サヨクの単発妄言をブッタ斬る! 《跡地》

現在の韓国がG7はおろかG9にも入れいないのは、日本に併合されたからである。

日本に併合される事なく、自立した主権国家として独自の進化を続けていたら、日本を凌ぐ経済 大国に成っていたことは間違いない。

 当サイトの読者であらせられる nobore12 様からメールでお知らせ頂いた在チョンの妄言サイトがコ チラです。

   データで見る植民地朝鮮史
   http://wayto1945.sakura.ne.jp/KOR10.html

 まぁ、『お前がそう言うならそうなんだろう、お前の中ではな ( AA略 』 という以外の感想を持ち得ませ んが、折角なので叩き潰しておきましょう。

 以下は、 nobore12 様へ送った返答メールからのコピペです。

 - - メールのコピペ此処から - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 これはまた中々に香ばしいサイトですね。

 仰られる通り、あちらこちらに突っ込み所満載なのですが、それ以前に 「もし、併合なかりせば」 とい う前提が大間違いです。

 ごちゃごちゃ書いてあってご苦労様と思うのですが、「日本に併合されていなければ、朝鮮半島はもっ と進展していた」 なんてのは、およそこれだけの資料を集めた人間の思考とは思えません。

 彼の思考の中から、“東進を目論むロシアの脅威”がコロっと丸々抜けています。

 そもそも日本が朝鮮半島を併合した最大の理由は、朝鮮半島の先っちょがロシアになってしまうとい う忌むべき未来に対する恐怖です。

 当時、世界中が朝鮮半島のロシア化を危惧していました。
 なので、当時の世界情勢を鑑みる限り、「朝鮮半島が何処の統治下にも入らない」 という選択肢は存 在しません。

 タイムマシンを開発して過去に戻って、日本から差し伸べられた救いの手を撥ね除けて、独立を継続 しようとしても選べる未来は次の3つしかありません。

 @ 南下するロシアに侵攻され、白旗を上げる
   ⇒ 当然、こうなります。 http://kenjya.org/higai1.html

 A 当時に植民地政策を行っていた日本以外の欧米諸国が宗主国となり、ガチの植民地になる
   ⇒ 当然、こうなります。 http://kenjya.org/ajia1.html

 B 日本に侵略され、日本が宗主国となって、日本式の植民地になる
   ⇒ 日本が進軍して支配下に置いた、朝鮮半島以外の諸島と同じ扱いになります
   ⇒ 当然、近代化なんかされません。

 歴史に if は禁物ですが、「もし独立が維持できていれば」 なんて if は、笑い話にしかなりません。

 確かに日本が朝鮮半島に注いだ金は、当時の日本の国力から見て、『全力投球』 ではなかったかも 知れません。

 おそらく彼は、こう言いたいのでしょう。

 「 もっと金を注ぎ込んでくれていたら、漢江の奇跡なんか起こさなくても、
  終戦の段階で朝鮮半島は 『空襲されなかった場合の日本本土』 と同じだけの工業力を持つ、
  最強の戦勝国(嗤)だった筈だ。
  空襲を逃れたのに先進国の仲間入りが出来ないのは、日本が手を抜いたかららだ。
  こんなことなら、併合されていない方が朝鮮半島はもっと躍進したのじゃないだろうか?
  きっとそうに違いない 」

 しかし、日本本土の国力を落してまで朝鮮半島に金を注ぎ込むことは出来ません。 彼にとって小額 に見える投資であっても、その金を貰う筈だった東北地方にとっては大金でした。 そのお金は、本来 なら工業化の遅れた東北地方に費やすべきお金でした。 それを朝鮮半島のために遣ったのです。  だから、東北の貧困農家から沢山の女性が慰安婦になりました。 二・二六事件という忌むべき歴史 がありました。 上の@AB、いずれでも東北地方にお金を回す事が出来て、東北地方の女性を慰安 婦にせずに済んだでしょうし、二・二六事件も起こらずに済んだでしょう。

 「 日本の朝鮮半島併合は間違いだった 」

 Exactly そのとおりでございます。 当時の世界情勢から@は採れないとしても、AでもBでも良かっ た。 併合なんかするんじゃなかった。 それは真実ですね。

 個別のツッコミは、またの機会に♪

 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - メールのコピペ此処まで - -

 如何でしょうか。

 歴史に関する最低限度の知識があれば、私と同じ結論に至る人が大半だと思います。

 ついでに折角なので、「 またの機会に♪ 」 と書いておきながら放置している 「 個別のツッコミ 」 も少 しやっておきましょう。

 まず、

   植民地朝鮮と併合前の韓国を比較してみる
   http://wayto1945.sakura.ne.jp/KOR10-stagnant.html

 から。

 彼は、整地された未舗装の道路を人や牛車が行き交う画像を持って来て、

   > 日本の朝鮮総督府は流入人口を郊外に追いやるだけでろくな住宅対策をしなかったので、
   > 左写真のような土幕集落が出来上がったのに対し、
   > 併合前の大韓帝国は米国帰りのスタッフを迎えてソウル都市改造(1896〜1904年)を行い、
   > 街路を整備したので、右写真のように整理された街路が絵として残っています。

 と勝利宣言しています。

 しかし、1904年と言えば日本に於いて日露戦争が勃発した年です。

 日本艦隊が圧倒的戦力差を持つバルト艦隊 ( 通称:バルチック艦隊 ) に対して奇跡的な大勝利を 収めた年に、大韓帝国(嗤)様は、樹木を抜いて整地し、他国に借金をして買った大八車 ( 当時の大 韓帝国(嗤)様は車輪を造る技術も製造設備も持ち合わせていませんでしたから、おそらく借金して得 た金で買ったのだと思われます ) を牛車で曳かせるのが精一杯だったのです。

 しかも、彼は、この『人と牛馬が行き交う大通り』が当時の朝鮮半島に見られた普通の光景のように 書いていますが、そんなことはありません。

 彼が示した 『人と牛馬が行き交う大通りの画像』 の世界を実際に旅行して感想を述べた人が、当時 の朝鮮半島をこのように書き残しています。

   【2】韓国はなぜ反日か?
   http://peachy.xii.jp/korea/korea2.html
   > 英国人女性旅行家イザベラ・L・バードは、1894年以降4回に渡り朝鮮各地を旅した時のことを
   > 『朝鮮紀行 ― 英国婦人の見た李朝末期』 という著書の中でこう記している。
   >
   > ■イザベラ・バードが見たソウル
   >
   > 「 都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。
   >  礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は
   >  主に迷路のような道の 「地べた」 で暮らしている。
   >
   >  路地の多くは荷物を積んだ牛同士が擦れ違えず、
   >  荷牛と人間ならかろうじて擦れ違える程度の幅しかない。
   >  おまけに、その幅は家々から出た糞、尿の汚物を受ける穴か溝で狭められている。
   >  酷い悪臭のするその穴や溝の横に好んで集まるのが、
   >  土ぼこりにまみれた半裸の子供たちと疥癬もちでかすみ目の大きな犬で、
   >  犬は汚物の中で転げまわったり、日向でまばたきしている。
   >
   >  ソウルの景色のひとつは小川というか下水というか水路である。
   >  蓋のない広い水路を黒くよどんだ水が
   >  かつては砂利だった川床に堆積した排泄物や塵の間を悪臭を漂わせながら
   >  ゆっくりと流れていく。
   >  水ならぬ混合物を手桶にくんだり、小川ならぬ水たまりで洗濯している女達の姿。
   >
   >  Seoulには芸術品がまったくなく、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。
   >  他の都会ならある魅力がSeoulにはことごとく欠けている。
   >  古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ無関心だったため
   >  寺院もない。
   >  結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある
   >  堂々とした宗教建築物の与える迫力がここにはない。 」
   >
   > ( "Korea and Her Neighbours" by Isabella Lucy Bird 
   >  『朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期』 イザベラ・L・バード )

 『人と牛馬が行き交う大通り』 が存在したことは事実なのでしょうが、それは丁度、今の北朝鮮が観 光客に見せる為の特別な街を用意しているのと同様に、普遍的な朝鮮人の街とは懸け離れた特別な 光景だったのです。

 また、彼はこうも書いています。

   > 下の表は、植民地下の状況を同時期の日本本土、および念のため
   > 併合前の大韓帝国と比べたものです。
   > 並べてみると、けっこう日本と似たような事をやっています。
   > 西洋への開国が日本より四半世紀遅れただけ着手が遅れた分は、
   > 差し引いて考えるべきでしょう。

 まるで、大韓帝国(嗤)様が25年早く開国していたら、日本と双肩する軍事大国に成れたとでも言いた げですが、そんな妄想は実現不可能です。

 そもそも日本が開国して欧米の産業革命に追随し、富国強兵出来たのは、それを成し得るだけの下 地があったからです。

 就労可能な人口が多く、かつ、その人達が一定以上の教育水準にあり、かつ勤労意欲を持ってい た ・・・ この三大条件を満たす国はそう多くありません。

 就労可能な人口が多い、というのは、GDPが市場の大きさによって左右され、市場の大きさが人口 によって左右されるので当然ですね。
 江戸末期の日本の人口はおよそ3000万人強であり、今の感覚から言えばそう多く思えませんが、そ れでも今の人口で比較して全世界196ヶ国中40位のアフガニスタンに匹敵する人口です。

 江戸時代に制度としての義務教育は存在しませんでしたが、欧米の先進諸国に引けを取らない程に 国民の多くが子の教育に注力しており、

   学制と義務教育制度
   http://sugp.wakasato.jp/Material/Education/el/e04b1/class09/gakusei.htm
   > 1.江戸期の教育機関
   >
   > わが国に公教育制度が成立するのは明治時代からである。
   > それ以前の江戸時代には,武士を対象とした教育機関として 「藩校」 があり,
   > それぞれの藩の武士の子弟を対象に儒学を中心に教えていた。
   > また,庶民の子どもたちを対象に僧侶や浪人らが読み書きそろばんを教えた 「寺子屋」 が
   > あり,江戸時代の末には,この寺子屋は全国で1万5千箇所あったといわれている。
   > 寺子屋で使われていた教科書を 「往来物 (おうらいもの)」 という。
   > また,著名な学者が指導した私塾からは,多くの人材が輩出されているが,
   > 蘭学塾、兵学塾、医学塾など多様な学問の私塾も見られるようになった。
   > 例えば,儒学の塾では,中江藤樹の藤樹書院,石田梅岩の心学講舎,
   > 広瀬淡窓の咸宜園(かんぎえん),中井竹山ほかの懐徳堂,吉田松陰の松下村塾などがあり,
   > 西洋医学の代表的な塾としてはシーボルトの鳴滝塾,
   > そして,蘭学の塾としては緒方洪庵の適塾(適々斎塾),杉田玄白の天真楼などを
   > あげることができる。
   > これらは塾として教育を行った期間は短いものの,後の世に大きな影響を残したものや、
   > 明治以降もその伝統が続いているものもある。
   > いずれにせよ,庶民対象に寺子屋が存在していたこともあり,
   > この時期の日本の庶民の識字率は世界最高水準であったといわれており,
   > その事実が明治維新後の急激な近代化を可能にした最大の原因であろう。

 庶民の間で和算がブームに成る程に、大衆に求学心が溢れていました。

   2014年09月16日 るいネット ―― 日本人と縄文体質
   江戸時代に高度な和算ブームがあった!?
   〜楽しみながら自分の頭で論理整合を追求してた江戸の人々はすごい♪〜
   http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=240916
   > この江戸時代の数学が、どんなに一般庶民のものであったかは、
   > 各地の神社、仏閣に掲げられた算額から、よく分かります。
   > 「算額」 というのは、自分が解いた数学を、額に書いて神仏に掲げるもので、
   > はじめは 「数学絵馬」 といっていました。
   > 額には問題、答え、解き方、幾何学図形、そして、先生と自分の名前が書かれていました。
   >
   > たとえば、京都の八坂神社にあるものは、当時の数学者が掲げたもので、
   > 現代数学でいえば、70次方程式でなければ解けない問題です。
   > また、岩手県の竜泉寺に掲げられたものは、
   > 37桁という大きな数の26乗根を出せというもので、
   > 横2メートルもある額いっぱいに計算がしてあります。
   >
   > 日本には、このような算額が多く残っていますが、
   > この算額の名前を見ると、鳥居の政松とか、樽尾の平吉とか、きこりの文蔵などという
   > 素朴な名前が多いのです。
   > 今は西洋数学におされて影の薄くなった和算ですが、江戸時代には実に多くの一般庶民が
   > 勉強し、しかもそれが高いレベルに達していた事がわかります。
   > 今日本の数学の教育の水準が高いというのも、この頃からの名残なのかもしれません。

 そして、私自身も大学を卒業してから ( 2年間だけですが ) 東証に名前が載る企業の工場に勤め、 休日返上で働きに働き尽くした日々に何の疑問も持っていませんでした ( 今の感覚で言えば、とんで もないブラック企業でしたが、当時は其れがアタリマエでした )。
 私自身の若い頃の話が一例になるように、日本人は世界でも突出した勤労民族です。

 一方で韓国は、“ 開国が日本より四半世紀遅れた ” どころか、日本に併合される直前でさえ、人口 は僅か1千3百万人しか居ませんでした。

 そして、大韓帝国(嗤)国民の半数近くが “両班” と呼ばれる特権階級であり、

   2005年07月22日 徒然なるままにエッSAY!
   「チャングムの誓い」と李朝520年の身分制度
   http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/28635881.html

   《前略》
   >
   > いまや比較文化論で確固たる名声をはくした呉 善花(オ・ソンファ)を
   > 口汚く評論している記事を読んで、なぜこれほどまで酷評するのかと
   > 不信感を持ったことがある。
   >
   > 田氏はソウル出身で呉氏は済州島出身これだけで納得した。
   > 済州島は昔は「元」の直轄地で軍馬の放牧地であり、流人の島であった。
   > 華夷秩序から言えば小中華の中心はソウルであり、遠く離れるほど軽視されるのである。
   > 特に済州島やウツリョウ島なんかはその典型である。
   >
   > 昔の百済(今の全羅北・南道)は金大中大統領が出るまで長いこと差別されてきた。
   >
   > あまり知られていないことであるが
   > 那覇に対する石垣島も儒教的意識の強い沖縄人の心の中にあると
   > 沖縄出身の恵 隆之介氏がいっている。
   > ロスの黒人によるリトルソウル暴動の原因は
   > 韓国人による黒人に対する差別意識だったということである。
   > もっとも彼らは韓国内では最下層の白丁(ベクチョン)出身者が多かったというのも
   > 皮肉なものである。
   > このように世界で一番身分差別の激しい民族はといえば韓国・朝鮮人というのが定番である。
   >
   > 何が彼らをこうさせたかというと李朝時代の厳しい身分制度にあったのではないかと思う。
   >
   >
   > ● 李氏朝鮮時代の身分制度
   >
   > この時代(1392年〜1910年 ただし、1897年からは「大韓帝国」であったが、
   > 実体は李氏朝鮮時代))の身分制度も高麗時代のものを継承した。
   >
   > 身分は、大きく「良民」と「賤民」に分かれる。
   >
   > ◎ 「良民」自由民であり、納税、国役の義務を負う
   > │
   > ├○ 両班(文班、武班)
   > │
   > ├○ 中人(下級役人、技術官など)
   > │
   > └○ 常民(農民、商人、職人)
   >
   >
  > ◎「賤民」
  > │
  > └○ 奴隷 ―┬─ 奴婢 売買、贈与、相続の対象
  >       │
  >        ├─ 公奴婢 ― 国家に所属 
  >       │
  >        └─ 私奴婢 ― 個人に所属
   >
   >         「入役奴婢」は、国の労役や主人の雑役に従事しなければならない
   >
   >         「納貢奴婢」は国や主人から独立の生計を営みながら一定の身貢をする義務
   >
   >
   > ● 白丁(べクチョン)(動物の屠殺に従事する者)
   >
   > ● 才人(広大ともいう)(芸人)
   >
   > ● 官妓(役所に所属する酌婦)
   >
   > ● 牽令(キュンエン)(牛・馬を引く者)
   >
   > ● 砲手(猟師)
   >
   > ● 水尺(スチョク)(狩猟民)
   >
   > ● 駅卒(駅の使用人)
   >
   > ● 巫女
   >
   > ● 僧侶
   >
   《中略》
   >
   > 奴婢制度は、1894年の甲午改革(日本の強力な指導)で廃止されるまで続いた。
   > しかし、なかなかその偏見は収まらず、
   > 現在でも「五姓」といって賎民の子孫とされる「姓」があり、
   > 結婚・就職などの障害が見られる。
   >
   >
   > ■ 李氏朝鮮時代には、どのくらいの「奴隷―奴婢」がいたのであろうか。
   >
   > これについては、現存する李氏朝鮮時代の「戸籍帳籍」は
   > 「山陰帳籍 1603 年、1630 年」と「大邸帳籍 1690 年-1849年」を分析すればわかる。
   > これらの「戸籍帳籍」は日本人研究者に公開されていないと聞くから
   > (次に韓国に行ったら確認してみる)、専ら、四方博京城大学教授(執筆当時)の
   > 「朝鮮社会経済史研究(中)」から引用する。
   >
  > ┌──────┬─────┬─────┐
  > │      │1690年│1858年│
  > ├──────┼─────┼─────┤
  > │ 両  班 │  7.6%│  48.6%│
  > ├──────┼─────┼─────┤
  > │ 常  民 │  51.0%│  20.2%│
  > ├──────┼─────┼─────┤
  > │奴婢(奴隷)│  41.2%│  31.3%│
  > └──────┴─────┴─────┘
   >
   > 人口はあまり変わっていないのに
   > 支配層の両班が1割程度から5割にまで増えているのは官職の売買があり、
   > 三代にわたって ≪ 良人(両班も含まれる) ≫ を冒称する者は
   > これが認められるという規定があったためとも言われている。
   >
   >
   《以下略》

 この“両班”という特権階級の労働意欲は、日本人には到底理解できないトンデモでした。

   「ぢぢ登場の巻」の補足資料
   植民地統治の検証 1 - 経済活動の抑圧
   http://didisama.tripod.com/didi/syokuminti1.htm#sangyou
   > 李氏朝鮮の国教ともいえる儒教では 「君子は労せず」 と教えており、
   > 額に汗して働く者を卑しんだ。
   > そのため支配階級である両班は労働をすることが全くなかった。
   > 労働を卑しむ社会は停滞するほかない。
   >
   > 「悲劇の朝鮮」アーソン・グレブスト 1912年 (高演義・河在龍訳 1989年 白帝社)
   >
   >  朝鮮の学者(両班)は、誰かうるさい人の目に労働と映りうることなら、
   >  できる限りそれから遠ざかろうとします。
   >  衣服を自分の手で着てはいけないし、タバコの火も自分で点けてはいけません。
   >  そばに手伝ってくれる者がいない場合は別にして馬の鞍に自力でのぼるべきでなく、
   >  また荒馬から落ちたとしても、誰かがやってきて抱き起こすまでは
   >  地面にそのまま倒れていなければならないのです。
   >  両班は個人的な商売はやらないのですが、その訳は商売というものがまさに労働であり
   >  礼に反するからです。
   >
   >
   > 「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫)
   >
   >  両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、
   >  身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして
   >  生活を支えている場合も少なくない。 両班は自分ではなにも持たない。
   >  自分のキセルすらである。 両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。
   >
   >
   > 「韓国人、大反省」 1993年 金容雲 徳間書店
   >
   >  李朝末期に韓国を訪れた西洋人がテニスをしている姿を見て、時の皇帝高宗が、
   >  「 なんと哀れなることよ、この暑い日に汗を流して体を動かすとは。
   >   下人にさせればよいものを・・・・ 」
   >  と言ったというエピソードがある。
   >  また、李朝時代の絵画には、むしろの上に横たわって長いキセルを口にくわえた両班が、
   >  稲穂を片付けて働く農夫の姿をぼんやり眺めている場面がよく見られる。
   > このように労働を徹底して軽視した指導者たちの導く国のありさまはたやすく想像がつく。
   >
   >
   > 「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫)
   >
   >  (両班は)現在、この国の大きな災厄になっている。
   >  なぜなら、両班階級の人口が途方もなく増大したため、彼らのほとんどが極貧におちいり、
   >  強奪や搾取で生活しなければならなくなったからである。
   >  すべての両班に品階と階級を与えることは、現実的に不可能である。
   >  しかし全ての者がそれを望み、幼少の頃から官職の道に向かって科挙の準備をしている。
   >  ほとんどの者は、他に生活の方法を知らない。
   >  彼らは、商業や農業、あるいはなんらかの手工業によって
   >  真面目に生活の糧を稼ぐには、あまりにも高慢であり、
   >  貧窮と奸計のなかで無為に世を送る。
   >  彼らはいつも借金で首がまわらず、何かちょっとした官職の一つも回ってこないかかと
   >  首を長くしており、それを得るためにあらゆる卑劣な行為を尽くし、それでもなお望みが
   >  かなえられない場合には飢えて死んでしまう。
   >  宣教師たちが知っていたある両班などは、3、4日に一度しか米にありつけず、
   >  厳冬に火の気もなく、ほとんど服も着ないで過ごしながらも、いかなる労働に従事することも
   >  最後まで拒絶し通したものであった。
   >  何かの労働に就けば、たしかに安楽な生活は保障されるであろうが、その代わり
   >  両班の身分を剥奪され官吏の地位につける資格を喪失するため、彼らは労働することを
   >  拒むのである。
   >
   >
   > 「30年前の朝鮮」 バード・ビショップ 1925年
   > (「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社より)
   >
   >  読者は朝鮮人の無気力、怠惰、居候(いそうろう)根性、貧しさを
   >  つぶさに観察されたことになるが、このために朝鮮の独立はきわめて困難で、
   >  将来を望むことが難しい。
   >  (中略)
   >  朝鮮を亡ぼすもっとも大きな、普遍的な原因は、
   >  国民が挙げて独立独行の精神に欠けていることである。
   >  健康な体格を持ちながら、親族知己に少し富裕な人があればその家に居候して、
   >  終日何一つの仕事もせずに暮らしている。
   >  (中略)
   >  居候も朝鮮人の居候根性は徹底したものである。
   >  京城市内の高官、裕福な人の家には、屈強な大の男が相当の教育がありながら
   >  数十人となく寄食している。
   >  三度三度の飯も食わしてもらえぱ、煙草一服も人のものを吹かしている。 見苦しい話だ。
   >
   >  このような両班支配のもとでは産業の発展など到底不可能である。
   >  両班は極端に肉体労働を蔑み、殆ど働かなかったので、
   >  手足として使役する奴婢(奴隷)を必要とした。
   >  李氏朝鮮の国力衰退の根源は、牢固たる階級差別制度にあった。
   >  総督府は両班や奴婢などの身分差別を禁止して朝鮮人の意識改革をおこない、
   >  近代国家の「国民」を創出した。

 こんなに酷い怠け者の特権階級が全人口の半分近くを占めていたのです。

 もちろん、“両班”は、単に怠け者だっただけでなく、簒奪者でもありました。

   植民地統治の検証 1
   http://didisama.tripod.com/didi/syokuminti1.htm

   > 搾取される上勤勉とは程遠い李朝時代の農民たち
   >
   >  「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社
   >
   >  地方を治める官吏は、みな中央で任命されたうえで派遣された。
   >  中央からやってきた役人たちは、地元に対して同情心を持っていなかった。
   >  着任すると、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の政治を行こない、
   >  自分の任期中に、できるかぎり税を取り立てるかたわら、自分の懐を肥やそうとした。
   >  平均的な任期が短いものだったので、苛政(暴政)にいっそう拍車がかけられた。
   >  そこで、日本のように地方ごとに産業が創出されて、発展することがなかった。
   >  韓国の農民たちは働く意欲を失った。
   >
   >  李朝末期の韓国を訪れたカナダ人ジャーナリストのマッケンジーは、
   >  「 私は、十分に耕せそうな土地をほったらかしにしていながらも、
   >   飢えに苦しむ農民のさまが理解できなかった。
   >   『 どうしてそれらの土地を耕さないのか 』
   >   ときいたところ、
   >   『 耕せば耕すほど、税を取られるだけのことだ 』
   >   という返事があった 」 (「朝鮮の悲劇」 F.A .マッケンジー)
   >  と書いている。
   >
   >
   >  「韓山紀行」 山路愛山
   >  (「近現代史のなかの日本と朝鮮」 山田昭次、高崎宗司 1991年 東京書籍より)
   >
   >  (釜山にて)僕の目に映じたる韓人の労働者はすこぶるノン気至極なるものにして
   >  餒ゆれば(うゆれば=食糧がなくなって腹がへる)すなわち起って労働に従事し、
   >  わずか一日の口腹を肥やせばすなわち家に帰って眠らんことを思う。
   >  物を蓄うるの念もなく、自己の情欲を改良するの希望もなく、ほとんど豚小屋にひとしき
   >  汚穢(おわい)なる家に蟄居し、その固陋(ころう)の風習を守りて
   >  少しも改むることを知らずという。
   >  僕ひとたび釜山の地を踏んで実にただちに韓国経営の容易の業にあらざるを知るなり。
   >  (明治37(1904)年5月5日)
   >
   > 朝鮮の発展はインフラの整備だけで成し遂げれるものではなかった。
   > 怠惰な民族性を改め勤勉な労働精神を涵養しなければ朝鮮の発展はなかった。

   > 李氏朝鮮の国教ともいえる儒教では「君子は労せず」と教えており、
   > 額に汗して働く者を卑しんだ。
   > そのため支配階級である両班は労働をすることが全くなかった。
   > 労働を卑しむ社会は停滞するほかない。
   >
   《中略》
   >
   >  「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫)
   >
   >  (両班は)現在、この国の大きな災厄になっている。
   >  なぜなら、両班階級の人口が途方もなく増大したため、彼らのほとんどが極貧におちいり、
   >  強奪や搾取で生活しなければならなくなったからである。
   >  すべての両班に品階と階級を与えることは、現実的に不可能である。
   >  しかし全ての者がそれを望み、幼少の頃から官職の道に向かって科挙の準備をしている。
   >  ほとんどの者は、他に生活の方法を知らない。
   >  彼らは、商業や農業、あるいはなんらかの手工業によって真面目に生活の糧を稼ぐには、
   >  あまりにも高慢であり、貧窮と奸計のなかで無為に世を送る。
   >  彼らはいつも借金で首がまわらず、何かちょっとした官職の一つも回ってこないかかと
   >  首を長くしており、それを得るためにあらゆる卑劣な行為を尽くし、それでもなお望みが
   >  かなえられない場合には飢えて死んでしまう。
   >  宣教師たちが知っていたある両班などは、3、4日に一度しか米にありつけず、
   >  厳冬に火の気もなく、ほとんど服も着ないで過ごしながらも、いかなる労働に
   >  従事することも最後まで拒絶し通したものであった。
   >  何かの労働に就けば、たしかに安楽な生活は保障されるであろうが、その代わり
   >  両班の身分を剥奪され官吏の地位につける資格を喪失するため、彼らは労働することを
   >  拒むのである。

 つまり、“両班”以外の約630万人の被支配階級だけが勤労することによって、怠け者としての“両班” を排除したとしても、被支配階級が労働して得た成果を“両班”が簒奪してしまうので、大韓帝國(嗤)が 日本のように栄えることは不可能だったのです。

 もちろん、教育の問題もあります。

   歴史のQ&A【OKWave】「日韓併合前の韓国での身分制度と識字率」
   http://okwave.jp/qa/q6740643.html

   > 質問 No.6740643 投稿日時 - 2011-05-16 00:05:11
   >
   > 韓国併合前は韓国では身分制度はどのようなものだったのでしょうか?
   > 儒教の影響で男尊女卑はどのくらいひどかったのでしょうか?
   > 識字率はどのくらいでしたでしょうか?
   > 学校に行きたい人はみんな通えたのでしょうか?

   > 回答 No.1 投稿日時 - 2011-05-16 13:11:57
   >
   > ・ 識字率について
   >
   > 併合前の李氏朝鮮は近代的統計を取っていません。
   > 人口統計も、民衆が労役逃れのためにウソ申告をしていたと思われるところがあり、
   > また、開きのある複数の数字が提議されていて信用性が低いとされています。
   > それに対し総督府が行なった統計調査は多くの研究者から信用性が高い
   > とされているようです。
   > そのため、併合後の総督府の行なった調査で併合前を推測するしかありません。
   > 朝鮮総督府は『朝鮮総督府統計年報』というのをほぼ毎年発行しています。
   > 『朝鮮教育要覧』というのも複数回出してます。
   > 国立アジア歴史資料センター のサイトで
   > 『朝鮮総督府統計年報』『朝鮮教育要覧』の一部を見られます。
   > こういうのの中に識字率の事もありそうですが、字がとっても細かくてよくわかりません。
   > でも絶対この中のどこかにあるはずです。
   > 人口統計のページがすごく長く割いてあり、詳しく表が載せてありますので。
   > こういう資料を丹念に当たって研究し、ホームページに勉強結果を載せてる人もいるようです。
   > 「李氏朝鮮時代の教育の歴史 書堂 高橋濱吉総督府視学官」
   > 「李氏朝鮮時代と日本統治時代の人口調査」
   > 「大韓帝国時代の教育の歴史 朝鮮統監府 伊藤博文 弓削幸太郎」
   > ・・・などで検索なさると熱心に研究されてる方々のページが出て来ると思います。
   >
   > 韓国中部の論山(ノンサン)という市の外郭団体が出してる「デジタル ノンサン大全」という
   > ページをたまたま見ましたら、1930年の論山の識字率数値が載ってました。
   >
   > 日本語と朝鮮文字を読み書きできる者  男 7,158名 女 1,050名   計  8,208名
   > 日本語を読み書きできる者         男 1,184   女 1,130     計  2,314
   > 朝鮮文字を読み書きできる者        男 15,617   女 6,164     計 21,781
   > 何も読み書きできない者           男 44,669   女 55,689     計 100,358
   >
   > これから計算すると割り合いは、
   >
   >                          男の中の   女の中の   全人口の
   > 日本語と朝鮮文字を読み書きできる者   10.43%      1.63%     6.18%
   > 日本語を読み書きできる者           1.72%       1.76%     1.74%
   > 朝鮮文字を読み書きできる者         22.75%       9.62%    16.41%
   > 何も読み書きできない者            65.08%      86.96%     75.64%
   >
   > となりました。 論山在住の日本人もこの統計に含まれているそうです。
   > 「論山は他地域と比べると文盲率(ママ)は低かった」
   > 「日本人はほぼ皆日本語読み書きが出来る」
   > と同じページに書いてあります。
   >
   >  参考文献: 『論山市史』 論山市史編纂委員会編 2005年刊 忠清南道 論山教育庁
   >
   > ともあります。
   >
   > 1930年といえば、日本統治の真っ只中で、日本も学制を整え、私立学校も作られ、
   > 朝鮮人社会でも「文盲退治運動」だ、文字を教える「夜学運動」だ、という
   > 社会運動(文字を知ると同時に抗日運動の細胞組織でもあった)が活発に行なわれていた
   > 頃ですが、それでもこの数字です。
   > これより40〜50年以上前の李朝末期はもっとだったでしょう。
   >
   > http://nonsan.grandculture.net/Contents/Contents?dataType=01&contents_id=GC0200・・・
   >
   > 日本海側の港町である元山(げんざん、ウォンサン)の統計を
   > 研究者の本で見たことがありますが、元山の開港時(李朝末期)識字率が
   > 男は13〜15%ぐらい。 女は7%ぐらいでした。


   「ぢぢ登場の巻」の補足資料
   植民地統治の検証 2 - ハングル・朝鮮史教育の禁止
   http://didisama.tripod.com/didi/syokuminti2.htm#hanguru
   > 愚民政策社会を変えた日本人の教育熱
   >
   > 「韓国人の『反日』台湾人の『親日』」黄文雄 1999年 光文社
   >
   >  韓国人は、もともと日本人と同じように教育水準が高かったと考えている人が多い。
   >  しかし、それは大きな間違いである。
   >  日本は、江戸時代からすでに藩校や寺子屋がかなり発達し、大衆教育が普及していた。
   >  しかし、朝鮮半島は、書堂も学堂も普及していたと思われがちだが、そうではない。
   >  李朝時代には、漢文教育が主流で、ハングルは一顧だにされなかっただけでなく、
   >  禁止されていた。
   >
   >  両班以外の庶民の教育は反対されていた。
   >  ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
   >  そもそも漢字漢文は一知半解の文字体系で、漢学の大家はもっばらその文意の読解に、
   >  なぞなぞを解くようにその、生涯の全精力を費やしていた。
   >  ことに両班階級の場合は、わざと漢字を煩雑にして、庶民が読めないようにしていた。
   >  漢字が庶民や奴婢にかんたんに読まれたら、権威がなくなり、たまったものではないからだ。
   >  だから儒教文化圏は、韓国にかぎらず、その社会構造が基本的に愚民社会を前提に
   >  している。
   >  科挙のための勉強が中心となり、読み書きできない人びとが多いのが定評である。
   >
   >  二十世紀に入ってから、辛亥革命以後の中国では、国民学校教育が提唱されたが、
   >  真っ向から反対するのが文人であった。
   >  彼らに言わせると、一般大衆まで教育を受けたら、農民も労働者も文字が読めるようになり、
   >  それこそ「斯文掃地」(文化が地に捨てて掃いたものとなろう)と、こぞって反対していた。
   >
   >  朝鮮半島の書堂で教えられていたものは、漢字の読み書きだけであった。
   >  ハングルの使用が解禁されてから日は浅く、文章として体系化されていないので、
   >  漢字・ハングル混じりの文字体系を確立するには、百年単位の歳月をかけなければならな い。
   >  それだけではない。
   >  農民も働き手の子どもが学校にとられるのを極力反対して、校長が父母を説得するのが
   >  大変であった。 それは台湾でも同じであった。
   >  今世紀の初めごろ、朝鮮半島のみでなく、台湾でも教育を受けたとみられる学齢期の児童は
   >  数パーセントしかいなかった。

 大衆が娯楽として愉しむレベルまで学問が普及していた日本に比べれば、ここまで大衆の学力が劣 っていた大韓帝国(嗤)で産業革命を興すことの困難さは理解できるでしょう。

   > 西洋への開国が日本より四半世紀遅れただけ着手が遅れた分は、
   > 差し引いて考えるべきでしょう。

 差し引くも何も、たとえ、大韓帝国(嗤)の西洋への開国が日本より四半世紀以上早かったと仮定して も、特別に整地された大通りを人と牛馬が行き交うのが精一杯の文明レベルから自力で脱出して、産 業革命を興し、経済大国・軍事大国に伸し上ることなんか不可能です。 人口も、基礎学力も、勤労意 欲も無かったのですから。

 これが現実です。



 なお、この後に続く

   > 一方で、併合後の初等教育就学率は併合から25年たっても2割に達せず、
   > 戦争動員に必要になってからアクセルを踏んだものの
   > 最後まで義務教育を施行しませんでした。
   > 何やってたんでしょうか。 愚民政策でしょうか。
   > 独立を維持していればもっと良い数字になったのではないかとすら思われます。

 に関しては、既に駄文

   webサイト『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責任』 を斬る
   【追加】 Q&A 4 日韓関係・植民地支配
   - 4 日本は朝鮮に教育と文字を広めたのか? を斬る
   http://keibow001.dousetsu.com/page085.html

 で詳しく解説済みです。 よろしかったらご笑覧くださいませ。


  ・
  ・
  ・


 ふ〜、疲れた。

   > まず、
   >
   >  植民地朝鮮と併合前の韓国を比較してみる
   >  http://wayto1945.sakura.ne.jp/KOR10-stagnant.html
   >
   > から。

 なんて書いたけど、こりゃ他のページまで触れるのは体力的に無理だなw

 気が向いたら続きを書きます。

 それまで、とりあえず解散!


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