼───┤
  │1913│  1562  │  1110  │  1000 │ 2110 │ 3672 │
  ├──┼──────┼──────┼─────┼───┼───┤
  │1914│  1854  │   764  │   900 │ 1664 │ 3518 │
  └──┴──────┴──────┴─────┴───┴───┘
   >
   > つまり朝鮮は、その財政の過半から三分の二を日本に支出・調達させた。
   > 公債・借入金はすべて日本(日本人)からの調達であり、朝鮮人は全く参画できなかった。
   > そのような公債を買う朝鮮人はいなかった。
   > 資金を貸す力のある朝鮮資本の銀行は一行もなかった。
   > Aは、{A+B}の三分の一から二分の一しかなかった。
   > つまり、朝鮮の歳入の対日依存度は、その三分の二から二分の一に及んでいた。
   >
   > (中略)
   >
   > 「立替金」・「公債」その他は、巨額にのぼる(1945年度は不確定)。
   > 立替金・日本政府の直接支出、補充金、公債未償還だけでも、約21億円になる。
   > (1910〜1944年)。
   >
   > 朝鮮の対日「搾取」最小額 立替金その他 1億400万円
   > 補充金(1911〜44年) 5億3521万円
   > 公債未償還 14億3971万円
   > 合計  20億7897万円
   >
   > 日本で調達した公債の未償還は、発行した公債(1910〜1944年)21億6566万円から、
   > 償還分7億2595万円を差し引いた額である。
   > 朝鮮は3分の1しか償還していない。
   >
   > この未償還の約14億4000万円は、敗戦と同時に全て、朝鮮側の「もらい得」となった。
   > 日本側の巨額損失である。
   >
   > 1907〜1944年の1円が、仮に平均で3万円に相当するとすれば、これだけでも63兆円になる。


 もちろん、中の赤い人もこの点は重々承知だった御様子で、このように予防線を張っています。

 > 1910年「韓国併合条約」は、「完全且永久」な併合を謳っています。
 > 当時の日本政府にとっても民間投資家にとっても朝鮮植民地支配は
 > 「永久」に続くべきことがらでした

 つまり、併合期間が36年間ではなくて、もっと長く続いていたら全体でも黒字になっていたハズだ、という 主張です。

 しかし、これが通るとどういう意味を持つか?というレベルまで彼らの思考は到達していません。

 日本は道州制ではなく中央集権制です。 つまり、インフラ整備もその整備が後に産む利益も地方が独 自に採算するのではなく、日本全体として予算を組んでインフラ整備を行い、その成果としての利益も税収 として国家に納められて再分配されるのです。

 併合当時に朝鮮半島は“日本国”でしたから、同じ様に扱われました。

 ただ、朝鮮半島には朝鮮総督府と云う独自の行政機関があったので、別予算として足らない分を「補充 金」という名目で補填したのです。

 ですから、

   併合期間が36年間ではなくて、もっと長く続いていたら黒字になっていたハズだ
    → 最終的に簒奪できなかっただけで、本質は簒奪を目的とした植民地政策だった

 という主張が通るなら、それは日本本土の全ての市町村に対しても当て嵌まることになります。

 なぜなら、日本本土の全ての市町村も其処に住む住民や稼働する工場や店舗などから徴収される税金 で個別に運営されているわけではないからです。



 インフラ整備・産業開発の特質

 冒頭の久保田発言にあるように、
 朝鮮総督府は、鉄道・港湾や農地造成などのインフラ整備を実施しました。
 それ自体は事実であるものの、その目的や手法における植民地に固有な特徴にも
 注目する必要があると思います。

 鉄道事業の場合、「併合」に先立つ日露戦争時に、
 軍事物資や兵員を輸送する兵站線を確保するために、日本軍部によって急きょ整備が
 進められました。
 釜山港の港湾整備も一連の工事として併せて実施されています。
 日露戦時下での鉄道事業においては、日本軍部は、朝鮮人の土地・家屋が強制収用し、
 労働力も強制的に徴用しました。
 日本は、朝鮮民衆に対して、「近代」の象徴ともいうべき鉄道との「不幸な遭遇」を強いたのです
 (高成鳳『植民地鉄道と民衆生活』法政大学出版局、1999年、12頁)。
 その後も、朝鮮鉄道には中国大陸侵略のための兵站線としての役割が与えられました。
 そのために、朝鮮半島を南北に縦貫する幹線鉄道体系が強化されたのに対して、
 朝鮮内でのローカルな輸送能力は低水準にとどめられた。
 朝鮮民衆にとって朝鮮鉄道は、日常的な交通手段として有用な装置とはなりえなかったのです。

 

 そりゃ併合前の話だ。

   http://ja.wikipedia「日本統治時代の朝鮮」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/日本統治時代の朝鮮 - 6 交通 - 6.1 鉄道

   > 朝鮮半島での鉄道は、李氏朝鮮から日本が「日韓暫定合同条款」に基き
   > 鉄道敷設権を1894年8月20日に得て、鷺梁津(漢江西岸)〜済物浦間の鉄道を
   > 1899年に開通させたことに始まる。 これは後に京仁線となった。
   >
   > 1905年には京釜線が全通、翌1906年には日露戦争の軍事輸送を目的として
   > 京義線を日本が全通させた。
   > 京釜線・京義線は日露戦争後に日本が得た南満州鉄道(満鉄)への接続を図り、
   > 大陸進出の足がかりとしての役目を担うようになっていき、1910年の韓国併合で
   > 日本が朝鮮の統治権を得ると、京元線や中央線・湖南線などを敷設した。
   > 路線数が少なかった1925年(大正14年)までは、朝鮮での鉄道経営を一体化する目的で
   > 南満州鉄道に委託したこともあったが、その後は朝鮮総督府の直轄の朝鮮総督府鉄道と
   > なって、地域経済の発展や住民の足を確保するために多くの路線が建設されていった。
   >
   > 朝鮮総督府鉄道は朝鮮への観光客の誘致にも力を入れ、
   > 朝鮮ホテルなどの西洋風ホテルの建築も行った。
   > また、朝鮮王朝末期には大部分で道路の舗装などが行われていなかった京城は
   > 区画整理が行われ、路面電車が敷設された。

 後に路面電車まで敷設されてます。

 まさか、路面電車が中国大陸侵略のための兵站線として活用されたなんていわないよなw


 というか、仮に線路の敷設が中国大陸侵略のための兵站線だったとして、何も問題はないんだがね。

   2012年09月11日 大鑑巨砲主義!
   日本が韓国併合しなかったら今どうなってたの?
   http://military38.com/archives/19967459.html

   > 14:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 11:18:12.84 ID:fGliloCF0
   > 無理
   > アソコで日本が関わらないとロシアが釜山に基地を持つことになるから
   > 日本としては絶対に阻止しなければならなかった
   > 日露戦争後、ロシアは満州以南の進出を放棄したが
   > かといって清朝末期で混乱中の支那政権に任せるわけにも行かず
   > かといってアメリカなど他の欧米列強の進出も許せるわけ無く
   > かといって朝鮮は自主独立の気概なんかないから
   > どうしても日本が保護国にしなければならなかった

   > 20:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/08/26(日) 12:05:55.99 ID:kQ/k0zjU0
   > >>14 でも書いてるけど
   > 日本が韓国を併合してなかったらロシアに併合されてた。
   > 当然満州も併合されてしまう。
   > その結果日本は植民地を持てず国力は弱いまま、アジアの中でちょっと強い国にとどまる
   > そしてイギリスやロシアの欧州各国のアジアでの覇権争いの最前線となり
   > 下手すりゃ内戦、もしくは併合されてが起こって日本という国が無くなっていたかもしれない。
   >
   > そうさせないために日本は朝鮮を併合し、満州を手に入れた

 朝鮮半島北方国境付近に兵力を安全かつ安定的に展開させて、南下するロシア軍を牽制するために朝 鮮半島を近代化させる必要があって、日本政府は朝鮮半島を併合したのだ。 協力を仰ぐと共に、近代化 させない恨みを買って後ろから撃たれたり、補給部隊が襲われたりしない様に朝鮮半島を豊かにする必 要があったが、それには莫大な費用が必要で日本と云う国の経済が傾きかねない博打だった。
 日本は朝鮮半島を単に保護対象とするだけで、インフラ整備など施さず、国家予算は日本本土に限って 注入するという選択肢だってあった ( それを強く主張していたのが伊藤博文だった )。 それを国家百年 の計で未来を見据えて、朝鮮半島を併合して本土の国家が傾きかねない巨額を注ぎ込んでインフラ整備 したのである。

 そうである以上、

   朝鮮半島を南北に縦貫する幹線鉄道体系の強化が優先

   朝鮮内でのローカルな輸送能力は後回し

 になるのは至極当然、アタリマエだ。

 それこそ、そちらの

 > 1910年「韓国併合条約」は、「完全且永久」な併合を謳っています。
 > 当時の日本政府にとっても民間投資家にとっても朝鮮植民地支配は
 > 「永久」に続くべきことがらでした

 にあやかるなら

   大東亜戦争に日本が負けなければ、

 朝鮮植民地“支配(w”は今なお続いていて、朝鮮内でのローカルな輸送能力も日本政府のお金で整備 されていた事でしょう。

 逆に赤い人の希望通りに、朝鮮内でのローカルな輸送能力が優先されていたなら、

   朝鮮民衆にとって朝鮮鉄道は、日常的な交通手段として有用な装置

 と成り得たかもしれませんが、それは同時に

   朝鮮半島を南北に縦貫する幹線鉄道体系が強化され

 ずに後回しにされ、ロシアとの国境付近に展開する日本軍への物資や兵器・人員の補給がままならなく なって兵力は減衰し、ロシア軍の侵攻を呼び込むことになったでしょう。

 …… う〜ん、どうも赤い人は、「朝鮮人なんか南下するロシア軍に鏖殺しにされればイイのに」と考えて いる様にしか思えないのですが ……

 それとも、本当にこの程度の事も分からないのかな?



 植民地朝鮮で農地造成(土地改良)事業が本格化したのは、
 1920年に「産米増殖計画」が開始されて以降のことです。
 この計画は、1918年米騒動で顕在化した日本国内のコメ供給力不足を補うために
 開始された事業でした。
 ところが30年代には、農業不況にともなって農産物過剰問題が深刻化しました。
 朝鮮から日本国内へのコメ移出量を抑えるために、この計画は中止されています。
 農地造成事業の目的は、朝鮮における食糧の安定供給ではなく、
 なにより、日本国内でのコメ需給バランスの確保にあったのです。
 「産米増殖計画」では、大規模な水利事業が実施されました。
 貯水池などの築造によって、地元の農民は伝統的な水利用慣行の変更を余儀なくされました。
 地元農民はしばしば水利事業に対する反対運動をおこしました。
 しかし、日本人大地主や朝鮮総督府の主導によって事業は強力に推進されました
 (松本武祝『植民地期朝鮮の水利組合事業』未来社、1991年)。

 

 > 農地造成事業の目的は、朝鮮における食糧の安定供給ではなく、
 > なにより、日本国内でのコメ需給バランスの確保にあった

 では朝鮮半島で作るようになった米は、朝鮮半島内の飢えを救わなかったというのかね?

 このページの下に貴方自身がこう書いているではないか。

   貧窮した農民は、相対的に高価なコメの商品化量を増やし、
   代わりに「満洲」から輸入された粟などの安価な雑穀類を購入して消費することで、
   糊口をしのぎました。

 米を売った対価でより安い雑穀を購入することで、大勢の朝鮮人が飢え死にすることなく生き長らえたの だ。

   http://ja.wikipedia「日本統治時代の朝鮮」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/日本統治時代の朝鮮 - 5 経済

   > 農地の開発や農業技術の指導により食糧生産量も激増したことで、
   > 人口は併合時(1910年)の調査では13,128,780人[83]、1944年の調査では25,120,174人となり、
   > 平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びた[84][85]。

 せっかく作った米を自分達で食せなかった事に対する怨みも辛みもあるだろうが、そのおかげで今のサ ムソン帝国がある。

   http://ja.wikipedia「日本統治時代の朝鮮」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/日本統治時代の朝鮮 - 5 経済

   > 李朝末期の朝鮮は道路、農地、山、河川、港湾などが荒廃しており、
   > 民衆は官吏・地主・両班に高利貸(トンノリ)による収奪を受けていた。
   > そのため日本が朝鮮の農地にて、水防工事や水利工事をし、金融組合もつくったことで、
   > 農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、朝鮮人農民に多大な利益を
   > もたらすようになった。
   > また、水利組合の設立により安心して農耕ができるようになった[87]。
   > 大地主である朝鮮人は、生産性が上がり日本へ米を輸出できるようになったことで
   > 多額の利益を得ていた。
   > その代表的な人物がサムスングループの創始者である李秉浮ナある。
   > 彼は慶尚南道の大地主の次男として生まれ、米の輸出で得た多額の資金を元手に
   > 1938年に大邱にて三星商事を設立し、これがのちのサムスングループに発展していった[88]。

 文句があるなら、対価を払えない自国民に米を配らず、対価を払える日本本土に米を売ったサムソンに 言え。


 それから

 > 朝鮮から日本国内へのコメ移出量を抑えるために、この計画は中止されています。

 では『産米増殖計画』を中止にしたからといって、朝鮮半島での稲作も中止して、朝鮮人が併合前の様 な飢えた生活を送る様になったとでもいうのかね?

 作った米の大半は日本本土へ売られて朝鮮人のクチに入らなかったのかも知れないがそれはタダの経 済行為である。
 A5クラスの超高級国産和牛を食べられない畜産業者なんかゴマンといる。
 其れと何も変わりません。
 日本が併合する前の朝鮮半島では、畑を耕しても特権階級が奪って行くだけだった。

   日本が朝鮮に行った良いこと
   http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/iiwarui.html
   > 私は、十分に耕せそうな土地をほったらかしていなからも、
   > 飢えに苦しむ農民のさまが理解できなかった。
   > 「 どうしてそれらの土地を耕さないのか 」
   > と聞いたところ、
   > 「 耕せば、耕すほど税を取られるだけのことだ。」
   > という返事があった。
   >
   >
   > マッケンジー (朝鮮の悲劇)


   世界一の嘘つき国家、韓国  韓国人は自ら日本国による併合を望み渇望した
   http://www.koreanpinklady.com/sub1.html
   > 学問は朱子学のみ、医学無し、科学無し、学校も無し、病院無し 治水施設無し
   > 読み書き出来る者もいない、町は悪臭がひどい、道路は糞尿だらけで踏まずには歩けない。
   >
   > 水が汚く、風呂に入れば入る前より汚れてしまう、貨幣が無く、物々交換産業も無い
   > まともな道路も無い、山は、はげ山で泥水が流れる為 農業も壊滅的
   > 「枯死国朝鮮」日韓併合前の朝鮮は地獄であった
   >
   > 朝鮮人  玄永燮

 特権階級の両班でさえも味の好みで食べ物を取捨選択することが出来ない弩底辺弩貧困から元卑奴階 級さえも雑穀なら食べて命が繋げる時代になれたんだ。

 それのどこに文句の付け様があるというのかね。

   2011年07月05日 BBの覚醒記録
   http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/650db2cd4b30d10bdb5b1c1d87372624
   > 韓国農業の礎を築いた日本〜イルボンサラムン・キョンウカタルダ〜
   >
   > 朝鮮農業近代化は日本のおかげだった。
   > 以下、韓国人の書いた書物の一節です。
   >
   > 「醜い韓国人」 朴泰赫 1993 光文社より
   >
   >  日本人は、農村振興運動を進めた。
   >  日本統治時代以前の韓国の農村には、河川に堤防もなかったし、
   >  水利組合も存在しなかったが、水利組合が結成されたために、河川地域が整備されて
   >  堤防が建設されそれまで恒常的だった水害から、農地や農作可能な土地を守ることが
   >  できるようになって、新しい農地がつくられ、多くのところで稲作が可能になった。
   >
   >  この結果、日本人地主も増えた。
   >  また畜産が奨励され、日本人がつくった金融組合が、希望する農家ごとに
   >  子牛一頭を無料で与えてくれた。 与えたというよりは、貸したものだった。
   >  牛が成長して子牛が生まれたら、一頭を組合に返すと、成長した親牛は、
   >  無償で農民のものとなるという制度だった。
   >
   >  日本人は植林と治水に力を注いだ。山を管理し、植林を進めるために、
   >  総督府は山監(サンカン)という監督官を村に置いた。
   >  また村人が、植林した山に入ることを禁じた。
   >
   >  私の小学校の日本人教師や山林局に所属していた山監や若い農村教導師は、
   >  緑化について情熱にあふれていた。 真面目で、献身的な青年が多かった。
   >  日本統治時代には、そのせいではげ山だった山々が緑に覆われるようになった。
   >  農村教導師は、農村振興運動の一環として農村の改革と生活改善のために、
   >  村から村へと巡回していた。
   >
   >  私が小学校に入学する前に、満州事変が起こり、やがて支那事変(日中戦争)に
   >  移っていったので、村でも戦時色がしだいに感じられるようになっていった。
   >  私は、父親に違れられて公会堂で農村教導師が講演をするのをたぴたび聴いた。
   >  名調子の演説が多かった。
   >
   >  (中略)
   >
   >  あるいは金融組合による子牛を貸し出す制度についての講演会で、別の農村教導師が
   >  「 夕焼けほのぼのと燃えあがる空を背にして、
   >   牛を連れて家に帰る美しい姿を目にしたときには、
   >   感激の熱い涙が、ポタリポタリと落ちるのであります 」
   >  と熱弁を振るった。
   >
   >  私の小学校時代には、日本統治がもう二十五年以上になっていたので、
   >  村の人々の大半が日本語を聞いて理解することができた。
   >  そこで講話は、通訳なしに日本語で行なわれた。
   >  人々は話に耳を傾けながら、しばしば韓国語で
   >  「 ケンジャンハンラサム 」(立派な人だな)
   >  とつぶやいたり、
   >  「 ヨクシ、ヨクシ 」(なるほど、なるほど)
   >  と相槌を打った。
   >
   >  また
   >  「 カを合わせて朝鮮を蘇生させましょう!
   >   今日の朝鮮では、山川草木が空からくれた天の恵みである雨水を貯え切れず、
   >   海に流してしまっています。 ああ、もったいない、もったいない。
   >   そこで陸は、いつも旱魃に悩まされています。
   >   木がもっと山に生い繁れば、天の息みの雨の40パーセントを、飲み水や、水田の水として、
   >   または地下水として貯えることができます。
   >   徹底的に山に木を蓄えようではありませんか。
   >   水は生命の源であり、農耕の源なのです 」
   >  といった話もあった。
   >
   >  日韓併合以前の韓国の山々といえぱ、乱伐したり、燃料にしたりしたために、
   >  ほとんどがはげ山だった。
   >  日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。
   >  私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。
   >  しかし、独立後にまたかって気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。
   >
   >  日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。
   >  日本人がやってきてから改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、
   >  改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を
   >  進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。
   >
   >  それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。
   >  両班のように小作人(ソチクイン)である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、
   >  不作のときには、小作料を安くしてくれた。 日本人地主のほうが、物わかりがよかった。
   >  だから、日本人の地主は人気があった。
   >  みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、
   >  当然のことだった。 日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。
   >
   >  日本人が所有していた農地は、独立後に、「敵産」(チョクサン)としてすべて没収された。
   >  しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。
   >
   >  私たちの村は、李朝時代にはいつも水害で悩まされていた。
   >  そこで農作が思うようにできなかった水田地域を、「べべーミ」(船が浮かぶような水田)と
   >  呼んでいた。
   >  しかし、1911年(明治四十四年)、川に堤防が築かれたために、水害から逃れることが
   >  できた。
   >  それからは「ベベーミ」という悪名のあった水田が一等級の水田に変わって、
   >  多収穫地として生まれ変わった。 この話は、私の父親がしてくれた話である。
   >
   >  母はいつも韓服を着ていた。
   >  しばしば李朝時代のころの生活がいかに苦しいものだったのかを、話してくれた。
   >  村には五つの農業用水池があった。
   >  日本人が京釜線を敷くのにあたって、池を掘って線路の盛り土をしたということを
   >  教えてくれたのも、母だった。
   >
   >  日本統治時代になってから、村の人々はまともな生活を営むことが
   >  でぎるようになったのだった。
   >
   >  私の村では、独立運動系の人々を除けぱ、ほとんどの村民が日本人を尊敬していたし、
   >  敬愛していたといってよかった。 
   >
   >  村の人々のあいだで
   >  「 イルボンサラムン・キョンウカタルダ 」(日本人は、事理に明るい〈すべて正しい〉)
   >  という言葉がよく交わされた。
   >  それでも村の人々が、外国人である日本人に対して屈折した感情をいだいていたことも
   >  事実だった。
   >  何といっても、韓国は外国の支配下にあったのだ。
   >  日本人のもとで働いたり、日本人と結ぶことによって成功している者は、
   >  陰で 「アブチェビ」(ゴマスリ) と呼ばれた。
   >  これにはたぶんに嫉妬心理も手伝っていただろう。
   >
   [ 画像:韓国の豊かな田園風景(省略)
   >
   > この穏やかな風景も日本の尽力があってこそのこと。
   > そのことで恩着せがましくは言わない。
   > わたしたちの世代がなしたことではなく、日本の先人たちの優しい情熱が成し遂げたこと
   > ですから。
   > しかし、ありもしないことを言い立ててわたしたちの祖先の真心を貶めることは
   > やめてくださいませんか。
   >
   > 日本人の農村教導師のこの言葉。
   > 「 夕焼けほのぼのと燃えあがる空を背にして、
   >  牛を連れて家に帰る美しい姿を目にしたときには、
   >  感激の熱い涙が、ポタリポタリと落ちるのであります 」
   >
   > 私心なく韓国の農業に尽くした日本人の感慨だと思います。
   >
   > 「 カを合わせて朝鮮を蘇生させましょう!」
   > これも日本人農業教導師の言葉です。

 これが朝鮮半島で日本人がしたことです。



 1920年代後半以降、朝鮮北部の国境地帯では巨大ダムによる電源開発が進められ、
 それを基盤に重化学工業地帯が形成されました。
 そこで生産された化学肥料(硫安)は、朝鮮だけではなく帝国内の農村地域に広く供給されました。
 また、その副産物が火薬に転用可能であることから、この地域の工業開発は、日本にとっては
 軍事戦略上も重要な位置づけがなされていました。
 巨大ダム建設過程においては、数多くの住民が転居を余儀なくされました。
 朝鮮総督府は、警察を動員して住民の反発を未然に取り締りつつ、同じく警察を介して
 土地・家屋の買収を行ったりもしました
 ( 広瀬貞三「水豊発電所建設による水没地問題−朝鮮側を中心に−」『朝鮮学報』第139号、
  1991年 )。

 

 だから、日本は崇高にして天上の存在である朝鮮人様をお救いさせて頂く為に、朝鮮半島を併合させて 頂いたワケじゃないつの。

 「 併合した朝鮮半島には、工業・産業を一切整備せずに、近代化した朝鮮半島を維持するコストは未来 永劫日本本土から持ち出せ 」 ってどんだけお貴族様思考なんだよ。
 莫大な資本を突っ込んで近代化して工業・産業を興せるように整備したんだから、それはキチンと活用し て、日本の富国に貢献して貰うのはアタリマエの話じゃないか。 それでなくとも、南下を企むロシアに睨み を効かせるには半端ないコストが掛かる。 ある程度は朝鮮半島で稼ぎ出して貰わなくては困るのだよ。

 というか、よくもまぁ

 > 巨大ダム建設過程においては、数多くの住民が転居を余儀なくされました

 なんて書けるよな。

 そんなことは、日本本土を含むそこかしこで当たり前に行われてきた事だ。

   JACSES 持続可能な開発と国際援助 No.3(1995年10-11月号)
   開発援助と立ち退き問題
   http://www.jacses.org/sdap/bps/bps03.html
   > 近年、開発に関する議論において 「アジアの奇蹟」 という言葉がたびたび引用される。
   > 台湾、韓国といった東アジア諸国、そしてインドネシア、マレーシアといった
   > 東南アジア諸国連合(ASEAN)各国は、海外からの民間投資や、世界銀行(World Bank)、
   > アジア開発銀行( Asian Development Bank ) などの多国間開発銀行、
   > そして日本のODAからの莫大な資金援助に支えられ、目覚ましい経済成長をとげている。
   > さらにここ数年、中国とインドも国際市場への参入を着々と進めつつある。
   > しかし、こうした開発の「成功」の軌跡も、マクロの経済成長という側面からではなく、
   > 公平な開発の恩恵の配分という別の側面からながめてみると、まったく違った評価が
   > 導きだされる。
   > たとえば、大規模なインフラ整備のプロジェクトに対する開発援助が、
   > こうした急激な経済成長に大きく貢献してきたといえるわけだが、しかし一方、
   > そうした大規模なプロジェクトのなかには強制的な住民の立ち退きを伴うものも多く、
   > これまで数々の深刻な問題を生んできたという事実をどう考えるかということである。
   > 巨大ダム建設に代表されるような、時には数十万人におよぶ住民移転をともなう
   > 開発プロジェクトは、移転をやむなく受け入れた住民の多くが生活基盤を根こそぎ奪われ、
   > 貧困の悪化、移転先の受け入れ社会との間の土地や資源をめぐる摩擦、あるいは
   > 伝統的社会の崩壊といった、はかり知れない犠牲の数々を招いている。
   > さらに、こうした大量の人々の移住にともなって発生する、環境への影響も
   > 見過ごすことのできない問題となっている。
   >
   《以下略》

 粗末な住居が密集している地域を再開発して、クルマが通る前提の道路や鉄道軌道や駅,工場や付随 するインフラを整備しようとしたら、立ち退きが強制されるのはアタリマエだ。

 どう思考したら土着の朝鮮人を立ち退きさせないで↓こんな文明改革が出来るというのかね。

   日本併合前後の朝鮮の写真
   http://ccce.web.fc2.com/si/beforeafter.html

 秘策があるなら教えて欲しいわ。



 以上のように、植民地下でのインフラ整備や産業開発は、
 日本が朝鮮に押し付けた軍事的・経済的な役割に応えるかたちで推進されたものでした。
 しかも、朝鮮総督府は、「民主的」な手続きを踏むことなく、強権的に大規模な各種事業を
 実施していったのです。 植民地下の朝鮮では、朝鮮人の政治的権利が否定されていました。
 そのことが、強権的な事業実施を可能にしていたといえます。
 インフラ整備や産業開発が外見上「順調」に実施されていった裏面には、
 意思に反して労働力を徴用され、また生産と生活の基盤を物理的に奪われた
 数多くの朝鮮人の存在があったのです。
 多くの朝鮮民衆は、朝鮮総督府による強権的な開発に対して抵抗を試みました。

 

 んじゃ具体的に朝鮮半島の成人男子の何パーセントが抵抗勢力として戦ったのか、数字で出せ。

 前にも書きました。

 - - コピペここから - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 どんなに素晴らしい改善であっても、古い因習によって美味しい思いをしていた者にとっては利権の簒奪 でしかありません。

 そうした者達が反対勢力になるのは当たり前のことです。

 たとえば私は、親父が遺した資産がありますので、高齢者施設の事務員として働いて頂く給与以外に収 入があります。 高齢者施設の事務員として頂く給与は年収400万円程度ですが、その給与を丸々 使う生 活よりも豊かな (といっても所謂裕福層の生活に遠く届きませんが) 生活をして、さらに貯金も幾らか貯め る余裕があります。
 もし、日本の政治形態が変わって、「たとえ一度引き継いだ物であっても、遺産は全て没収」という事にな るのであれば、私も抵抗勢力になって、新しい日本政府と闘うでしょう。

 朝鮮半島を併合した日本政府は、こんな風に朝鮮半島を変えました。

 [ 画像:くらえ!

   【時事とコピペ】
   【コピペ】日韓併合 日本による朝鮮統治とその成果 [歴史コピペ【朝鮮編】]
   http://current-affair.blog.so-net.ne.jp/2008-06-27-1

   > 日本の韓国併合(1910年)以前については近代的統計がなく正確な分析は困難だが、
   > 18世紀から19世紀の朝鮮社会は、資本蓄積率が低く有力な産業が育たず、
   > 人口は停滞ないし減少し、80〜90%が農業に携わり、飢餓と貧困の支配する沈滞社会であった
   > と言える。
   >
   > この前近代的な半島に対する日本の統治は、西欧帝国主義諸国のような収奪型でなく、
   > 日本本土と同様な制度と社会基盤を整えることにより、半島を永久編入しようとするもの
   > であった。
   > 簡単に表現すれば官主導による急速な近代化であった。
   >
   > << 封建的諸制度、因習の廃止・禁止 >>
   >
   > ・ 身分制度とそれに伴う特権や差別の廃止 (身分制度廃止令は併合前だが、実際は後)
   >  奴婢の解放 (人口の30%)
   >  両班の特権廃止
   >  女性の解放(名前を奨め、再婚を許可)
   >  衣服の自由化、瓦屋根や二階建て以上の家屋の制限を撤廃
   >
   > ・ 因習の廃止
   >  人身売買の禁止
   >  宦官(睾丸の腐割)の禁止
   >  纏足の禁止
   >  少女を妓生とすることを禁止
   >  呪術的医療の禁止(朝鮮巫術の禁止)
   >
   >
   > << 近代的経済法制の導入 >>
   >
   > ・ 私有財産の保障(所有権制度の整備)
   > ・ 土地測量と地籍の確定 (墳墓など0.05%位が未申告地として残った)
   > ・ 近代的企業制度と商法の確立
   > ・ 通貨制度の整備
   > ・ 度量衡の統一
   >
   >
   > << 近代的社会制度の導入 >>
   >
   > ・ 罪刑法定主義を徹底(私刑の禁止)
   > ・ 残虐刑を廃止
   > ・ 行政の単位をそれまでの一族から、家族(氏)に規定(これが創氏の目的)
   > ・ 家長の権限を制限
   > ・ 地方の行政長や議員の選挙による選出
   >
   >
   > << 教育・医療の近代化と普及 >>
   >
   > ・ 小学校5,000校以上、大学など1000校以上を建設
   > ・ ハングルの整備と普及
   > ・ 西洋医学や衛生思想の普及、疫病の防除と罹患者の隔離、医療施設の整備
   >
   >
   > << 社会基盤の整備 >>
   >
   > ・ 道路、橋、鉄道(4000km)、港湾の整備、電源開発
   > ・ 治水事業による耕地拡大と農業の近代化
   > ・ 大規模な植林(6億本)
   >
   >
   > これらの諸政策の結果、次のよう成果があった。
   > ・ 1920・30年代GDP平均成長率4%(1920年代の世界経済は2%以下、日本は3%強)
   > ・ 1人当り国民所得が1910年の40ドルから倍増
   > ・ 日本資本の大量流入(統治期間総額で80億ドル)による通信、運輸、都市の発達
   > ・ 耕作地の拡大(246万町から449万町まで)
   > ・ 米の反当り収穫量が0.5石から1.5石まで3倍増
   > ・ 農産物、工業製品の輸出の急増 (内地で半島米の輸入反対運動が起こった程)
   > ・ 人口が1300万人から2600万人に増加
   > ・ 平均寿命が24歳から56歳に
   > ・ 識字率が61%を超えた(1944年時、併合時は4%程度と推定されている)
   >
   > 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
   >
   > 尚、西欧宗主国は独立した植民地に残した資産を独立国に買い取らせている。
   > 日本は日韓条約で半島の資産(60兆円相当)を放棄し、更に8億ドルの経済援助を与えた。
   > (当時の韓国国家予算は、3.5億ドル)
   >
   > --------------------------------------------------------------------------

 もし、私が『YESロリータ,Noタッチ』を絶対遵守する紳士的ロリコンではなく、ガチのぺドフィリアであった なら、

 >  人身売買の禁止

 や

 >  少女を妓生とすることを禁止

 を命を賭してでも妨害したに違いありません。

 奴婢を働かせて自分は遊んで暮らしていた人は、

 >  奴婢の解放

 に抵抗したことでしょう。

   抵抗勢力があったのだから併合は望まれなかった

 のではありません。

   併合によって性的な愉しみや利権等が失われる層が抵抗勢力になった

 だけの話です。

 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - コピペここまで - -

 ということでしかありません。

 ですから抵抗勢力が居たことは事実です。

 しかし、「多くの朝鮮民衆は」ではありません。

 特権を簒奪されたくない者全員が抵抗勢力となったと仮定しても、その数は全人口の半分以下です。

   2005年07月22日 徒然なるままにエッSAY!
   「チャングムの誓い」と李朝520年の身分制度
   http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/28635881.html

   《前略》
   >
   > いまや比較文化論で確固たる名声をはくした呉 善花(オ・ソンファ)を
   > 口汚く評論している記事を読んで、なぜこれほどまで酷評するのかと
   > 不信感を持ったことがある。
   >
   > 田氏はソウル出身で呉氏は済州島出身これだけで納得した。
   > 済州島は昔は「元」の直轄地で軍馬の放牧地であり、流人の島であった。
   > 華夷秩序から言えば小中華の中心はソウルであり、遠く離れるほど軽視されるのである。
   > 特に済州島やウツリョウ島なんかはその典型である。
   >
   > 昔の百済(今の全羅北・南道)は金大中大統領が出るまで長いこと差別されてきた。
   >
   > あまり知られていないことであるが
   > 那覇に対する石垣島も儒教的意識の強い沖縄人の心の中にあると
   > 沖縄出身の恵 隆之介氏がいっている。
   > ロスの黒人によるリトルソウル暴動の原因は
   > 韓国人による黒人に対する差別意識だったということである。
   > もっとも彼らは韓国内では最下層の白丁(ベクチョン)出身者が多かったというのも
   > 皮肉なものである。
   > このように世界で一番身分差別の激しい民族はといえば韓国・朝鮮人というのが定番である。
   >
   > 何が彼らをこうさせたかというと李朝時代の厳しい身分制度にあったのではないかと思う。
   >
   >
   > ● 李氏朝鮮時代の身分制度
   >
   > この時代(1392年〜1910年 ただし、1897年からは「大韓帝国」であったが、
   > 実体は李氏朝鮮時代))の身分制度も高麗時代のものを継承した。
   >
   > 身分は、大きく「良民」と「賤民」に分かれる。
   >
   > ◎ 「良民」自由民であり、納税、国役の義務を負う
   > │
   > ├○ 両班(文班、武班)
   > │
   > ├○ 中人(下級役人、技術官など)
   > │
   > └○ 常民(農民、商人、職人)
   >
   >
  > ◎「賤民」
  > │
  > └○ 奴隷 ―┬─ 奴婢 売買、贈与、相続の対象
  >       │
  >        ├─ 公奴婢 ― 国家に所属 
  >       │
  >        └─ 私奴婢 ― 個人に所属
   >
   >         「入役奴婢」は、国の労役や主人の雑役に従事しなければならない
   >
   >         「納貢奴婢」は国や主人から独立の生計を営みながら一定の身貢をする義務
   >
   >
   > ● 白丁(べクチョン)(動物の屠殺に従事する者)
   >
   > ● 才人(広大ともいう)(芸人)
   >
   > ● 官妓(役所に所属する酌婦)
   >
   > ● 牽令(キュンエン)(牛・馬を引く者)
   >
   > ● 砲手(猟師)
   >
   > ● 水尺(スチョク)(狩猟民)
   >
   > ● 駅卒(駅の使用人)
   >
   > ● 巫女
   >
   > ● 僧侶
   >
   《中略》
   >
   > 奴婢制度は、1894年の甲午改革(日本の強力な指導)で廃止されるまで続いた。
   > しかし、なかなかその偏見は収まらず、
   > 現在でも「五姓」といって賎民の子孫とされる「姓」があり、
   > 結婚・就職などの障害が見られる。
   >
   >
   > ■ 李氏朝鮮時代には、どのくらいの「奴隷―奴婢」がいたのであろうか。
   >
   > これについては、現存する李氏朝鮮時代の「戸籍帳籍」は
   > 「山陰帳籍 1603 年、1630 年」と「大邸帳籍 1690 年-1849年」を分析すればわかる。
   > これらの「戸籍帳籍」は日本人研究者に公開されていないと聞くから
   > (次に韓国に行ったら確認してみる)、専ら、四方博京城大学教授(執筆当時)の
   > 「朝鮮社会経済史研究(中)」から引用する。
   >
  > ┌──────┬─────┬─────┐
  > │      │1690年│1858年│
  > ├──────┼─────┼─────┤
  > │ 両  班 │  7.6%│  48.6%│
  > ├──────┼─────┼─────┤
  > │ 常  民 │  51.0%│  20.2%│
  > ├──────┼─────┼─────┤
  > │奴婢(奴隷)│  41.2%│  31.3%│
  > └──────┴─────┴─────┘
   >
   > 人口はあまり変わっていないのに
   > 支配層の両班が1割程度から5割にまで増えているのは官職の売買があり、
   > 三代にわたって ≪ 良人(両班も含まれる) ≫ を冒称する者は
   > これが認められるという規定があったためとも言われている。
   >
   >
   >  *********************************************
   >
   >   「立ち直れない韓国」 黄文雄 1998年 光文社
   >
   >  朝鮮の社会革命の難しさの根源は、その伝統的な身分階級制度にある。
   >  甲申改革当時の金玉均ら改革派たちの主張によれば、
   >  朝鮮社会の門閥や封建的身分制度こそ不平等の根源、
   >  国政腐敗、国力衰弱の主因と指摘している。
   >  両班階級は、その能力や才能とは無縁な生まれつきの血縁関係によって規定される
   >  伝統的な身分制度であった。
   >  朝鮮半島は、1894年になって、ようやく「四民平等」を宣言した。
   >  そのときから、賎民(奴婢など)もやっと両班や良人と同じように戸籍を持つように
   >  戸籍法が改正された。
   >  しかし、甲午改革は「三日天下」ですぐに失敗した。
   >  朝鮮総督府は、実質的に法律によって階級差別廃止を行なったのであった。
   >
   >  李朝末期には、
   >  奴婢が公賎(官庁に所属した奴婢)と私賎(両班などに所有された奴婢)に分けられ、
   >  私賎は男子が少なく、女子がほとんどであった。
   >  婢(女の奴隷)は日韓併合当時、まだ一人三十円で売られていた。
   >  婢に特定の夫はおらず、
   >  何人かの間で替えていくのが風習であった。
   >  しかし、婢は主人の所有物であったから、その生まれた子供もまた主人の所有に属し、
   >  その子もまた転売されていくので、婢の子孫は、女子であれば、ほとんど世々代々
   >  奴隷として浮かぶ瀬あらんやといわれた(まさしく性奴隷)
   >  (『朝鮮農業発達史』『同・政策編』小早川九郎編著、友邦協会)。
   >
   >  朝鮮農民は、両班に差別され、白丁(被差別民)がまた農民に差別された。
   >  この階級社会ではトラブルが絶えなかった。
   >  このような朝鮮社会の病弊は、けっして一朝一夕で克服できる問題ではない。
   >  今日の韓国社会に至ってもそういえる。
   >
   《中略》
   >
   >  いずれにしても近代国家としての本格的社会改革は、
   >  朝鮮総督府からであったというべきだろう。
   >
   >  また、李朝時代の地域的差別は、
   >  西北地方と東北地方の出身者が、完全に官界から排除され、
   >  官吏は中央だけから送られた。
   >  もちろん、国家による地方差別は公然と制度化された。
   >  『経国大典』には、咸鏡道、平安道、黄海道の人は、官憲への登用はもちろん、
   >  鷹師への起用さえ禁止する条項があったほどだ。
   >  平安道人は、平安道奴、西漢、平漢、平奴、避郷奴と蔑視されていた。
   >  朝鮮総督府はこれらの差別を廃止したが、
   >  残念ながら、今日の韓国社会では、
   >  地域的な差別が厳然として存在している。
   >  それは朝鮮半島の永遠なる民族的課題とさえいわれている。
   >
   >  このような見捨てられた地方民、つまり東北、西北朝鮮の地方民は、被差別民だから、
   >  門閥を重んじる京城の両班たちは、ほとんど西北地方の人との婚姻を禁止し、
   >  つき合いさえなかった。
   >  というのは、東北、西北の地方民は、ほとんど任官を受けられなかったので、
   >  婚戚関係を持ったところで何の役にも立たないからである。
   >  ましてや京城の人間から見れば、
   >  東北、西北地方は、重罪人の禁固や流配の地にすぎなかった。
   >  咸鏡道人を「水売り」、「咸鏡道奴」、「咸鏡ネギ」と軽蔑し、敬遠するのは、
   >  伝統的な差別意識からくるものであった。
   >
   >  人種差別や地域差別は、朝鮮半島だけではなく、日本人社会にもある。
   >  韓国人、朝鮮人に対して、優越意識を持っている日本人のいるのは確かであろう。
   >  しかし、李朝社会ほどの人種差別と地方差別を持つ民族は、ほとんど考えられない。
   >  朝鮮総督府は、日韓合邦後、「内地延長主義」の原則をずっと堅持しつづけていた。
   >  それは朝鮮半島にとって、まさしく破天荒な政治原則であった。
   >  仮りにそれがしばしば有名無実であっても、少なくとも李朝以来、あるいは遠く溯れば
   >  三韓、三国時代以来の地域差別、さらに李朝以来の階級差別の歪みを是正する、
   >  一つの大きな契機となっていた。
   >  今日の韓国社会は人種差別にも、地域差別にも、悩みつづけている。
   >  しかし、階級差別を法的に禁止したのは朝鮮総督府時代からである。
   >  朝鮮総督府の時代は、多くの失政もあったことは確かであろうが、
   >  政治的変革以上に大きな社会変革を完遂した。
   >  この事実については、李朝体制を視野に、その延長としての朝鮮総督府とは何かを
   >  その原点から見ることが必要ではないだろうか。

 人口の半分近くを占める特権階級“両班”の全員が抵抗勢力に成ったワケではないと思いますが奴隷身 分を牛馬以下に扱き使って遊んで暮らしていた特権階級“両班”の中に 

         l/l//   ,. -−- .. __         / 
   な  絶       / /         `ヽ、_人/  ご  働 
   い  対    //  /         \     ざ  き 
   で  に    /_   .′       ヽ、\  \   る   た 
   ご  働      / ,,″ / ,ィ | l ll |l l ぃ ヽ <_ ///  く 
   ざ  き   ∠ 〃 -/、/ ! | l ll ll | l i   '. /      な 
   る   た    ///  ,.イfr?i、| | ll |l |,-H‐  i         い 
  ///  く   /  l i  //|/`┴1| |/|ィ乏了ト、 ///     で 
 . ’’’     .′ l|/,小、    _⊥ _   リ,ハ l .' /|  ∧ 
   /`Vヽ. /\  | | | |八   /ー--‐1`メ、厶ィi |/,.イ|  l  / ∨\ 
 ∠__  ∨  ヽ.} | | }川ヽ. ト、  ,ィ}/ //リ l/i/リ | ′ 
  ゝ   `V , ‐ァ .' メ、トく\/ヽヽ辷ク ,ィ'/‐-/リ,∠..._ l// 
   \  // / //  丶 \\ \_/// / / /  `メ、 
  ー- ヽ/   / // /〉   \ ヽ.ヽ    /{丁iヽ /  /   \       /〉 
   // ー- / // /// ̄ ヾ 、 ヽ}     `l | ィ\ / /   /∧ /   // 
 ./ /   / /ー//,′   }`ヾ i|  L___// | ,.へ,.イ/} // ,レ'  // 
   /   / /  //7    /  !`ヽ、 // ,.ィ' / ト、く  /|  〈/ 
 . /‐- / /  ///    /  /   ├く// l     l 丶>'  ノ  〇 
 .    / ー-///    /   ′  /  |   /     ヽ/ ̄/ 
         //´    /  /    '   /ー-' .. _         ̄l

 とばかりに、武装して 《 泣く子も黙るロシア軍に勝った日本軍 》 を舐めて掛かって襲った身の程知らず な奴はいただろう。

 しかし、それは“朝鮮民衆”じゃなくて“両班”だ ( もしくは両班に命令された可哀想な奴婢 )。

 そして、幾ら無学・無教養でも普通の神経をしていたら、日本軍から奪い取った、あるいはブラックマーケ ットで入手した僅かな火器で、指揮官もなしに日本軍に挑もうなんてバカな真似はしないだろう。

 特権階級“両班”の中に、ロシアさえも打ち払った屈指の軍事大国ニッポンを舐めて掛かった超弩級の バカが居て、そいつらが抵抗勢力としてはむかっただけでしかない。



 しかし、朝鮮総督府は、それらの抵抗活動を抑圧しました。

 

   YAHOO!知恵袋「日韓併合時に韓国側大々的な抵抗はあったのでしょうか?」
   http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11118364261

   > gropu220さん 質問日時:2013/12/23 19:42:12
   >
   > 日韓併合時に韓国側大々的な抵抗はあったのでしょうか?
   >
   > 軍人がゲリラ化して抵抗が続いたとか、反対を訴える大デモはあったんですかね?

   > granzootさん   回答日時:2013/12/23 21:13:24
   >
   > ありません。 そもそも当時は李朝の搾取が酷すぎて民衆はそれどころではない状態・・・・。
   > 日露戦争までに起こった民衆の反乱は全て朝鮮王朝に対する反乱で
   > 日本は巻き込まれただけ・・・・。
   > 日韓併合と言うのはそもそも1909年の12月4日に「大韓帝国の最大結社」である一進会が
   > 「日韓合邦を要求する上奏文」 を大韓帝国皇帝・高宗と首相の李完用に提出し
   > 「対等な立場での日本との合邦」 を要求しました。
   > 理由は予算が行き詰り再び破綻の危機に瀕したため・・・・・。
   > しかし、この要求に対して大韓帝国の農商工大臣の宗乗oが
   > 「 日韓双方の国力の差、文明の程度の差から”日韓対等合邦”は事実上不可能であり
   >  ”連邦制”では欧米列強に対抗するような強固な国家は建設できない。
   >  したがって日韓が一体となり伍ず強固な国家を建設するには
   >  大韓帝国皇帝の全権を大日本帝国天皇陛下に移譲するのが最も現実的である 」
   > と主張して併合条約締結に向かう・・・・。
   > つまり、言い出したのも主体的に進めてきたのも朝鮮人で
   > 最も大きな併合への障害が総監府初代総監の伊藤博文だったわけです。
   >
   > 補足
   > 一進会と言うのは東学党の残党が作った集団で
   > 民衆の支持者がかなり多かった朝鮮の政治結社です。

   

   > celtscepticさん   回答日時:2013/12/27 22:23:50
   >
   > 孫引きで恐縮ですが、日韓歴史共同研究報告書(第1期)の第3分科(近現代)の
   > 日本側の学者、戸部良一の『朝鮮駐屯日本軍の実像:治安・防衛・帝国』という論文(↓)に、
   > 朝鮮駐箚軍司令部編「朝鮮暴徒討伐誌」(1913年)が引用されています。
   >
   > http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/08-0j_tobe_j.pdf
   >
   > 当時の日本から見れば“暴徒”、韓国から見れば“義兵”の死傷者等は、
   > 1906年から1911年までの間に 「死者17,779人、負傷者3,706人、捕虜2,139人」 だそうです。
   > (↑の論文のP395=9枚目)
   >
   > 村落の住民が“暴徒”を支持したり匿ったりした場合は、
   > 「 責を現犯の村邑に帰して誅戮を加え若くは全村を焼夷する等の処置を実行 」 し、と
   > 相当激しい鎮圧を行ったようです。
   > ( 「」内は、朝鮮暴徒討伐誌からの引用。 カタカナはひらがなに変えています。
   >  ↑の論文のP394=8枚目 )
   >
   > ただ、交戦回数は
   > 「 1907年(8月以降)323回、1908年1,451回、1909年898回、1910年147回、
   >  1911年(6月まで)33回」(↑の論文のP393=7枚目。元ネタは朝鮮暴徒討伐誌)と、
   > 1907年の高宗の退位と韓国軍の解散をきっかけに本格化した抵抗は、日韓併合前には
   > ほぼ鎮圧されてしまっており、更に
   > 「 併合の際に於ける韓国軍隊の処分に就ては特に周到の注意を加えたり。
   >  明治四十年八月韓国政府が地方駐屯の鎮衛隊全部及び侍衛隊の大部を
   >  解散するに方り、非常なる紛擾を生じ其の解散の命に服せずして強力を以って
   >  抵抗を試みたるものあり、また解散兵にして相率いて暴徒に投じたる者亦少なからず。
   >  之が為め施政上に多大の影響を及ぼしたることあり。」
   > ( 「韓国併合始末ノ件」国立公文書館アジア歴史資料センター
   >  レファレンスコードA04010229300よりの引用 )
   > と、日本側が高宗退位後の事態を繰り返さぬよう意識していた事もあり、
   > 併合後に大規模な抵抗はおきませんでした。(全く無かった訳では無いですが…)
   >
   > また、国立国会図書館のデジタル化資料にある
   > 「朝鮮最近史 : 附・韓国併合誌」 (戸叶薫雄, 楢崎観一著・蓬山堂・1912年)
   > には、高宗退位の時の投石などを伴うデモや
   > 韓国軍の兵士の日本の警察隊への発砲についても書かれています。
   > ( 第六章丁未の政変の“三、反対派の暴動” )

   

   > granzootさん   編集日時:2013/12/27 22:55:46
   >
   > 追記します。
   > 朝鮮暴徒討伐志については前にも書きましたけど根本的に読み方が間違ってるんです
   > 研究者の・・・・。
   > 暴徒と言うのが日本から見た物と言うのは誤解です。
   > そもそも当時は大韓帝国の独立を目指して総監府が指導してる
   > 或いはその前段階で条約を整備する際中と言う時期です。
   > 当然ですが法令は大韓帝国の政府の名義で出ています。
   > またこの記録の大半は大韓帝国になる前の段階での討伐で
   > 討伐自体は朝鮮王朝の要請で行われたものです。
   > つまり暴徒と見てたのは「朝鮮王朝の方」であって日本軍は朝鮮王朝から
   > 「暴徒鎮圧」を要請されて「鎮圧してるのです。
   > 当時の朝鮮にはまともな軍隊は存在しません。
   > ですから日本軍に要請が来るのです。
   > それを何か日本に対して反乱を起こしたかのごとく書くような言論には私は同意できないし
   > 間違ってると思うと言う事です。
   > 1980年前後に出た朝鮮史の本はこういう意図的な誘導を引き起こす記述がものすごく多い。

 はい、論破。



 産業開発の結末

 「併合」時点での朝鮮は、農業中心の社会でした。
 その後、工業生産額が急増し、1940年には農業生産額とほぼ同額となっています。
 財政・民間部門による投資は農業生産の伸長をもたらしましたが、
 さらにそれらは、農業生産を大幅に上回る速度で工業生産の伸長を実現していったのでした。

 ただし、こうした生産力の上昇や産業構造の「高度化」にもかかわらず、
 朝鮮の就業構造にはそれほど大きな変化は起こりませんでした。
 朝鮮人有業者数に占める農業従業者比率は、1930年の81%が、40年に74%へと減少したに
 とどまります。
 朝鮮に立地した重化学工業などの大工場の場合、
 その多くは、当時の先端技術にもとづくものでした。
 そのために、機械や装置への設備投資が巨額に及んだのとは対照的に、
 労働力をそれほど必要としませんでした。
 その結果、急速な工業部門の伸展にもかかわらず、就業労働力の需要は限定的でした。
 かつ技術管理・生産管理は朝鮮在住日本人のホワイトカラーや技術者によって
 担われていたために、朝鮮人の就業機会はさらに制限されていました。
 結果として、大多数の朝鮮人は農業部門にとどまらざるをえなかったのです。

 

 いやいやいや。

 日韓併合時代の生産機械がフルオートマティックってどんなオーパーツだよw

 NC旋盤という自動化の最初の一歩が1960年代後半だぞ。

 この頃は、女工哀史に代表される様な生産工程の進捗をマンパワーに頼った大量生産だよ。

 そして、読み書き算盤も覚束なかった併合直後の朝鮮人をホワイトカラーや技術者に就けられないのは アタリマエだし、生産工程の進捗管理が複雑なら、そういう所も併合直後の朝鮮人は雇えなかった。
 そうするとどうなるか。
 併合以前に学校に通っていたのは、両班の中でも一握りの金持ちだけ。
 なにせ1千万人超の人口に対して小学校が100校しかなかったんだから、奴婢は勿論、常民だって学校 になんか通えません。

   植民地統治の検証 1
   http://didisama.tripod.com/didi/syokuminti1.htm

   > 搾取される上勤勉とは程遠い李朝時代の農民たち
   >
   >  「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社
   >
   >  地方を治める官吏は、みな中央で任命されたうえで派遣された。
   >  中央からやってきた役人たちは、地元に対して同情心を持っていなかった。
   >  着任すると、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の政治を行こない、
   >  自分の任期中に、できるかぎり税を取り立てるかたわら、自分の懐を肥やそうとした。
   >  平均的な任期が短いものだったので、苛政(暴政)にいっそう拍車がかけられた。
   >  そこで、日本のように地方ごとに産業が創出されて、発展することがなかった。
   >  韓国の農民たちは働く意欲を失った。
   >
   >  李朝末期の韓国を訪れたカナダ人ジャーナリストのマッケンジーは、
   >  「 私は、十分に耕せそうな土地をほったらかしにしていながらも、
   >   飢えに苦しむ農民のさまが理解できなかった。
   >   『 どうしてそれらの土地を耕さないのか 』
   >   ときいたところ、
   >   『 耕せば耕すほど、税を取られるだけのことだ 』
   >   という返事があった 」 (「朝鮮の悲劇」 F.A .マッケンジー)
   >  と書いている。
   >
   >
   >  「韓山紀行」 山路愛山
   >  (「近現代史のなかの日本と朝鮮」 山田昭次、高崎宗司 1991年 東京書籍より)
   >
   >  (釜山にて)僕の目に映じたる韓人の労働者はすこぶるノン気至極なるものにして
   >  餒ゆれば(うゆれば=食糧がなくなって腹がへる)すなわち起って労働に従事し、
   >  わずか一日の口腹を肥やせばすなわち家に帰って眠らんことを思う。
   >  物を蓄うるの念もなく、自己の情欲を改良するの希望もなく、ほとんど豚小屋にひとしき
   >  汚穢(おわい)なる家に蟄居し、その固陋(ころう)の風習を守りて
   >  少しも改むることを知らずという。
   >  僕ひとたび釜山の地を踏んで実にただちに韓国経営の容易の業にあらざるを知るなり。
   >  (明治37(1904)年5月5日)
   >
   > 朝鮮の発展はインフラの整備だけで成し遂げれるものではなかった。
   > 怠惰な民族性を改め勤勉な労働精神を涵養しなければ朝鮮の発展はなかった。

   > 朝鮮農民の手本となった日本農業移民
   >
   >  「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
   >
   >  日本人の朝鮮半島に対する「土地強奪」間題としてよく批判されているのは、
   >  日本人が小高い丘に登って見渡し、土地を指さして、手当たりしだいに
   >  良田を奪っていったというものだ。
   >  日本人は両班(ヤンバン)ではあるまいし、法治国家の国民である。
   >  これほどの歴史歪曲があろうか。
   >  朝鮮半島では、東拓をはじめその他の日本人地主は、せいぜい一割にすぎなかった
   >  仮に「二束三文」で朝鮮半島の土地を手に入れた者がいたとしてもである。
   >  (中略)
   >  移住農民は、やがて米価の高騰により、生活状態が好転し、
   >  養豚、養鶏、養蚕、果樹園の経営その他の多角経営で、地方に貢献していった。
   >  そもそも日本農民は、朝鮮農民の粗放農業とは違い、集約農業に慣れていたので、
   >  集約的、多角的経営によって定着し、農民は生活が向上している。
   >  日本農民が開拓した農地は、決して言われているほどの良田ばかりではなかった。
   >  開墾地は元は大河の遊水地、交通不便にして少々塩害がある干拓地であったものが
   >  少なくなかった。
   >  たとえば、江西干拓事業は3500町歩の干潟地、海岸草生地であった。
   >  李完用の養孫から買った土地は、黄海道東部の山間にある高原地帯であった。
   >  地味不良で有機物に乏しく、灌漑用水も上がらない、水田にもならない不毛の地であった。
   >  当時の東拓農業移民を含めて、日本の農業移民は、朝鮮半島農民の美田、良田を
   >  強奪するよりも、朝鮮半島の農民が一顧だにしなかった不毛の地の開墾や僻地の干拓を
   >  行なう者が多かった。
   >
   >  日本農民の朝鮮半島開拓は、数千年来の農耕国家には、まったく考えられないほどの
   >  農業革命をまき起こしている。
   >  農業移民の改良農法は、成績が上がれば朝鮮小作人のモデルとなり、
   >  改良品種の試作によって、新品種、新農法が次から次へと普及していった。
   >  さらに移住農民の養豚、養鶏、養蚕などの多角的経営、農事施設、農業指導、
   >  勧業奨励などは、かつて小作人からの収奪しか知らない李朝時代には、見られない
   >  光景であった。
   >  当時の朝鮮人の気風としては、午前中に働いて、午後は寝て暮らす、
   >  明日は明日の風が吹くというのが一般的であったからだ。
   >  雨や雪の日の労働を忌み嫌い、冬季になると室内に蟄居(家のなかに閉じこもり)して、
   >  無為徒食する朝鮮農民にとって、日本農民が老若男女の差なく、家族ぐるみの農事に
   >  従事し、厳冬にも室内作業その他の副業に励むことは驚異であった。
   >  そして日本農民の自カ更生に燃える生活意識と勤勉な農民気風が、新風として
   >  朝鮮の農村に吹き渡った。
   >  そもそも朝鮮人女性は屋外で労働する習慣がなく、屋内に隠れていて、
   >  他人に顔を見せることを恥としていたが、婦人の屋外勤労奨励により、
   >  少しずつ畑などで働くようになった。
   >
   >  日本農民の集約的農法は、労働力を結集して、換金作物から副業にまで及び、
   >  自ら資産を増していくとともに地方をも潤していった。
   >  日常必需品の急増によって地方経済をいっそう刺激し、市場経済が賑わっていく。
   >  しかも、僻地にまで組合や学校がつくられ、医療施設も普及し、道踏、橋梁がつくられ、
   >  流通、運搬も盛んになった。
   >  「土地の収奪・搾取」などと机上で論じている戦後の論埋とは違い、
   >  日本の農民が朝鮮半島の農業近代化だけでなく、朝鮮半島の近代市民社会の成熟に
   >  多大な貢献を果たしてきた。
   >  その歴史的事実について、終戦後の学者たちは、なぜ本格的な研究をしないのだろうか。
   >  まことに遣憾である。

   > 李氏朝鮮の国教ともいえる儒教では「君子は労せず」と教えており、
   > 額に汗して働く者を卑しんだ。
   > そのため支配階級である両班は労働をすることが全くなかった。
   > 労働を卑しむ社会は停滞するほかない。
   >
   《中略》
   >
   >  「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫)
   >
   >  (両班は)現在、この国の大きな災厄になっている。
   >  なぜなら、両班階級の人口が途方もなく増大したため、彼らのほとんどが極貧におちいり、
   >  強奪や搾取で生活しなければならなくなったからである。
   >  すべての両班に品階と階級を与えることは、現実的に不可能である。
   >  しかし全ての者がそれを望み、幼少の頃から官職の道に向かって科挙の準備をしている。
   >  ほとんどの者は、他に生活の方法を知らない。
   >  彼らは、商業や農業、あるいはなんらかの手工業によって真面目に生活の糧を稼ぐには、
   >  あまりにも高慢であり、貧窮と奸計のなかで無為に世を送る。
   >  彼らはいつも借金で首がまわらず、何かちょっとした官職の一つも回ってこないかかと
   >  首を長くしており、それを得るためにあらゆる卑劣な行為を尽くし、それでもなお望みが
   >  かなえられない場合には飢えて死んでしまう。
   >  宣教師たちが知っていたある両班などは、3、4日に一度しか米にありつけず、
   >  厳冬に火の気もなく、ほとんど服も着ないで過ごしながらも、いかなる労働に
   >  従事することも最後まで拒絶し通したものであった。
   >  何かの労働に就けば、たしかに安楽な生活は保障されるであろうが、その代わり
   >  両班の身分を剥奪され官吏の地位につける資格を喪失するため、彼らは労働することを
   >  拒むのである。

 つまり

   日韓併合後に朝鮮半島に居た現地民族を近代産業に就かせるのは困難だった。

 ということです。

 ですから、併合直後ではなくて長い目で見れば

   http://ja.wikipedia「日本統治時代の朝鮮」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/日本統治時代の朝鮮 - 5 経済

   > 「朝鮮は日本の脇腹に突きつけられた匕首だ」 と云われ
   > 日本本土防衛の為の重要な要であり、また日本の中でも最も遅れている地域の一つである
   > と政府は捉え、富国強兵政策に従い多額の国家予算を朝鮮半島に投じた。
   > 鉄道、道路、上水道、下水道、電気インフラ、病院、学校、工場など、
   > 最新鋭のインフラの整備を行い、近代教育制度や近代医療制度の整備を進め、
   > 朝鮮半島を近代化していった。
   >
   > 鉄道路線の路線は幹線ばかりでなく生活用の支線も多くが敷設され
   > 地方経済を活性化させた。
   > 三菱製鉄(兼二浦製鉄所)や日本製鐵(清津製鉄所)による製鉄所の建設、
   > 日本窒素肥料(現:チッソ)の進出による水力発電所建設などが行われ、
   > 朝鮮総督府からの補助金による1,527件の農業用ダムと410件の水路の建設、
   > 5億9千万本以上の植林や砂防ダム建設などの水利事業も行われた。
   > これは、それまでの欧米諸国による収奪的植民地政策には見られないものであった[79]。
   > 1920から30年代の朝鮮半島の経済成長率は年間約4%で、同じ期間の欧州(1%台)や
   > 日本・アメリカ(3%)に比べて、より高い成長をしており、
   > 朝鮮半島1人当りの生産成長率も約2.4%と高い成長率を記録 ← フォント大
   > していた結果が出ている[80]。

 ちゃんと生産成長してます。



 ところで、「産米増殖計画」の過程でコメが大量に日本に移出されるようになり、
 その価格は帝国内での需給状況に強く規定されるようになりました。
 コメに次いで重要な商品作物であった棉花や繭に関しては、
 紡績資本・製糸資本(日本からの進出資本および一部朝鮮人民族資本)が
 地域ごとに独占的に原料(棉花・繭)を買い取る制度がつくられました。
 そのためにそれら商品作物の価格は、農民に不利に決定されていました。
 その一方で農民は、化学肥料など農業生産に必要な資材の購入あるいは
 水利事業費(事業借入金の償還)など、現金支出負担の増大を強いられました。
 くわえて、かつて朝鮮農村には、綿織物などの在来産業部門が発達していましたが、
 日本国内からの工業製品の流入、朝鮮での機械制繊維工業の立地などによって、
 農民の自給的生産領域を残してそれら在来産業は衰退してしまいました。
 交通網の整備が、こうした傾向を促進しました。
 こうして、朝鮮農民にとっては、インフラ整備・産業開発が
 農業所得水準の停滞をもたらしたばかりでなく、兼業・副業収入源までをも奪う契機となりました。

 

 > 農民の自給的生産領域を残してそれら在来産業は衰退してしまいました。

 こんなことは時代の移り変わりと共に世界中で起こっている。

 かつて日本は「鉄は国家なり」と言われる程の製鉄大国だった。 そこから派生して造船大国にもなっ た。
 それが韓国や中国の製鉄メーカーに ( 産業スパイで技術を盗まれたこともあって ) コスト勝負で敗れて 衰退してしまった。
 日本の戦後の高度成長を支えた産業の一つに紡績があるが、これも中国を初めとする東南アジアにコ スト勝負で負けて大幅に衰退してしまった。
 かつて栄華を誇った自国の産業が衰退するのを見ることは断腸の想いだが、これは仕方のないことだ。
 昨今はグローバル化とやらで、日本国内の主要産業でさえも工場が海外へ流出してしまった。 極一部 の光学機械と高額商品を除けば工業製品の多くが made in 支那 を始めとする東南アジア製だ。 日本人 の手によるモノ造りが衰退している事に日本人として危機感と哀愁を覚えなくはないが、それも経営者の 決断なのだから部外者がゴチャゴチャ言う事では無い。 文句があるなら自分でモノ造り工房/工場を立ち 上げて経営するべきであって、支那の所為でもなければベトナム/マレーシアの所為でもない。

 時が流れるとはそういうことなのだ。

   2014年03月07日 哲学ニュース nwk
   現代技術の前に滅んでいった、見たことがないのにどこか懐かしい職業11選
   http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4636649.html


 というか、

  ┌──────┬─────┬─────┐
  │      │1690年│1858年│
  ├──────┼─────┼─────┤
  │ 両  班 │  7.6%│  48.6%│
  ├──────┼─────┼─────┤
  │ 常  民 │  51.0%│  20.2%│
  ├──────┼─────┼─────┤
  │奴婢(奴隷)│  41.2%│  31.3%│
  └──────┴─────┴─────┘

 その 《 兼業・副業収入源 》 にしたって、特権階級である両班が奴隷を働かせて得ていた金だろうに。  しれっと、日本人の所為で朝鮮人全般が貧乏になったような書き方をするんじゃねぇよ。

 衰退だの奪うだの、日韓併合前に十分な産業が発達していたようなクチ振りをw

   世界一の嘘つき国家、韓国  韓国人は自ら日本国による併合を望み渇望した
   http://www.koreanpinklady.com/sub1.html
   > 外国人が見た朝鮮の実情
   >
   > イザベラ、バードは朝鮮を四度訪問している
   >
   > 1894年1月に釜山に上陸し、ソウルに滞在した後、4〜6月に漢江流域を踏査し元山に達した。
   > 同年11〜12月にはロシア領内の朝鮮人社会を視察した。
   > 1895年1月には、ソウルで高宗に謁見した。 同年11月には、陸路でソウルを往復した。
   > さらに1897年にも朝鮮を訪れ、ソウルに滞在した。
   > 李朝末期の朝鮮社会に対しては、役人の腐敗と民衆の無気力を絶望的と評価し、
   > 自主独立の可能性は全く認めていない。
   > 日本びいきのバードも閔妃暗殺事件にはさすがに呆れたのか、
   > ロシアが朝鮮を支配すればよいと思っていたらしい。
   >
   >  私は北京を見るまではソウルを地球上でもっとも不潔な都市、
   >  また紹興[中国浙江省北部の県]の悪臭に出会うまではもっとも悪臭のひどい都市
   >  と考えていた!
   >  大都市、首都にしてはそのみすぼらしさは名状できない程ひどいものである。
   >  礼儀作法のために、二階家の建造が禁じられている。
   >  その結果、二十五万人と見積もられている人びとが「地べた」、
   >  主として迷路のような路地で暮らしている。
   >  その路地の多くは、荷を積んだ二頭の雄牛が通れないほど狭い。
   >  実にやっと人ひとりが、荷を積んだ雄牛一頭を通せる広さしか無い。
   >  さらに立ち並んでいるひどくむさくるしい家々や、その家が出す固体や液状の廃物を
   >  受け入れる緑色のぬるぬるしたどぶと、そしてその汚れた臭い縁によって
   >  一層狭められている。
   >  それにも拘わらず、ソウルには美術の対象になるものが何も無く、古代の遺物は
   >  はなはだ少ない。 公衆用の庭園も無く、行幸の稀有な一件を除けば見せものも無い。
   >  劇場も無い。 ソウルは他国の都市が持っている魅力をまるで欠いている。
   >  ソウルには古い時代の廃墟も無く、図書館も無く、文学も無い。
   >  しまいには、他には見出せないほどの宗教に対する無関心から、
   >  ソウルは寺院無しの状態で放置されている。
   >  一方、未だに支配力を維持しているある種の迷信のために、ソウルには墓がないままに
   >  されている。!
   >
   >  朝鮮では、私は朝鮮人を人種の滓と考え、その状況を希望の持てないものと
   >  見做すようになっていた。
   >  クルスクで、私は、自分の意見をかなり修正する根拠となるものを見た。
   >  自らを富裕な農民階級に高めた朝鮮人、またロシアの警察官、開拓者や軍の将校から
   >  等しく勤勉と善行の持ち主だ、というすばらしい評判を受けた朝鮮人たちは、
   >  例外的に勤勉で倹約する質朴な人では無い事を心に留めておかなくてはなるまい。
   >  彼らはたいてい飢饉から逃れて来て飢えに苦しんだ人びとであった。
   >  そして彼らの繁栄とその全般的な振舞いは朝鮮に居る同国人が、もしもいつか
   >  正直な行政と稼ぎの保証がなされるならば、徐々に人間になれる事であろう、という
   >  希望を私に与えてくれた。
   >
   >  徳川を出発する前に、無感動で汚く、ぽかんと口を開け、貧しさにどっぷり浸っている
   >  群集包囲されて宿屋の中庭のごみ、むさ苦しさ、がらくた、半端物の真ん中で
   >  じっとしていた時、朝鮮人は見込みのない、無力で哀れな痛ましい、
   >  ある大きな勢力に属している単なる羽に過ぎない、と私は感じた。
   >  そして若しロシアの手中に握られ、その統治の下で、軽い税金同様勤勉の利得が
   >  保証されない限り、千二百万人若しくは千四百万人の朝鮮人に希望は一つも無い、
   >  と感じていた。 要約して、以下のような意見を思い切って述べる事にする。
   >
   >  多くの人口を抱えている朝鮮の状況は、日本かロシアの孰れかの援助を得て
   >  次第に改善されるよう運命付けられている。
   >  1897年の明確に逆行する動きにも拘わらず私は、この国の人びとの将来に
   >  希望が無いとは決して思わない。
   >
   >  だが、次の二つの事が非常に重要である。
   >
   >  1、朝鮮は、内部からの改革が不可能なので、外部から改革されねばならない事。
   >
   >  2、君主の権力は、厳しくて永続的な憲法上の抑制の下に置かねばならない事。
   >
   >                                        イザベラ、バード


   http://ja.wikipedia「日本統治時代の朝鮮」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/日本統治時代の朝鮮 - 5 経済

   > 韓国や北朝鮮では、現在も朝鮮の資本主義の萌芽を李氏朝鮮時代に求め、
   > 「 芽生えた朝鮮の資本主義は成長する前に日韓併合による植民地化によって
   >  1945年まで大きく抑制されていた 」
   > という説が通説として流布されている。
   > これに対し、ハーバード大学教授で朝鮮史が専門のカーター・J・エッカートは、
   > 研究の結果、李氏朝鮮時代の経済規模は同時代の日本や中国と比べて小さく、
   > 当時の商人と後の時代の資本家とのつながりがほとんど無いため、
   > 資本主義の萌芽が李氏朝鮮時代には存在せず、日韓併合による日本の政策によって生まれ、
   > 特に戦後の韓国の資本主義や工業化は、上記のような日本の朝鮮半島での近代化政策を
   > 模したものであると発表している[98]。

 日本に併合されて漸くスタートラインに立てたのです。



 図−1に朝鮮における農家戸数の推移を示しました。
 自作農の場合、1920年代前半までは微増、それ以降微減に転じています。
 自小作農は一貫して減少、小作農はぎゃくに一貫して減少の動きを示しています。
 上記のような農家所得(農業所得+農外所得)の変化にともなって
 負債を累積させる農家が増大しました。
 しかも、当時朝鮮農村には近代的な金融機関が発達しておらず、
 これらの負債の大部分が高利貸によるものでした。
 結果的にそれらの農家は、所有農地を喪失せざるを得なかったのです。
 こうして、数多くの自作農・自小作農家(とくに後者)が土地を失うこととなりました。
 その裏面では、日本人・朝鮮人地主が農地を集積していました。
 非農業部門において労働力を吸収する力が弱かったために、これら困窮した農民は、
 土地を失った後も小作農として農村に滞留しました。
 小作地借り入れを望む農家が増えたために、地主へ支払う小作料の水準は
 高止まりしたままでした。
 高率小作料もまた、農民の困窮化を促す要因となりました。
 資料:朝鮮総督府『朝鮮総督府統計年表』各年版より作成。


   [ 画像:q3-1 省略 (引用元アドレスをご参照ください)

   注1)1920〜32年の自作農には耕作地主(地主(乙))を含む。

   注2)1919年以前の数値は不正確なため省略した。


 貧窮した農民は、相対的に高価なコメの商品化量を増やし、
 代わりに「満洲」から輸入された粟などの安価な雑穀類を購入して消費することで、
 糊口をしのぎました。

 

   http://ja.wikipedia「日本統治時代の朝鮮」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/日本統治時代の朝鮮 - 5 経済

   > このように農地が新たに開墾され、水利事業によって生産能率が向上したことにより、
   > 食糧生産は年々増加し、併合前の1909年には745万7916石であった収穫高は、
   > 1918年には1529万4109石と2倍以上になったが、米の多くが日本(内地)に輸出されたため
   > 朝鮮人1人当たりの米の消費量は1919年〜1921年の平均0.68石(米1石は約150kg)に対して、
   > 1932年から1936年にかけては0.40石まで減少した[89]。
   > この状況を指して、「飢餓輸出」と呼ぶ研究者もいる[90]が。
   > 逆に全相仁らの研究によると日本時代の米の消費量は平均0.58石の水準を保ち、
   > 後半期にはむしろ消費量が若干増加している。
   > また朝鮮経済全体で見た場合、米以外の雑穀が大量に輸入されており、
   > 高価な米を売った代金で安い雑穀をより多く購入することで
   > 増加する人口を養っていたと考えられる。
   > ソウル大学の李栄薫教授は韓国の「日帝による土地収奪論」は神話であるとし
   > 「 私たちが植民地時代について知っている韓国人の集団的記憶は
   >  多くの場合、作られたもので、教育されたものだ 」
   > としており
   > 「 食糧を日本に搬出したのも市場を通じた商行為に基づくもの 」
   > と述べている[91][92]。
   > 加えて、朝鮮人の身長が伸びていることから、少なくとも1920年代中頃までは
   > 「朝鮮人の生活水準が着実に向上していたのは明らか」である[93]。

 そもそも日本が併合する前は、その雑穀すら食えなかったのに何を言ってるんだ。

   植民地統治の検証 1
   http://didisama.tripod.com/didi/syokuminti1.htm

   > 朝鮮には李朝時代から「春窮麦嶺」という言葉があり、
   > 米と麦の収穫の端境期である春に、食糧確保に窮するのは慢性化していて、
   > 日本時代になって飢えるようになったのではない。
   >
   >  「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫)
   >
   >  朝鮮では、飢饉が頻繁にみられる。
   >  最も貧しい階級の人びとにとって、それは年に2度、定期的に訪れる。
   >  まず、大麦の収穫を待つあいだの春窮期の6、7月、
   >  次いで粟類の取り入れ前の9、10月である。
   >  金銭は、法外な利子付きでしか借りられず、わずかばかりの貯えも使い果たした
   >  不幸な人びとは、米やその他の穀物を買うことすらできない。
   >  彼らに残された生きる糧といえば、ただ塩水で煮つめたわずかばかりの草木である
   >
   >
   >  「宇垣一成日記 2」 みすず書房 (「関釜連絡船」1988年 金賛汀 朝日選書より)
   >
   >  (朝鮮総督の日記から)
   >  咸鏡南北、江原道(朝鮮北部)以外にも飢餓に瀕する者少なからずして
   >  僅かに草根木皮によりて露命を繋ぎあるものを聞き、痛心に堪へずして
   >  当路者に糺せば、彼氏曰く、
   >  『 朝鮮にては左様の事は珍しくもなく今頃になれば毎年各地に現はるる事象である。
   >   今ひと月もすれば木の葉も出て草も生ずるから
   >   夫れによりて収穫期まで何とかしていく 』
   >  とて深く配慮するの様子もなかりし。(昭和7年3月31日付)
   >
   > 宇垣総督は慢性的に疲弊した農民の生活を安定させるため、総督府をあげて
   > 農村振興運動に取り組んだ。 李朝時代には、このような国家指導者は存在しなかった。

   > 貧しかった李朝時代の朝鮮人。
   > 日本統治時代になると、農民は生産した米を高く売り、安い穀物を買って
   > 日々の食料とした。
   > 食事の質を落として金を貯め、それで家財道具を買い揃えて生活水準を上げていったのだ。
   >
   >  「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫)
   >
   >  あなたは、みすぼらしい茅屋というものを見たことがあるでしょう。
   >  では、あなたの知っている最も貧しい茅屋を、その美しさと強固さの程度をさらに落として
   >  想像してみて下さい。
   >  するとそれが、みすぼらしい朝鮮の住まいについての、ほとんど正確な姿となるでしょう。
   >  一般的にいって、朝鮮人は藁ぶきの家に住んでいます。
   >  … 二階建ての家は、探してもむだです。 そのようなものを朝鮮人は知らないのです。
   >  (中略)
   >  次に家具について、簡単に一瞥しましょう。
   >  まず寝台ですが… 朝鮮人はほとんど、茣蓙(ござ)の上で寝ます。
   >  貧しい人々、換言すれば大多数の者は、昼も夜も着ている同じ服のほかには
   >  掛けるものとてなく、茣蓙の上で横になります。
   >  少しでも金のある者は、蒲団(ふとん)というぜいたく品を持っています。
   >  その他の家具ですが、貧しい人々は、もうその他に何も持っていません。
   >  常民たちは、横にかかった棒を用意し、それに着換えを掛けておきます。
   >  裕福な人たちは、いくつかの籠を木の棒に掛けたり屋根につるしたりします。
   >  裕福な家には、かなり野暮ったい行李(こうり=竹や柳で編んだ箱)があります。
   >  学者や商人たちは、筆と墨、それに巻紙が置いてある小さな書見台を傍らに置いて
   >  座っています。
   >  若い婦人は、チマ(民族衣装)をいれておく小さな黒いタンスを持っています。
   >
   >
   >  「韓山紀行」 山路愛山 1904年
   >  (「現代日本思想大系4ナショナリズム」1964年 筑摩書房より)
   >
   >  (灰色文字は管理人注)
   >
   >  (明治時代の史論家山路愛山の韓国紀行から)
   >  水原を韓人は称して韓南第一の都会というそうなれども
   >  日本の穢多村(原文のママ)同然の体(てい)たらくなり。
   >  さりながら城門は立派なるものなり(水原城はユネスコ世界遺産)。
   >  韓国の都会は大陸流にして廻らすに城壁をもってし四門を開き望楼を設く。
   >  遠望すれば写真で見たる万里の長城なり…
   >  それはともあれ僕は城壁の大なると楼門の魏々たるとを見、
   >  城の内外にある民家の豚小屋同然たるに対比し、韓国には役人の建築ありて、
   >  人民の建築なきを感ぜざることを得ず。

   > 朝鮮の食糧不足は急激な人口増加に食糧増産が追いつけないから起こったのである。
   > (植民地36年で倍増)
   >
   「朝鮮総督府統計年報」  朝鮮総督府編 
  ┌─────────┬──────────────────────────────┐
  │ 年 次     │年末常住人口・(注)1944年は5月              │
  ├─────────┼──────────────────────────────┤
  │1910(日韓併合年)│1312万8780人(注)初期の調査は精度が低いとされている    │
  │1915       │1595万7630人                        │
  │1920       │1691万6078人                        │
  │1925       │1854万3326人                        │
  │1930       │1968万5587人                        │
  │1935       │2124万8864人                        │
  │1940       │2295万4563人                        │
  │1944       │2512万0174人(この他に日本内地や満州に数多くの朝鮮人がいた)│
  └─────────┴──────────────────────────────┘
   > 一人当りの米消費量が年ごとに減少している統計資料を持ち出して、
   > 朝鮮から米を略奪した結果だという主張もあるが、人口増で少食の幼年人口の割合が
   > 大幅に増加していくのだから、朝鮮人一人当りの米消費量が減少するのは当然である。
   > また、大旱魃で米収穫量が激減した年もあった。

 それに朝鮮半島で生産された米が日本本土へ移出されたからこそ、今のサムソン帝国があるんじゃな いか。

   http://ja.wikipedia「日本統治時代の朝鮮」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/日本統治時代の朝鮮 - 5 経済

   > 李朝末期の朝鮮は道路、農地、山、河川、港湾などが荒廃しており、
   > 民衆は官吏・地主・両班に高利貸(トンノリ)による収奪を受けていた。
   > そのため日本が朝鮮の農地にて、水防工事や水利工事をし、金融組合もつくったことで、
   > 農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、朝鮮人農民に多大な利益を
   > もたらすようになった。
   > また、水利組合の設立により安心して農耕ができるようになった[87]。
   > 大地主である朝鮮人は、生産性が上がり日本へ米を輸出できるようになったことで
   > 多額の利益を得ていた。
   > その代表的な人物がサムスングループの創始者である李秉浮ナある。
   > 彼は慶尚南道の大地主の次男として生まれ、米の輸出で得た多額の資金を元手に
   > 1938年に大邱にて三星商事を設立し、これがのちのサムスングループに発展していった[88]。

 文句があるなら、対価を払えない自国民に米を配らず、対価を払える日本本土に米を売ったサムソンに 言え。



 それでも1930年代の農業不況期には、農村に留まることができずに、
 数多くの零細農民が就業機会を求めて日本や「満洲」に渡り、
 都市部最下層の労働力市場への参入を試みました。
 一部の農民は、森林地帯に分け入って焼畑農業を行いました(火田民)。
 あるいは、京城(現ソウル)市内に流入して都市の雑業者となった人々もいました。
 京城市街の周辺部には粗末な家屋を立てて居住し日雇いなど単純労働に従事する
 都市貧民(土幕民)の集落が形成されました
 (写真-1を参照。この家屋に親子4人が居住していました)。

   [ 画像:q3-2 省略 (引用元アドレスをご参照ください)
   写真-1 土幕民の家屋(1940年ごろ、京城府)
   出典:京城帝国大学衛生調査部編『土幕民の生活・衛生』岩波書店、1942年

 

   http://ja.wikipedia「日本統治時代の朝鮮」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/日本統治時代の朝鮮 - 5 経済

   > 一方で増え続ける人口を農村では吸収出来ず、
   > 京城などの大都市でプロレタリアートとして生活の糧を求める人が出たが、
   > 都市でも産業が未発達で人口を十分に吸収することが出来ず、
   > 火田民となるもの、職を求めて日本や満州に渡航した者が数多く出た。
   > 京城等における農村出身のプロレタリアート層の中には
   > 都市周辺部に粗末な小屋を建てたスラム街を形成し、
   > 「土幕民」と呼ばれるものも存在した[94]。

 日本の所為で人口が増えただけですやん。

 アジアの植民地に対して欧米が行ったように、現地の人達を牛馬以下に扱き使い、食料も医療も生かさ ず殺さずの最低ラインを守っていれば、朝鮮人の人口爆発なんか起こらなくて火田民も土幕民も生まれな かったですが、その方が良かったと仰られるのかね?

 酷い差別主義者ですね。 ネトウヨの私でもそんなこと言いませんよ。



 まとめ

 植民地期を通じて、朝鮮においては、鉄道網などの交通機関が整備され、
 大規模な水利事業や水力電源開発が実施されました。
 そして、化学肥料工業などの重化学工業部門を中心に工業化が急速に進展しました。
 しかし、それは、日本の軍事的要請にもとづくものであり、
 あるいは朝鮮に賦存する資源を開発して日本に安価で安定的に供給することをめざすものでした。
 これらインフラ整備や産業開発に際しては、強権的な手法が採用され、
 朝鮮人利害関係者たちの意向はしばしば無視されました。
 そして、事業の過程では、生産と生活の基盤を失って移住を強いられる朝鮮人が
 数多く発生しました。

 

 直上で論破済みですが

   http://ja.wikipedia「日本統治時代の朝鮮」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/日本統治時代の朝鮮 - 5 経済

   > 一方で増え続ける人口を農村では吸収出来ず、
   > 京城などの大都市でプロレタリアートとして生活の糧を求める人が出たが、
   > 都市でも産業が未発達で人口を十分に吸収することが出来ず、
   > 火田民となるもの、職を求めて日本や満州に渡航した者が数多く出た。
   > 京城等における農村出身のプロレタリアート層の中には
   > 都市周辺部に粗末な小屋を建てたスラム街を形成し、
   > 「土幕民」と呼ばれるものも存在した[94]。

 日本の所為で人口が増えただけですやん。



 こうしたインフラ整備・産業開発は、朝鮮経済に大きな変化をもたらしました。
 農村においては、農業所得水準が停滞し、兼業・副業就業機会が減少しました。
 その結果、朝鮮農民の所得水準は停滞し、農地所有権を失う農家が続出しました。
 その裏面で、日本人・朝鮮人地主への農地所有集中が進みました。
 植民地下での朝鮮は、工業化の急速な伸展にもかかわらず、
 非農業部門における労働力市場の展開は限定的でした。
 農地を喪失した農民は、小作農として農村に滞留せざるを得ませんでした。
 それが農地の小作料水準を高止まりさせて、農民の所得水準を停滞させるもう一つの要因と
 なりました。
 農村に滞留することさえ困難となった朝鮮農民は、「満洲」や日本に移住して、
 土木作業など都市最下層の労働力市場への参入を図りました。
 また、京城など都市の雑業者となる者も多数現れました。

 このように、日本からの資金流入とそれを原資とするインフラ整備・産業開発は、
 朝鮮人民衆の生活水準向上に結び付くことはありませんでした。

 

   http://ja.wikipedia「日本統治時代の朝鮮」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/日本統治時代の朝鮮 - 5 経済

   > 植民地近代化という性質上、この時期の朝鮮における経済発展の成果は
   > 多くが資本を出した在朝日本人や日本企業に分配され、
   > 朝鮮人(とりわけ農村部)への分配度は低く、日本人と現地人たる朝鮮人の間の所得格差も
   > 非常に大きなものがあったとされるが[95]、李栄薫によれば、それも市場を通じた商行為に
   > すぎず[92]、利益を得ていた朝鮮人も存在し
   > 統治時代後期には多くの朝鮮人資本家が存在した。


   http://ja.wikipedia「日本統治時代の朝鮮」
   http://ja.wikipedia.org/wiki/日本統治時代の朝鮮 - 5 経済

   > 李朝末期の朝鮮は道路、農地、山、河川、港湾などが荒廃しており、
   > 民衆は官吏・地主・両班に高利貸(トンノリ)による収奪を受けていた。
   > そのため日本が朝鮮の農地にて、水防工事や水利工事をし、金融組合もつくったことで、
   > 農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、朝鮮人農民に多大な利益を
   > もたらすようになった。
   > また、水利組合の設立により安心して農耕ができるようになった[87]。
   > 大地主である朝鮮人は、生産性が上がり日本へ米を輸出できるようになったことで
   > 多額の利益を得ていた。
   > その代表的な人物がサムスングループの創始者である李秉浮ナある。
   > 彼は慶尚南道の大地主の次男として生まれ、米の輸出で得た多額の資金を元手に
   > 1938年に大邱にて三星商事を設立し、これがのちのサムスングループに発展していった[88]。

 サムソンが誕生していなければ、GDP世界第15位の地位なんか遥か彼方の弱小途上国だった癖によく もまぁ、しれっと言えるもんだな。



 そして、朝鮮人民衆の生活水準=労働力再生産費用の低位性は、
 ぎゃくに朝鮮に投資をおこなった資本家・地主に巨額の地代と利潤をもたらすこととなりました。
 これらの地代・利潤は、一部は朝鮮内に再投資され、残りの一部は日本に還流しました。
 「植民地支配=恩恵」論およびその前提となっている資金の「持ち出し」論は、
 以上の論点を無視することによってはじめて成り立ちうる暴論に過ぎないといえるでしょう。

 

 それを言い出したら、日本本土で暮らしていた生粋の日本人だって同じです。

   日本国憲法 第29条 【財産権】
   http://www009.upp.so-net.ne.jp/law/k0029.html
   > 第3章 国民の権利及び義務
   > 第29条 【財産権】
   >
   > 第1項 財産権は、これを侵してはならない。
   >
   > 第2項 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
   >
   > 第3項 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
   >
   >
   > 解説
   >
   > 本条は、1項において、財産権を保障しています。
   > しかし、2項、3項において、社会国家思想の下、財産権も社会的、合理的な拘束を受ける
   > ことがある旨を定めています。

 日本国内に作られた空港やダム,基幹道路,高速道路,鉄道などの為に、住む土地を奪われた日本人 が数多くいます。 そしてそんな犠牲者の上に我々の便利で安寧な生活が形成されています。
 富国の為に日本政府が日本国内で行った事を同じ事を朝鮮半島内で行ったに過ぎません。

 併合時代は朝鮮半島が日本国であったから、日本国と同様に扱っただけの話です。


 そして、日本から韓国へ流れたお金は、併合時代だけで終わりません。

   2014年02月22日 黒マッチョニュース
   【国際】「支援しても感謝はなし」 韓国に吸い尽くされた日本の血税“23兆円”
   http://kuromacyo.livedoor.biz/archives/1759973.html
   > ★ 「支援しても感謝はなし」 韓国に吸い尽くされた日本の血税“23兆円”
   > 2014年2月21日(金)9時56分配信 アサ芸プラス
   >
   > アメリカでのロビー活動で教科書に「東海」を強制表記させたかと思えば、
   > 「竹島の日」に向け活動家が日本の要人へのテロ予告までしている反日国家・韓国。
   > しかし、そもそも韓国は、日本による莫大な税金を使った援助によって
   > 今の発展があるのではなかったか。
   > 入手した「血税リスト」で、韓国の“恩知らずな実態”を暴く!
   >
   > 政治やスポーツの場を利用して、今や“定番”となった韓国の反日バッシング。
   > だが、今まで日本は韓国の経済発展のために貢献し、そのため国民の血税が
   > 吸い尽くされていたのである。
   >
   > 入手したリストは、日本がODA(政府開発援助)の一環で、
   > 韓国の支援に使った金額のほんの一部だという。
   > 日韓問題を取材するジャーナリストが言う。
   >
   > 「 このリストは、ネット上で“反韓”の人たちの間で話題になり、
   >  資料として出回っているものです。
   >  1966年から90年までの韓国へのODAが終了するまでの項目が掲載され、
   >  現在の価値に換算すると、総額で23兆円もの税金が韓国のために使われた
   >  と指摘しているのです 」
   >
   > リストの中で特に金額の多い項目を見ただけでも、
   > 日本の「血税」が大量に投入されていることがわかる。
   > なのに、苛烈な反日批判が繰り返されるのは、不可解としか言いようがない。
   >
   > そもそも1965年に日本と韓国の間で日韓基本条約を締結した際に、
   > 「解決金」という名の莫大な賠償を求められた。
   > 日本の植民地支配による個人の未払い賃金を含む一切の対日請求権を放棄する代わりに、
   > 無償で3億ドル、有償で2億ドル、民間借款3億ドルの総額8億ドルの資金援助を提供した。
   >
   > 古参の自民党関係者がこう振り返る。
   >
   > 「 当時、日本の外貨準備高は18億ドルしかなく、そこから8億ドルも持っていかれた。
   >  当時の韓国の国家予算の2倍以上ですよ。
   >  佐藤栄作内閣の閣僚の中には、『 日本の有り金を全部持っていく気か!』 と激怒した人も
   >  いたそうです。
   >  ちなみに、この時の韓国政権は、朴槿惠〈パク・クネ〉大統領の父親である、
   >  朴正煕〈パク・チョンヒ〉大統領でした 」
   >
   > 日韓基本条約の「解決金」では、韓国政府はやりたい放題だったという。
   > 韓国事情に詳しい経済評論家の渡邉哲也氏はこう語る。
   >
   > 「 韓国政府は北朝鮮の分の解決金も受け取っていながら、北朝鮮には分配していません。
   >  また、韓国政府は日韓基本条約のことをずっと国民に伏せてきました 」
   >
   > 解決金と技術支援によって、「漢江の奇跡」と呼ばれる急激な経済成長を遂げた韓国だったが、
   > 97年のアジア通貨危機によって経済が崩壊した。
   > ソウル駐在歴3年の東京新聞・五味洋治編集委員が当時の様子を語る。
   >
   > 「 アジア通貨危機の時に、私はソウルにいましたが、国庫に外貨がなくなった韓国は、
   >  あっという間に国家倒産状態に陥り、昨日まで一流企業に勤めていた人たちが、
   >  一夜にして地下街でテントを張って暮らすようになっていました 」
   >
   > 財政破綻の防止などを目的としたIMF(国際通貨基金)の監督下に置かれた韓国のため、
   > 日本は100億ドルを支援した。
   > にもかかわらず、韓国政府は危機が落ち着くと、
   > 「 IMFからの支援はありがたいが、日本からの支援は迷惑だった 」
   > と、高飛車に言い放ち、感謝の言葉すら述べなかったのだ。
   >
   >
   > ◆ アサヒ芸能2/18発売(2/27号)より
   > http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/agp-20140221-20584/1.htm


   日本の現在(危ない日本)
   日本から韓国への戦後補償と謝罪
   http://ccce.web.fc2.com/imgk/oda.html
   《略》
   >
   > 日韓基本条約
   >
   > 1965年の日韓基本条約において、
   > 本来なら韓国に賠償要求が出来るけど韓国の経済発展を願って
   > 無償で3億ドル、有償で2億ドル、民間借款で3億ドルを支払っている。
   > 合計して8億ドルである。
   >
   《中略》
   >
   > 無償、有償あわせて合計8億ドルという額は、当時の韓国の国家予算の2.3倍であり、
   > いかに高かったかが分かる。
   > ちなみにこの賠償額は、朝鮮半島全地域が対象であり、
   > 韓国政府が 「北朝鮮を統一したら北の人に支払うから北の分もくれ」 と言って
   > 持って行った額である。
   >
   > さらに、日本は戦前韓国に残した資産を放棄している。
   > これはインドが英国から独立したとき、イギリス人がインドに持っていた個人資産が
   > 個人に返却されたという前例があるように、十分に戦後賠償として通用する行為である。
   > 驚くべきはその額であり、総司令部民間財産管理局の調査では、軍事用資産を除き
   > 計53億ドルであった。
   > ( 大蔵省財政史室編『昭和財政史。終戦から講和まで』東洋経済新報社 )
   >
   > つまり、日本は韓国に対して戦前資産53億ドル、戦後賠償8億ドルもの巨額の賠償を
   > 行っている。
   >
   《中略》
   >
   >
   > 日本から韓国へのODA
   >
   > 「援助内容」ー「年月日」ー「援助金額」
   >
   > 韓国鉄道設備改良事業1966-06-08 39.6億円
   > 韓国漢江鉄橋復旧事業1966-06-17 3.6億円
   > 韓国建設機械改良事業1966-07-20 23.4億円
   > 韓国水利干拓および浚渫事業1966-07-20 11.88億円
   > 韓国海運振興事業1966-07-27 32.43億円
   > 韓国中小企業および機械工業育成事業?1966-07-27 54.0億円
   > 韓国鉄道設備改良事業(2)1967-03-23 33.65億円
   > 韓国輸送および荷役機械改良事業1967-06-27 9.35億円
   > 韓国光州市上水道事業?1967-07-11 6.05億円
   > 韓国市外電話拡張事業?1967-07-11 3.60億円
   > 韓国大田市上水道事業1967-07-11 5.90億円
   > 韓国産業機械工場拡張事業1967-07-31 10.80億円
   > 韓国昭陽江ダム建設事業1967-08-07 3.96億円
   > 韓国中小企業および機械工業育成事業1967-08-07 26.69億円
   > 韓国高速道路建設事業1968-06-26 10.80億円
   > 韓国市外電話拡張事業1968-10-30 6.48億円
   > 韓国昭陽江ダム建設事業1968-12-28 46.98億円
   > 韓国高速道路建設事業1969-04-14 18.00億円
   > 韓国農水産振興事業1969-06-19 8.92億円
   > 韓国嶺東火力発電所建設事業?1969-09-01 6.41億円
   > 韓国清州市上水道事業1969-12-04 3.24億円
   > 韓国南海橋建設事業 1969-12-04 7.88億円
   > 韓国昭陽江ダム建設事業1970-02-04 27.01億円
   > 韓国市外電話拡張事業 1970-06-25 5.17億円
   > 韓国総合製鉄事業 1971-07-16 28.80億円 浦項綜合製鉄(株)
   > 韓国ソウル地下鉄建設および国鉄電化事業?1972-04-10 272.40億円
   > 韓国総合製鉄事業?1972-05-01 107.49億円 浦項綜合製鉄(株)
   > 韓国商品借款商品借款等?1972-09-18 77.00億円 大韓民国政府
   > 韓国総合製鉄事業 1973-01-16 10.87億円 浦項綜合製鉄(株)
   > 韓国通信施設拡張事業?1973-04-23 62.00億円
   > 韓国漢江流域洪水予警報施設事業?1973-07-20 4.62億円
   > 韓国商品借款?1974-05-13 77.00億円 大韓民国政府
   > 韓国浦項総合製鉄所拡充事業?1974-05-22 127.88億円
   > 韓国大清多目的ダム建設事業?1974-12-26 118.80億円
   > 韓国農業総合開発事業 1974-12-26 194.40億円
   > 韓国浦項総合製鉄所拡充事業?1975-07-30 2.25億円
   > 韓国北坪港建設事業 ?1976-03-31 124.20億円
   > 韓国忠北線復線化事業?1976-11-26 43.00億円
   > 韓国通信施設拡張事業 ?1976-11-26 66.00億円
   > 韓国農業振興計画 ?1977-06-10 126.00億円
   > 韓国超高圧送電線建設事業 ?1977-11-28 40.00億円
   > 韓国忠B多目的ダム建設事業?1978-01-20 140.00億円
   > 韓国農業振興計画 1978-01-31 60.00億円
   > 韓国医療施設拡充事業 ?1978-12-25 70.00億円
   > 韓国農業総合開発事業? 1978-12-25 140.00億円 韓国電力(株)
   > 韓国教育施設拡充事業 ?1980-01-18 100.00億円
   > 韓国国公立医療及び保健研究機関近代化事業 ?1980-01-18 40.00億円
   > 韓国都市下水処理施設建設事業 1980-01-18 50.00億円 建設部,大邱市,大田市,全州市
   > 韓国教育施設(基礎科学分野)拡充事業?1981-02-27 60.00億円
   > 韓国民間地域病院医療装備拡充事業 ?1981-02-27 130.00億円
   > 韓国医療装備拡充事業(ソウル大学小児病院)1983-10-11 54.00億円
   > 韓国下水処理場建設事業(ソウル炭川)?1983-10-11 115.00億円
   > 韓国地方上水道拡張事業(釜山,ソウル,晋州)1983-10-11 78.00億円
   > 韓国陜川多目的ダム建設事業?1983-10-11 204.00億円
   > 韓国ソウル上水道施設近代化事業?1984-08-08 29.00億円
   > 韓国下水処理場建設事業(ソウル中浪)?1984-08-08 167.00億円
   > 韓国下水処理場建設事業(釜山)?1984-08-08 63.00億円
   > 韓国気象関連設備近代化事業?1984-08-08 42.00億円
   > 韓国国立保健院安全性研究センター事業?1984-08-08 24.00億円
   > 韓国住岩多目的ダム建設事業?1984-08-08 111.00億円
   > 韓国大田市上水道拡張事業社会的サービス?1984-08-08 22.00億円
   > 韓国都市廃棄物処理施設建設事業1984-08-08 4.00億円大邱市、城南市
   > 韓国農業水産試験研究設備近代化事業?1984-08-08 33.00億円
   > 韓国医療施設拡充事業?1985-12-20 123.00億円
   > 韓国下水処理場建設事業(釜山長林)?1985-12-20 92.60億円
   > 韓国下水処理場建設事業(光州)?1985-12-20 75.60億円
   > 韓国下水処理場建設事業(春川) ?1985-12-20 32.80億円
   > 韓国化学研究用・計量標準研究用資機材補強事業 1985-12-20 27.00億円
   > 韓国教育施設拡充事業?1985-12-20 152.00億円
   > 韓国総合海洋調査船建造事業?1985-12-20 41.00億円
   > 韓国昭陽江ダム建設事業1970-02-04 27.01億円
   > 韓国市外電話拡張事業 1970-06-25 5.17億円
   > 韓国総合製鉄事業 1971-07-16 28.80億円 浦項綜合製鉄(株)
   > 韓国ソウル地下鉄建設および国鉄電化事業?1972-04-10 272.40億円
   > 韓国総合製鉄事業?1972-05-01 107.49億円 浦項綜合製鉄(株)
   > 韓国商品借款商品借款等?1972-09-18 77.00億円 大韓民国政府
   > 韓国総合製鉄事業 1973-01-16 10.87億円 浦項綜合製鉄(株)
   > 韓国通信施設拡張事業?1973-04-23 62.00億円
   > 韓国漢江流域洪水予警報施設事業?1973-07-20 4.62億円
   > 韓国商品借款?1974-05-13 77.00億円 大韓民国政府
   > 韓国浦項総合製鉄所拡充事業?1974-05-22 127.88億円
   > 韓国大清多目的ダム建設事業?1974-12-26 118.80億円
   > 韓国農業総合開発事業 1974-12-26 194.40億円
   > 韓国浦項総合製鉄所拡充事業?1975-07-30 2.25億円
   > 韓国北坪港建設事業 ?1976-03-31 124.20億円
   > 韓国忠北線復線化事業?1976-11-26 43.00億円
   > 韓国通信施設拡張事業 ?1976-11-26 66.00億円
   > 韓国農業振興計画 ?1977-06-10 126.00億円
   > 韓国超高圧送電線建設事業 ?1977-11-28 40.00億円
   > 韓国忠州多目的ダム建設事業?1978-01-20 140.00億円
   > 韓国農業振興計画 1978-01-31 60.00億円
   > 韓国医療施設拡充事業 ?1978-12-25 70.00億円
   > 韓国農業総合開発事業? 1978-12-25 140.00億円 韓国電力(株)
   > 韓国教育施設拡充事業 ?1980-01-18 100.00億円
   > 韓国国公立医療及び保健研究機関近代化事業 ?1980-01-18 40.00億円
   > 韓国都市下水処理施設建設事業 1980-01-18 50.00億円 建設部,大邱市,大田市,全州市
   > 韓国教育施設(基礎科学分野)拡充事業?1981-02-27 60.00億円
   > 韓国民間地域病院医療装備拡充事業 ?1981-02-27 130.00億円
   > 韓国医療装備拡充事業(ソウル大学小児病院)1983-10-11 54.00億円
   > 韓国下水処理場建設事業(ソウル炭川)?1983-10-11 115.00億円
   > 韓国地方上水道拡張事業(釜山,ソウル,晋州)1983-10-11 78.00億円
   > 韓国陜川多目的ダム建設事業?1983-10-11 204.00億円
   > 韓国ソウル上水道施設近代化事業?1984-08-08 29.00億円
   > 韓国下水処理場建設事業(ソウル中浪)?1984-08-08 167.00億円
   > 韓国下水処理場建設事業(釜山)?1984-08-08 63.00億円
   > 韓国気象関連設備近代化事業?1984-08-08 42.00億円
   > 韓国国立保健院安全性研究センター事業?1984-08-08 24.00億円
   > 韓国住岩多目的ダム建設事業?1984-08-08 111.00億円
   > 韓国大田市上水道拡張事業社会的サービス?1984-08-08 22.00億円
   > 韓国都市廃棄物処理施設建設事業1984-08-08 4.00億円大邱市、城南市
   > 韓国農業水産試験研究設備近代化事業?1984-08-08 33.00億円
   > 韓国医療施設拡充事業?1985-12-20 123.00億円
   > 韓国下水処理場建設事業(釜山長林)?1985-12-20 92.60億円
   > 韓国下水処理場建設事業(光州)?1985-12-20 75.60億円
   > 韓国下水処理場建設事業(春川) ?1985-12-20 32.80億円
   > 韓国化学研究用・計量標準研究用資機材補強事業 1985-12-20 27.00億円
   > 韓国教育施設拡充事業?1985-12-20 152.00億円
   > 韓国総合海洋調査船建造事業?1985-12-20 41.00億円
   > 韓国教育施設拡充事業?1987-08-18 129.11億円 文教部,国立科学館
   > 韓国中小企業近代化事業?1987-08-18 77.50億円
   > 韓国農業機械化事業?1987-08-18 77.50億円 全国農業協同組合中央会
   > 韓国廃棄物処理施設建設事業 1987-08-18 53.72億円 大邱市、城南市
   > 韓国酪農施設改善事業?1987-08-18 38.75億円 ソウル牛乳協同組合
   > 韓国臨河多目的ダム建設事業 1987-08-18 69.75億円
   > 韓国蔚山市都市開発事業(鉄道部門)?1988-06-22 44.40億円
   > 韓国栄山江3−1地区防潮堤事業 ?1988-06-22 44.40億円
   > 韓国下水処理場建設事業(済州・清州)?1988-06-22 41.59億円
   > 韓国教育施設拡充事業 ? 1988-06-22 5920億円
   > 韓国研究所施設拡充事業 1988-06-22 26.79億円
   >                   韓国遺伝工学,機械,電子通信,化学研究所
   > 韓国私立大付属病院施設拡充事業 1988-06-22 56.24億円
   >                   梨ヤ女子大学,中央大学,漢陽大学,高麗大学,東亜大学
   > 韓国大田上水道拡張事業 1989-08-22 14.34億円
   > 韓国中小企業近代化事業?1989-08-22 62.00億円 国民銀行
   > 韓国ソウル地下鉄建設事業 ?1990-10-31 720.00億円
   > 韓国医療装備拡充事業(ソウル大学校病院)?1990-10-31 43.20億円
   > 韓国水産・商船学校練習船装備拡充事業? 1990-10-31 21.60億円
   > 韓国中小企業近代化事業 ?1990-10-31 115.20億円
   > 韓国肉加工施設拡充事業 ?1990-10-31 17.28億円 畜産業協同組合中央会
   > 韓国配合飼料工場建設事業 1990-10-31 54.14億円 畜産業協同組合中央会
   > 韓国酪農施設改善事業 ?1990-10-31 24.48億円 畜産業協同組合中央会
   >
   > 追記資料1 韓国へのODA実績累計 (98年まで)
   >
   >   贈与                    政府貸与
   > 無償資金協力    技術協力       支出総額
   >
   > 累計 233.84      913.72         3,601.54
   >
   > 単位は、100万ドル(一億円)
   >
   > ※1965年の日韓基本条約にて日本から韓国へ支払った5億ドルは除く
   > ※単位・金銭はすべて、日韓基本条約締結後援助が開始された1966年当時のものそのまま。
   > 現代の価値に換算すると総額は2〜3兆円規模になる。
   > http://plaza.rakuten.co.jp/nwaiwgp/diary/200501100000/
   > http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4759/130324-1.html
   > http://oasis.halfmoon.jp/traveldia2/china01/oda.html
   > 日本国外務省: [ODA] ODAとは? 国別援助実績(1990年までの実績) 韓国 
   > 日本国外務省: [ODA] ODAとは? 国別援助実績(1991年〜1998年の実績) [3] 韓国
    >
   >
   > 戦後 〜 近現代
   >
   > 日韓基本条約での個人補償も、韓国政府はそのほとんどをインフラ整備と産業育成に使い、
   > 「漢江の奇跡」と呼ばれる朴政権下の急速な経済成長に寄与した。
   >
   《中略》
   >
   > 韓国を代表する製鉄所、浦項製鉄所(POSCO)は日本からの独立祝賀金で
   > 1970年代前半に完成した。
   > 浦項製鉄所も、日本からの資金援助と技術援助があって完成した。
   >
   > そして、1970年代後半には脱硫設備(イオウを除去する設備)、
   > 80年代には熔湯処理装置(熔けている鉄を扱う設備)や粉砕炭投入設備が、
   > 90年代には鋳造機や電気亜鉛メッキ設備が日本の会社から納入されている。
   >
   > ◇
   >
   > ソウル地下鉄は、1998年6月現在、合計7つの路線により、
   > 一日平均約450万人の乗客を輸送し、ソウル市の一日交通量の約40%を分担する
   > 交通機関となっている。
   >
   > また営業路線の総延長は、183.6kmにおよび、ソウル市内のみならず郊外へも延伸され、
   > ソウル首都圏住民の生活に不可欠な存在となっている。
   >
   > 韓国では、ソウル特別市に1974年8月15日、地下鉄(9.5km)が開通し、
   > これと同時に韓国国鉄のソウル特別市近郊線に、計98.6kmの電化が完成し、
   > 地下鉄と韓国国鉄との相互直通運転が行われることとなった。
   >
   > この建設に当たって日本は、8,000万ドルの借款を供与し、
   > 技術面では、数次にわたる調査団と長期にわたり現地指導に当たる15名の専門家を
   > 派遣するとともに、又鉄道要員60名の国内研修を実施してきた。
   >
   > その後、ソウルの地下鉄ネットワークは2 ・3 ・4 号線の建設による第一計画段階(Phase-1 )を
   > 経て、1990 年代初めより新技術による第二計画段階(Phase-2)に入った。
   > その時点で日本政府は韓国からの再度の協力要請を受け、
   > OECF(海外経済協力基金)は地下鉄3 ・4 号線の延長と5 号線の新規建設を対象とする
   > 部分に円借款を供与することとなった。
   >
   《中略》
   >
   >
   > 韓国の通貨危機(IMF)を救った日本
   >
   > 1997年、韓国政府が破産。
   > 先進各国は「韓国をサポートする必要は無い」と断言しました。
   > そのまま推移すれば、韓国は北朝鮮の生活水準に転落した筈でしたが、
   > 旧宗主国である日本政府は韓国の窮状を見かねて、
   > 韓国通貨ウォンを保証して韓国を国家破産から救い出しました。
   >
   > 韓国の通貨危機の実態と日本の対韓支援
   > 韓国が通貨危機に際して1997年12月4日にIMFと合意した金融支援は総額550億ドル。
   >
   > この内訳は
  ┌───────┬─────┐
  │国際通貨基金 │ 210億ドル│
  ├───────┼─────┤
  │世界銀行   │ 100億ドル│
  ├───────┼─────┤
  │アジア開発銀行│ 40億ドル│
  ├───────┼─────┤
  │日本     │ 100億ドル│
  ├───────┼─────┤
  │アメリカ   │ 50億ドル│
  ├───────┼─────┤
  │その他    │ 50億ドル│
  └───────┴─────┘
    http://kccn.konan-u.ac.jp/keizai/asia/05/01.html
   >
   > 韓国の通貨危機克服には、実は日本の政治力が大きく貢献しています。
   > 上記の支援が発表されてもウォンの暴落は止まらなかったんだけど、
   > その後、日本政府が迅速に邦銀から債務の返済期限繰延の約束を取り付け、
   > 欧米系銀行の同調を引き出して初めてその暴落が止まっている。
   >
   > 要するに、
   > 韓国政府がIMFに約束しただけでは信用は回復しなかったわけで、
   > 「韓国は日本がbackで支えている」 ことが示されて初めて一息つけたコトになる。
   >
   > その他にも 地下鉄建設やワールドカップスタジアムの建設など、
   > 戦後も多くの援助をしているが、それについても韓国国民は知らされていない。
   > 日本は北朝鮮に対しても食糧援助をしているが、これまた北朝鮮の国民はその事実を知らない。
   > 京城の最初の地下鉄は日本が造ったものです。
   >
   > W杯時、日本の1/10以下の経済規模でしかない韓国ではスタジアムが建設できなかったので、
   > 日本に建設を頼んできました。
   > しかし、日本に援助してもらうというのは自尊心の理由で
   > 「 日本が第3機関に援助 → その機関が韓国サッカー協会に援助 」
   > という馬鹿な形態を日本に要請しました。
   > ( 援助する側が配慮するというのがスゴイですが。。)
   >
   http://youtu.be/OvK5tkHZfP4
   560x315
   
   韓国借金は返さないお礼は言わない
   >
   >
   > 東日本大震災の復興は進まないのに
   > 日本国民には消費税増税
   > 「韓国」には(約5兆3600億円)贈呈
   >
   > この様な巨額な金を外国には使えて、どうして日本の為には使えないのでしょうか?
   > SANKEI DIGITAL / 魚拓 / 日韓通貨スワップ協定を拡大しても感謝されない日本 / 魚拓
   >
   > 野田首相が10月19日、ソウルで行われた李明博(イミョンバク)大統領との会談にて、
   > 韓国への資金支援枠を現行130億ドルの5倍以上の、700億ドル(約5兆3600億円)で
   > 拡大する合意をまとめた。
   >
   > 韓国には現在までに莫大な資金援助をしています
   > 韓国からの感謝の言葉は一言もありません
   >
   

 日本政府による朝鮮半島併合を植民地支配だと言い張るのであれば、日本が朝鮮半島に対して施した 恵みに匹敵する植民地支配の例を一つで良いから挙げなさい。 それをせずして、日本の統治を欧米の 植民地政策のように言う事は許されません。

 日本が朝鮮半島に対して行った事は併合が終了した後も含めて、「 実の親でさえも子に此処まで尽くす だろうか?」 と疑問に思える程、慈愛に満ちた施策だったのですから。

 ・・・ 国民感情的には、国交断絶してもう二度と関わりあいたくないんですけどね。





 <参考文献>

 許粋烈(保坂祐二訳)『植民地朝鮮の開発と民衆 : 植民地近代化論、収奪論の超克』
 明石書店、2008年

 金洛年『日本帝国主義下の朝鮮経済』東京大学出版会、2002年

 高成鳳『植民地鉄道と民衆生活』法政大学出版局、1999年

 松本武祝『植民地期朝鮮の水利組合事業』未来社、1991年

 姜在彦『朝鮮における日窒コンツェルン』不二出版、1985年

 林炳潤『植民地における商業的農業の展開』東京大学出版会、1971年


□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 web上で在日の方々が、「 根拠となる資料がないから、これはネトウヨの妄言である 」 と喧伝してはばか らない 『日本による朝鮮統治とその成果』 の一つに [ 平均寿命の著しい伸び ] があります。

 私は 「根拠がない 」 を信じて、本稿では敢えて触れませんでしたが、上に引用した資料の中にあるこの 部分がソレです。

   【時事とコピペ】
   【コピペ】日韓併合 日本による朝鮮統治とその成果 [歴史コピペ【朝鮮編】]
   http://current-affair.blog.so-net.ne.jp/2008-06-27-1

   《略》
   >
   > << 社会基盤の整備 >>
   >
   《略》
   >
   > これらの諸政策の結果、次のよう成果があった。
   >
   《略》
   >
   > ・ 平均寿命が24歳から56歳に

 この平均寿命の変化に対して

   2009年11月17日 誰かの妄想・はてな版
   「1910年の朝鮮人平均寿命26歳説」の謎
   http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20091117/1258473263

 とありました。 当方もこの方の主張を尊重して、日本の統治によって平均寿命が大幅に伸びたという説 について触れずにいたのですが、当サイトの支持者であらせられる nobore12 様より根拠資料の情報を戴 き、史実である可能性が極めて高いという結論に至りましたので書き足させていただきます。

 根拠資料は、石南國著 『韓国の人口増加の分析』 という勁草書房の書籍です。 紹介しているwebペー ジは、YAHOO!知恵袋の 「 李氏朝鮮滅亡後日本支配期間中までにおける朝鮮人の平均寿命について 統計的に 示...」 です。
   
   http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1453113464
   > n486948o_2さん 2011年01月04日 10:09:01
   >
   > 李氏朝鮮滅亡後日本支配期間中までにおける朝鮮人の平均寿命について
   > 統計的に示された資料ってありますかね?
   > カロリー統計や人口については千葉経済大学の三浦洋子先生が論文で
   > 平均2700キロカロリーで人口も李氏朝鮮時代から倍増していると証明してくれていますが、
   > 平均寿命についてはわかりません。
   > ま、衛生環境は向上したみたいですから、下がってる訳はねえと思いますが、
   > 具体的数値が分からんのですよ。

   > ベストアンサーに選ばれた回答
   > 2011年01月04日 12:37:06
   >
   > ilpha18さん
   >
   > 朝鮮人の平均寿命(男女込み)
   > (1906-10) 23.53
   > (1911-15) 25.01
   > (1916-20) 27.01
   > (1921-25) 29.57
   > (1926-30) 33.64
   > (1931-35) 37.42
   > (1936-40) 42.62または47.12
   > (1938-42) 43.8
   > (1942) 44.94
   >
   > 石南國 『韓国の人口増加の分析』 勁草書房,1972,第4-4表(p. 114)

 しかし、これだけではソースである書籍にそういう記述があるのか、それともネトウヨを釣るためにブサヨ が創った嘘 「 朝鮮人は近親相姦を繰り返してきたから遺伝子に異常が生じている。 根拠はThe Great  Human Diasporas: The History of Diversity and Evolution ISBN 0-201-44231-0である 」 と同じ様な嘘な のかわかりません 

※:『The Great Human Diasporas: The History of Diversity and Evolutio』は、『わたしは誰、どこから来たの ― 進化にみるヒトの 「違い」の物語』という題名の邦訳本が発売されており、圭坊は是を買って読みましたが、どこにもそんな記述はありませんでした。

 そこで 『韓国の人口増加の分析』 を実際に購入しました。

 確かに114ページに表がありました。

 

 しかし、“平均寿命”ではなくて、“平均余命”でした。

 まぁ、「 ○○歳時の平均余命 」 ではなく単に 「 平均余命 」 と書く場合は、出生時の平均余命を指しま すから、これでも十分に有効だと思うのですが、出生時でない可能性も払拭できません。
 そこで他のページも漁ってみました。

 そうしましたら、138ページにこんな表がありました。

 

 グラフから読み取れる出生時の平均余命が 『第4-4表 戦前における朝鮮人の平均余命と静止人口死 亡率』 とピタリ合致しますので、

   > 朝鮮人の平均寿命(男女込み)
   > (1906-10) 23.53
   > (1911-15) 25.01
   > (1916-20) 27.01
   > (1921-25) 29.57
   > (1926-30) 33.64
   > (1931-35) 37.42
   > (1936-40) 42.62または47.12
   > (1938-42) 43.8
   > (1942) 44.94

 で間違いはなさそうです。

 ただし、注意して欲しいのは、何も出生時の平均余命が 23.53歳だからといって、年齢別死亡者数のグ ラフが23.53歳をピークにした分布を描くワケではありません。 今でこそ由来が消え失せて単なるイベン トと化していますが、七五三(しちごさん)は、乳幼児の死亡率が高かった時代に、とりあえずひと安心でき る年齢に成ったことを祝う儀式でした。

   七五三の由来
   http://turugamine.com/753yurai.html

 ですから、ゼロ歳児という目を放した隙に死んでしまうような期間さえ過ぎれば、併合前の朝鮮半島に於 いても、平均余命は大きく伸びます。

 

 189ページにあった 『1906〜10年の簡略生命表の推定』 という表です。

 出生時からの平均余命は、男性 22.62年間,女性 24.44年間ですが、一歳児からの平均余命は、男 性 31.24年間,女性 32.59年間と一気に伸びます。 それどころか、出生時からの平均余命が、男性  22.62年間,女性 24.44年間にも拘らず、80歳以上の高齢者が居て、その平均余命が、男性 3.50年 間,女性 3.51年間と(今の感覚から見ても)十分に長生きです。

 この表は5年間毎の区切りで「1911〜15」「1916〜20」「1921〜25」まで載っています。 引用の範囲に留 める為に、最後の「1921〜25」を見てみましょう。

 
 ※:ちょっと斜めになってしまいました。 スミマセン。

 1906〜10 との比較で

   0歳男性 = 22.62 ⇒ 28.29
   0歳女性 = 24.44 ⇒ 30.84

   1歳男性 = 31.24 ⇒ 38.51
   1歳女性 = 24.44 ⇒ 39.96

 大きく伸びていることが分かります。

 一方で後期高齢者に関しては

   80歳以上男性 = 3.50 ⇒ 4.00
   80歳以上女性 = 3.51 ⇒ 4.00

 幾らも伸びていないことが分かります。

 つまり、『日本による朝鮮統治とその成果』 に於ける 「平均寿命が24歳から56歳に」 というのは、(ゼロ 歳児以外の平均余命も大きく伸びてはいますが) 「乳幼児期の死亡率を大きく抑制することが出来た」 と いう意味として捉えるべきなのです。 決して 「併合前は生まれてから24年で死んでいた朝鮮人が、日本 のおかげで56歳まで生きられるようになった」 という意味ではありません。

 その点は注意しておく必要があるでしょう。



    

    


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