『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責任』 を斬る 《跡地》



入門編 - 6 戦後はどうした? を斬る

2014.12.07日 引き上げ中の朝鮮人 「慰安婦」 を襲ったのは誰か?を追加

 引用元URL → http://fightforjustice.info/?page_id=301 (なお魚拓は無効な構造です)

   ↓ ↓ ↓

 発覚したのは、平成25年12月03日ですが、webサイト 『 Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却 への抵抗・未来の責任 』 の構造が変更になり、魚拓の取得が可能になりました ( 一部で取得エラー が出ますが ) 。 さっと目を通した限りで文章の変更は無い様に思われます。


 6 戦後はどうした?
 http://fightforjustice.info/?page_id=2346 ( 魚拓 )


 以下、青い色の文字がwebサイト『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責 任』からの“引用”です。


 入門編 6 戦後はどうした?

 戦後の処遇は、女性たちの属する民族や連れて行かれた場所によって、違いがありました。
 中国人やフィリピン人など占領地の女性は主に現地で「慰安婦」など性被害にあいましたが、
 日本人や、朝鮮・台湾の植民地出身の女性たちは、故国から遠方の占領地や戦場に移送され、
 「慰安婦」にされたという違いがあるからです。
 彼女たちは日本軍によって侵略・占領された中国やアジア・太平洋諸島に至る
 広範囲な地域や、危険な前線にまで連れて行かれたのです。
 なお、中国人やインドネシア人女性の中にも海外に移送された人がいます。

 現地で敗戦を迎えた日本人「慰安婦」は
 捕虜収容所に入れられた後に帰国した場合もありますが、
 日本人居留者らとともに引き揚げ船などにより帰国しました(長沢健一『漢口慰安所』など)。
 しかし、彼女たちの戦後は、苦難にみちたものでした(→証言編:日本人慰安婦へ)。

 植民地出身女性はどうでしょうか。
 朝鮮人女性は、日本軍によって敗戦を知らされず、現地に置き去りにされました。

 

 

   なでしこアクション Japanese Women for Justice and Peace
   日中韓「慰安婦」謀略ネットワークとその虚妄
   http://nadesiko-action.org/?page_id=3314

   > ・会場で配られた資料の中に
   > 「多くの朝鮮人慰安婦は、日本の敗戦時、現地に置き去りにされました。
   > これは朝鮮人慰安婦に特徴的な被害です。
   > その理由を国外移送、性的奴隷、民族差別の視点からみていきましょう」
   > というものがあった。
   > 安氏の写真展に登場するのはすべて中国東北部の朝鮮女性だが、ちょっと待って欲しい。
   > あの敗戦時、中国東北部ではソ連軍が乱入し、民間の日本人も男性は惨殺され、
   > 女性はレイプされた上に惨殺され、家財産も強奪され、日本軍兵士は60万人も
   > シベリアのラ―ゲリーに強制連行された。
   > そんな阿鼻叫喚の中で「現地に置き去りにされた」もないだろう。

 戦争をやっていたのだ。 そして日本は負けたのだ。

 戦線を拡大して兵站を移動させる時は、運搬車両は何往復もする余裕がある。
 しかし、敗走となれば逃げる方向へ片道一方通行だ。

 サヨク的思考では、「か弱い女性を優先して退避させるべきだ」って理想論になるだろうが死を覚悟し た兵士だって無駄に死にたいわけではない。 しかも、兵隊は半数以上が赤紙一枚で強制連行された 人達であるのに対して、慰安婦は ― 今現在に海外で性を売る韓国人女性8万人の存在を考慮すれば判断できる通り 極一部を除いて自ら望んで追軍してきた人達だ。 男も女も同権で、逃がせる人員に限りがあるな ら、どちらを逃がす事が倫理に適っているか敢えて語るまでもあるまい。



 @ 戦場に遺棄され、死亡したケース、
 A 自力で帰国したケース、
 B 望まないまま現地に残留したケース
 の3つがあります。

 まず
 @ 戦場で遺棄され、死亡したケースがあります。
   ある日、日本軍がいなくなったため敵陣に残され(放置)、
   地理や言葉もわからず、通用する金銭もなく、危険な状態のまま帰国の術を失い、
   亡くなった女性たちが多かったと思われます。 彼女たちはどうなったのでしょうか。
   写真は、朝鮮人「慰安婦」の遺体ですが、
   「壕は女性の遺体で埋まっていた。 ほとんどは朝鮮人だった」
   と記録にあります(1944年、中国の騰越=ビルマ国境地帯)。
   また1944年暮から1945年春にかけてのフィリピン戦線では、戦況が悪くなり、
   各部隊がそれまで連れて歩いた朝鮮人「慰安婦」を「ボロ屑を棄てるがごとく」棄てた
   といわれています(千田夏光『従軍慰安婦〈正編〉』)。
   こうしたことが、敗戦後もあちこちで起こったと思われます。

 

 異議というか、先のケースと全く同じだな。

 日本の統治が無くなった後に“支配者を追い払った英雄”として美味しい思いがしたかった抗日勢力 は、「抵抗者であった」という既成事実を作る為に、敗走する日本軍を襲った。
 追撃を抑えつつ敗走しなきゃならない状況下で、大半が自分から望んでその職に就いた売春婦を庇 って日本軍は全滅しろ!なんて脳味噌御花畑にも程がある。

 怨むなら已むに已まれず慰安婦を残して行った日本軍よりも、日本軍が「まさか女を鏖殺しになんか しないだろう。 最悪でも慰み者で済む筈だ」と期待していたにも拘らず、鏖殺しにした現地の抗日勢力 に文句を言え。


 というか、そもそも、その残された朝鮮人 「慰安婦」 を襲ったのは誰だよ?

 

   2014年12月02日 キムチ速報
   【国際】マイケル・ヨン氏 「 日韓問題 :
   第二次世界大戦中、韓国男性が臆病者だったとでも言うつもりか? 」
   http://kimsoku.com/archives/8625938.html

   > ※ 29 : 名無しの(´・ω・`)さん 2014年12月02日 11:07
   > 【韓国の本性】 終戦時の日本人女性への暴虐行為、1割近くが被害、自殺者も
   > ・・・ 朴槿恵大統領はこの歴史の事実こそ直視すべきだ
   >
   > 終戦 (1945年) 後、福岡・博多港には、満州 (現・中国東北部) や朝鮮半島からの
   > 日本人引き揚げ者が数多く降り立った。
   > 女性たちの多くは、目もそむけたくなるほどボロボロの姿をしていた。
   >
   > 引き揚げ者の診療に当たっていた西岡利之氏は
   > 『ある戦後史の序章』 (西日本図書館コンサルタント協会)
   > の中でこう述べている。
   >
   > 「 若い婦人達の多くは断髪し、女性の命ともいうべき顔面などを
   >  煤 (すす) などで故意に汚し、胸部は厚く布を巻いて乳房を圧し、
   >  ズボン姿の男装がおおく、その脱出の苦労が察せられた 」
   >
   > 一体、彼女たちに何があったのだろう。
   >
   > 終戦後2週間もたたないうちに、朝鮮半島38度線以北はソ連軍が制圧し、
   > ソ連兵と朝鮮人保安隊による日本人迫害と虐殺が開始されたのだ。
   > 『ある戦後史の序章』 には、避難民救済活動を行っていた石田一郎氏の以下のような手記が
   > 掲載されている。
   >
   > 「 北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦の末
   >  やっと38度線近くの鉄原にたどりついた。
   >  そこで見たものは、日本人の娘たちがつぎつぎにまずソ連兵に犯され、
   >  ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々辱められたうえ、
   >  虐殺されている光景であった。
   >  最愛の二人の娘達もまもなく同じ運命をたどるであろうことを不憫 (ふびん) に思い、
   >  松の木に縊 (くび) って自決させた 」
   >
   > 46年に入ると、1割近い女性がソ連人や朝鮮人に暴行を受けて妊娠したり、
   > 性病に冒されて帰国し、先行きを悲観して引き揚げ船から身を投げることも多かった。
   >
   > そのような女性たちを救うべく、民間組織である在外同胞援護会救療部が、
   > 厚生省引揚援護局の協力を得て 「二日市保養所」 という施設を
   > 福岡県二日市町 (現・筑紫野市) に作った。
   >
   > 当時、堕胎は罪であったが、厚生省はこの施設に限って超法規的処置として
   > 「強姦によって身ごもった女性」 の堕胎手術を黙認した。
   >
   > 二日市保養所の医務主任、橋爪将氏は46年6月10日付の現状報告書に次のように記してい る。
   >
   > 「 不法妊娠ヲ地区別ニ分類スルニ北鮮二十四ニシテ最多、
   >  南鮮十四、満州四、北支三ノ順ニシテ鮮人ニ因ルモノ二十八、ソ連人ニ因ルモノ八、
   >  支那人ニ因ルモノ六、米人ニ因ルモノ三、台湾人、比島人ニ因ルモノ各一ナリ 」
   >
   > 日本女性に暴行を加えた者の、圧倒的多数は南北朝鮮人だった。
   > 朴槿恵(パク・クネ)大統領はこのような歴史の事実こそ直視すべきだろう。

 日本人女性を襲った朝鮮人男性と同じく、朝鮮人「慰安婦」も朝鮮人男性に襲われたんじゃねーか。



 A の自力帰国ケースでは、黄錦周さんは中国から、
   姜徳景さん(日本軍人の子を妊娠中)は日本から自力で帰国しました。
   朴頭理さんは台湾の慰安所で使い走りをした朝鮮人男性と一緒に帰国しました。
   朴永心さんは昆明捕虜収容所に収容され、重慶から光復軍とともに朝鮮に帰国しました
   (→証言編)。
   中国に連れて行かれた崔甲順さんは、豆腐売りをしながら、歩いて韓国に帰国しましたが、
   4年間かかりました。
   帰国がいかに危険で困難であったか、奇跡的なことであったかがわかります。
   しかし彼女たちの故国での後半生も、厳しいものでした(→入門編7)。

 

 んなもん、慰安婦だけやないっちゅうねん。

 条約を破って侵攻した鬼畜ロシア軍によって、旧満州地区や千島を含む樺太に居た多くの日本人民 間人が戦火に巻き込まれて命を落とした。 当時は今と違って多産であったため、我が子を全員連れ て還る事が困難だと判断された場合に、我が子を現地の人に預けることもあった。

 そう、いわゆる中国残留邦人および樺太残留邦人だ。

 もちろん、連れ子の数が減りさえすれば確実に生きて日本に還れたワケではない。

 多くの人が日本まで辿り着けずに命を落とした。

 慰安婦だけが被害者の様な書き方をするな。 敗戦で苦しんだのは皆同じだ。



 B 現地に置き去りにされたケースも少なくありませんでした。
   たとえば、中国の内陸部にある武漢の例をみてみましょう。
   武漢には1938年11月に開設された中国最大の日本軍慰安施設が積慶里にあり、
   約20軒の慰安所に日本人女性130人、朝鮮人150人女性が「慰安婦」にされていた
   といいます(山田清吉『武漢兵站』)。
   長沢健一軍医大尉によれば、日本人「慰安婦」たちは、敗戦の翌春、
   府県単位に組み込まれて引き揚げ船で帰国しました(長沢『漢口慰安所』)。
   同氏は、朝鮮人「慰安婦」は光復軍とともに故国に引き揚げた模様といっていますが、
   必ずしもそうではありませんでした。

   武漢で「慰安婦」にされた宋神道さんは日本人元軍曹に誘われて日本に渡りましたが、
   軍曹に日本で棄てられました。
   河床淑さんなどのように、「恥意識」から迷っているうちに帰国する術を失い、
   意志に反して武漢周辺に留まった女性が多数いました
   (その数は、河さんによれば1950年代後半に32人、1990年代には9人でした
    〔『中国に連行された朝鮮人「慰安婦」たち』〕)。

 

 > 「長沢健一軍医大尉は、朝鮮人「慰安婦」は光復軍とともに故国に引き揚げた模様
 > といっていますが必ずしもそうではありませんでした。」

 なんて言うからてっきり、日本政府が帰国を願望する慰安婦を無慈悲にも故意に現地へ残してきた のかと思いきや。

   日本に渡ったけど日本で男に棄てられたとか、

   恥意識が故に帰国の船に乗らなかったとか、

 日本政府はちゃんと帰そうとしたんじゃねぇか。 恥だろうが何だろうが、助けようと伸ばされた手を拒 んでおいて何が「意志に反して」だよ。 日本人の感性から言わせて貰うなら、そういう『自分が拒んで おきながら人の所為にする」ことこそが恥ずべき行為だ。



   また、中国東北地方(いわゆる満洲)に連行された朴玉善さん李玉善さん、金順玉さん、
   シンガポールに連行されタイに残留した盧寿福さん、沖縄・渡嘉敷島に連行された
   「奉奇さんなどをはじめ、かなりの数の朝鮮人女性が現地に留まらざるをえませんでした
   (『置き去りにされた朝鮮人「慰安婦」』)。
   彼女たちが、韓国政府や支援団体などの助力により帰国を果たしたのは、
   半世紀を過ぎた1990年代、または2000年代に入ってからです。
   台湾人女性もまた同様でした。

 

 フィリピン・ルパング島で終戦後も潜行生活を送っていた元日本兵の小野田寛郎さんでさえ、1974年 3月12日に帰国している。 偶さか居た国が破壊的独裁政権になって、外国人だとバレたら殺されるか ら、現地人に成り済まして息を潜め、長期間外国へ逃亡することが出来なかった…なんて、映画『キリ ングフィールド』みたいな話ならともかく、日本もしくは韓国と正常な国交がある国から戦後50年間も脱 出できないなんて事があるわけねーだろ。

 おおかた、現地に足を付け、売春で生活基盤を築いていた元慰安婦をサヨクが探し出して「従軍慰安 婦を名乗り出れば日本政府から大金が貰える」と煽って連れて来た、ってあたりが真相だろうに。



 私たちが証言を聞けるのは、苦難のなかで運よく帰国できたり、
 現地に残留して生き延びたりした、まさに「サバイバー(生還者)」と呼ぶにふさわしい、
 被害女性がいたからです。

 

 そういうことは、なぜ戦後50年間も60年間も現地から離れることが出来なかったのか、その理由を明 確に述べてから言え。

 ポルポト政権みたいな破壊的独裁下ならともかく、普通の国で戦後50年間も働いて金を溜めても国 外に脱出できない国なんか無いぞ。 少なくとも、日本軍が一時的に占領していたアジアの国々には、 な。

 「もう帰れないんだろう」と諦めて結婚する等、現地で生活基盤を築いてしまった慰安婦に関しては 「そんなの知ったこっちゃない」だわな。 己の読みの浅さを呪うしかないだろ。



 このように、日本軍は、日本人「慰安婦」を帰国させましたが、
 自ら立案・実行した「慰安婦」制度により植民地から戦地・占領地に連れて行った
 朝鮮人や台湾人の元「慰安婦」を帰国させる手だてをとりませんでした。
 日本軍・日本政府の戦後責任・植民地責任の放棄は、戦争直後の置き去りからはじまります。

 

 責任の放棄も何も日本はポツダム宣言を受け入れて、サンフランシスコ条約に基き、多くの領土を手 放したワケで。

 しかも、同条約に基づいて一時的に日本人になっていた外国人は、日本国籍を喪失して元の国籍に 戻った。

 つまり、置き去り(?)にされた慰安婦は、日本政府にとって異国にい る他国人ということになる。

 日本政府戦後責任と言えば戦後責任の範疇に入るのかも知れないが、本来、日本国外に居る外国 人の安全の保証は日本政府の責任ではない。 朝鮮人、台湾人、中国人、華僑(華人)、フィリピン 人、インドネシア人、ベトナム人、マレー人、タイ人、ビルマ人、インド人、ユーラシアン (欧亜混血)、グ アム、太平洋諸島の人々、(インドネシア在住の)オランダ人etcの元慰安婦が異国の地に遺されて困 っているというなら、彼女達は、南北朝鮮,台湾(中華民国),中華人民共和国,ベトナム社会主義共 和国,マレー諸島の国々(ブルネイ,東ティモール,インドネシア,マレーシア,パプアニューギニア,フィ リピン,シンガポール),ミャンマー連邦共和国,インド共和国,アメリカ,そして欧州の各国がそれぞれ 個別に救出しなくてはならない。 日本がその救出費用を戦争責任として追う事はあり得ても、慰安 婦の祖国が要請していないのに、勝手に救出するなんて出来ない  出来るワケがない。



 戦後補償からの置き去り

 1990年代に入って、韓国などアジアの被害者が次々と証言をするまで、
 日本政府は半世紀以上も放置・黙殺してきました。

 

 そもそも慰安婦に関する賠償に関しては、日韓基本条約を締結する際に、アメリカ軍が慰安婦におこ なった聞き取り調査が公文書として既に存在しており、その存在を含めた上で協議・検討されていま す。 そして、その結果、慰安婦が現地に残して来た軍票の扱いのみが俎上に上がり、日本軍の強制 連行は 「 賠償に価する程の行為ではない 」 と見做されたのか、それとも 「 日本軍による強制連行な ど無い 」 と見做されたのか、どちらなのか分かりませんが、アウトオブカウントになりました。

   2012年08月16日 ネトウヨにゅーす。
   “慰安婦性奴隷説"を言い出したのは吉田清治という職業的反日日本人
   http://netouyonews.net/archives/7391603.html

   > 133:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2012/08/16(木) 11:08:16.24 ID:+aZ1vZ5p
   > >>1
   >
   > > 8項目の「対日請求要綱」(1951年)「戦争による被徴用者への補償金」は
   > > 挙げられていたが、慰安婦に対する補償は入っていなかった。
   >
   > 交渉中の1953年に、慰安婦とか言う売春婦の財産を請求されています。
   > 言葉としては、韓国人個人の請求権にまとめられているだけ。
   >
   >  (4)日銀券問題と似たものに日本あるいは
   >     その占領地から引揚げた韓国人の預託金問題がある。
   >     これは日銀券持出し制限で預けたまま帰国したものであり、
   >     本人から申告をとったことがある。
   >     その数字は一億以上になっており、
   >     これを担保にするから金を貸してくれという者もある。
   >
   >    ★ また、韓国女子で戦時中に海軍が管轄していたシンガポール等南方に
   >      慰安婦として赴き、金や財産を残して帰国して来たものがある。
   >      (連合国)軍(政部)発行の受領書を示して何とかしてくれといって
   >       来るので社会政策的に受取を担保にして金を貸したこともある。      
   >
   >     以上述べた四項目については、後から貴方の資料で実態を確か(堅)めて行きたい。
   >
   >  ↓↓↓↓↓↓
   >
   > 日韓交渉報告書(三)
   

 勝者による敗者へのリンチでしかなかった(だから、その気になれば何でも有罪にできた)東京裁判 でさえ朝鮮人慰安婦は対象にされず、日韓基本条約でも日本軍による朝鮮人の強制連行は対象にな りませんでした。 政府が業者に依頼して慰安所を作らせた事も、日本軍が慰安所として使う建物の建 設を手伝った事も、慰安婦の移動に日本軍の車両を使った事も、何もかも全てがお咎めなしでした。  これで同人誌レベルの創作本やら樺太裁判に於ける吉田清治の偽証やらで腰を上げて税金を突っ込 む必要が何処にある。

 バカも休み休み言え。



 日本政府が軍関与を公式に認めたのは、1991年8月14日に、金学順さんが韓国で
 はじめて実名で顔を出して証言をはじめ、1992年1月に軍の深い関与を示す資料が
 防衛庁防衛研究所図書館に存在したことが報道されてからです。

 

 金学順氏の証言は

 

   従軍慰安婦問題を考える「金学順(キム・ハクスン)」
   http://sikoken.blog.shinobi.jp/慰安婦証言/金学順(キム・ハクスン-

   > 【考察】
   >
   > 下記資料を見ると、1991.8.11の朝日新聞の記事は「挺身隊+強制連行」と
   > 他の資料と全く異なった内容になっています。
   > 当該記事については、
   > 掲載された数日後には全く異なる証言がなされていること(1991.8.15ハンギョレ新聞)、
   > また、裁判資料も後者の証言と一致していることを考えると、
   > 多くの方が指摘している通り朝日新聞の記事は記者による歪曲でしょう。
   > なお、当該記者は慰安婦裁判の原告である「太平洋戦争犠牲者遺族会」の
   > 常任理事の娘婿でした。
   >
   > また、「裁判の訴状」(以下、「裁判」)と「金学順(キム・ハクスン)さんの証言」(以下、「金学」)、
   > 及び、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下、「証言」)の内容を比べると
   > 下記の通り、相違点が見受けられます。
   >
   > < 父の死亡理由等 >
   >
   > ○ 「裁判」・・・死亡理由の記載なし
   >
   > ○ 「金学」・・・三・一独立運動に参加した独立運動家で、日本軍の銃に撃たれて亡くなった
   >
   > ○ 「証言」・・・独立運動をしていたとは記載されているが、
   >   死亡理由については、「どのように亡くなったかくわしい事情は分かりません」と記載。
   >
   > → 「金学」だけ日本軍に殺されたことになっています。
   >
   >
   > < キーセンになった理由 >
   >
   > ○ 「裁判」・・・理由の記載なし
   >
   > ○ 「金学」・・・母の再婚相手が嫌で家を飛び出した後、
   >   一人で稼がなければならなかったから
   >
   > ○ 「証言」・・・母が同女をキーセンを養成する家の養女に出した
   >
   > → 「金学」では、家出して自ら養女になった話だったのが、
   >    「証言」では、母が養女に出したことに変更されています。
   >
   >
   > < 中国へ向かうことになった年 >
   >
   > ○ 「裁判」・・・1939年数え17歳
   >
   > ○ 「金学」・・・17歳(西暦の記載なし)
   >
   > ○ 「証言」・・・1941年満17歳
   >
   > → 17歳は一致していますが、西暦は異なっています。
   >    同女は1924年生まれなので、17歳が数え年なら1939年、満年齢なら1941年になります。
   >    どちらが正しいのでしょうか?
   >
   >
   > < 朝鮮ではキーセンの許可が降りなくて養父に連れられ向かう地 >
   >
   >   ○ 「裁判」・・・「そこへ行けば金儲けできる」とだけ書かれており、
   >            「そこ」が中国をさすのか「鉄壁鎮」をさすのか不明。
   >
   > ○ 「金学」・・・満州(※満州に行く途中の北京で連行される)
   >
   > ○ 「証言」・・・中国
   >
   > → 「裁判」では、最初から「鉄壁鎮の慰安所を目指していた」とも読み取れる内容に
   >    なっています。
   >    また、同女の働いていた慰安所は「鉄壁鎮」という場所にあり、
   >    鉄壁鎮とは満州の鉄壁鎮のことでしょう。
   >    つまり、「金学」では、北京で軍人に連行された後に
   >    図らずとも目的地に辿り着いたことになっています。
   >    それではまずいと言うことで「証言」では目的地を漠然とした「中国」に変えたのでしょうか。
   >
   >
   > < 北京で日本の軍人に職務質問を受けるのが >
   >
   > ○ 「裁判」・・・職務質問、および、それに連なる強制連行の話は出てこない
   >
   > ○ 「金学」・・・食堂で食事をとろうとしている時
   >
   > ○ 「証言」・・・食堂で昼食をとり出てくる時
   >
   > → 「金学」、「証言」では、「裁判」にはない「北京で軍人に捕まった」という情報が
   >    追加されています。 ただし、上記の「金学」と「証言」は微妙な違いですが。
   >
   >
   > < 職務質問をした将校が >
   >
   > ○ 「裁判」・・・職務質問、および、それに連なる強制連行の話は出てこない
   >
   > ○ 「金学」・・・長い刀を背中にしょっていて、その刀を養父につきつけたり振り回したりする
   >
   > ○ 「証言」・・・刀の話は出てこない
   >
   > → 刀を背中にしょってる将校などありえない話なので「証言」では削除したのでしょう。
   >
   >
   > < 養父と別れた場所 >
   >
   > ○ 「裁判」・・・鉄壁鎮(慰安所のあった場所)
   >
   > ○ 「金学」・・・北京
   >
   > ○ 「証言」・・・北京
   >
   > → 「金学」、「証言」では共に、北京で軍人に捕まって養父と離れ離れになります。
   >    養父と鉄壁鎮で分かれたとしている「裁判」とは大きな違いです。
   >
   > 「裁判」と「金学」、「証言」との一番大きな相違は、
   > 「北京での軍人による強制連行」の有無です。
   > 「裁判」では、鉄壁鎮まで養父と一緒に行って、そこで別れて慰安所に入れられたのが、
   > 「金学」、「証言」では、北京で軍人に捕らえられ、
   > そこから鉄壁鎮の慰安所に連行されたことになっています。
   > 如何にも、後から取って付けた話です。
   >
   >
   > 【信憑性】
   >
   > 同女の証言する強制連行は信憑性が全くないと言えるでしょう。
   > 養父に売られた後、キーセン学校を卒業したものの朝鮮で営業できなかった為に、
   > 中国に行って慰安所に入れたという話で、その他の部分は信憑性があると思います。

 ・・・だし、防衛庁防衛研究所図書館に存在した軍の深い関与を示す資料ってのはコレだ

 

   万死に値する朝日・慰安婦報道 (その2)
   http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/ianfu/ianfu-asahi-2.html
   > (1) 「軍関与」とは具体的に何なのか
   >
   > 見された「資料」には何が書いてあったのでしょうか。
   > また、見出しにいう「軍関与」というのは何を指し、「強制連行」の存在を公的に裏づける
   > 資料だったというのでしょうか。
   > 朝日新聞  記事によると、吉見 義明教授(日本現代史)が
   > 防衛研究所図書館に保管されていた「陸支密大日記」などの資料から見つけた
   > 「軍慰安所従業婦等募集に関する件」と題したものとし、以下のように報じています。
   >
   > 〈 日本国内で慰安婦を募集する際、業者などがトラブルを起こして警察ざたになるなどした
   >  ため、陸軍省兵務課が作成、派遣軍などに通達された。
   >  「募集などに当たっては、派遣軍が統制し、これに任ずる人物の選定を周到適切にし、
   >   実施に当たっては関係地方の憲兵および警察当局の連携を密にして
   >   軍の威信保持上ならびに社会問題上遺漏なきよう配慮」
   >  するよう指示・・・〉
   >
   >  などと書かれ、梅津美治郎陸軍次官らの承認印が押されているとしています。
   >  また、歩兵41連隊の「陣中日誌」につづられていた北支那参謀長名の通牒の写しが
   >  見つかったとし、
   >
   > 〈 占領地域内で交通網の破壊など治安回復が進まないのは、
   >  住民に対する強姦事件などの不法行為が反日感情を高め、
   >  軍の作戦を阻害しているため、とし、「すみやかに性的慰安の整備を整え・・・」と
   >  慰安所の設置を指示している。 〉
   >
   > と写しの内容を報じています。
   >
   > これらの資料は戦後、連合軍に押収され、ワシントンで保管されていたものが
   > 1958(昭和33)年に返還され、防衛庁の戦史資料室に引き渡されたとあります。
   >
   > そして、吉見教授の「軍関与は明白 謝罪と補償を」とする談話を
   > 以下のように載せています。
   >
   > 〈 当時、軍の部隊や支隊単位で慰安婦がどれだけいたかもわかる資料で、
   >  軍が関与していたことは明々白々。
   >  元慰安婦が証言をしている段階で「関与」を否定するのは恥ずべきだろう。
   >  日韓協定で、補償の請求権はなくなったというが、
   >  国家対国家の補償と個人対国家の補償は違う。
   >  慰安婦に対しては、謝罪はもとより補償をすべきだと思う。 〉
   >
   >
   > (2) 何が証明されたのか
   >
   > では、この「新発見」で何が判明したのでしょうか。
   > もっともこれらの資料は「新発見」ではなく、研究者の間では知られていたとのことです。
   > 資料の中身を要約すれば、次のようになるでしょう。
   >
   > @ 募集などにあたって、国内で業者などがトラブルを起こし警察ざたになったことを考慮し、
   >   現地でこうしたことを防ぐために、募集の任にあたる適切な人物を選定すること。
   >   実地にあたっては憲兵、警察と緊密にし、社会問題になることのないよう配慮すること。
   >
   > A 住民に対する強姦などの不法行為を防ぐため、慰安所の設置が指示されていたこと。
   >
   > 軍にとって、「結核と性病」 は厄介あつかいで、軍の内部に持ち込んではならない病でした。
   > 今と違って抗生物質もなく、蔓延する恐れが高かったからです。
   > このため、結核は徴兵検査の際、慎重に検査され、戦争たけなわの頃でも
   > 重症と判断されれば兵役免除となりました。
   > 性病も同様に徴兵検査の対象となりましたし、兵の士気にかかわりますので、
   > 嫌われていたのです。
   > ですから、慰安婦の性病予防は軍にとって関心事ですから、
   > この面からも「慰安所」との係わり合い、つまり「軍の関与」がでてきたわけです。
   >
   > また、また募集業務にあたっては、誘拐まがいの民間悪質業者(朝鮮人女衒)を排除する
   > ために、業者の選択および指導・監督が行われました。
   > こうしないと軍の名を使い、あるいは騙って募集が行われてしまい、
   > 軍の威信が失墜するからです。
   > また、慰安所内で慰安婦が業者から金銭面で騙されたりしないよう監督してもいました。
   > こうしたことは、将兵はじめ軍の関係者にとって周知の事柄で、
   > こうした意味の「軍の関与」を否定する人など1人もいないはずです。
   > もちろん慰安婦、慰安所の存在もです。
   > ですから吉見教授がいう
   >
   > 〈 「関与」を否定するのは恥ずべき行為 〉
   >
   > は、「強制連行」に日本が「関与」したことの証明がないかぎり、言えることではありません。
   > 新発見されたという資料には、「強制連行」を裏づけるものはなかったのですから。

 つまり、軍の深い関与を示す資料は、「慰安婦の身の安全と衛生を守る」という意味での「関与」を証 明する資料です。



 しかしその後も日本政府は、帰国できなかった元「慰安婦」サバイバー(生還者)への
 帰国措置をとりませんでした。

 

 だ〜か〜ら〜。

 サンフランシスコ条約以降、日本国外に置き去り(?)にされた外国人慰安婦は、日本政府にとって 異国にいる他国人。

 日本国外に居る外国人の安全の保証は日本政府の責任ではない。

 日本国外に居る外国人の安全の保証は、その外国人の母国が負う。 その外国人が居る状況が日 本政府の因る物だと向こうの政府が判断したら、救出に掛かった費用は請求されるかも知れないが、 日本国外に居る外国人を、その外国人の祖国の要請無しに、日本政府が勝手に判断して救出した ら、それこそ国際問題だっちゅうの。



 戦後補償に関してはどうでしょうか。
 日本政府の戦後補償政策では日本人男性元軍人・軍属に対して
 「国家補償の精神に基づき」個人補償(軍人恩給)が1952年から実行されました。
 これに対して、「慰安婦」には、日本政府による個人補償はなされていません。
 1995年に日本政府は「女性のためのアジア平和国民基金」(国民基金、またはアジア女性基金)
 を創設しましたが、これは民間からの募金による「償い金」であり、国家補償ではありません。

 

 

   2011年10月12日 せと弘幸BLOG『日本よ何処へ』
   新たな「慰安婦基金」創出の愚策
   http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52782370.html

   > 前原誠司に告ぐ!
   >
   > 新たなアジア女性基金創設の前にこの事を明らかにせよ!

   せと弘幸Blog『日本よ何処へ』:村山亡国政権・慰安婦基金問題
   http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/51656940.html

   > この問題の核心は歴史の捏造と賠償問題だけではありません。
   > この時に取り上げたのが、自社さきがけ亡国村山政権時代に設立された
   > 『財団法人・女性のためのアジア平和国民基金』なるものでした。
   >
   > 女性のためのアジア平和国民基金とは、
   > 旧日本軍による慰安婦強制連行を日本政府として認めた「河野談話」、
   > そして第二次世界大戦において日本がアジアの国々を侵略したことを
   > 日本政府として謝罪した「村山談話」を根拠として設立され、
   > 元慰安婦と称する各国の女性らに国費を使った多額の保証金を拠出したものでした。
   >
   > 日本人元慰安婦以外の外国の慰安婦と称する人たち285人に対して、
   > 何の裏付けも取らず、何の検証もせずに、
   > その時々のわが国首相のお詫びの手紙まで添えて、
   > 約5億6,500万円を支払ったのみならず、何と、それらのお金を支払う為の組織として
   > 村山富市が代表となってつくった本裁判の被控訴人たる
   > 所謂「アジア女性基金」を維持・運営する為に、
   > 約50億円もの国費(国民の血税)を濫用した。
   >
   > この50億円からの国民の血税が、
   > この慰安婦問題を取り上げてきた反日左翼団体に流れ費消されたのです。
   > つまりは反日左翼の資金に使われたというわけです。
   >
   > どこにどのように巨額なカネが流れて消えたのか?
   > その徹底調査こそやらねばならないことなのです。
   > 国民に増税を強いながらまたもや使途不明金を生み出すことなど
   > 絶対に許されることではありません。
   >
   >
   > 当時、下記のようなコメントも頂いておりました。
   >
   > 2008/12/02 (火) 【アジア女性基金】の使途不明金31億はいずこへ
   > 山椒小粒氏より
   > http://www.kamimoto-mieko.net/doc/gijiroku/2005/04_25_kessan.pdf
   >
   > 随分古い話で恐縮ですが、
   > 上記pdfで【アジア女性基金】の使途不明金が31億以上に上る指摘がされています。
   > (今読んで面白いのは神本美恵子氏が突ついている点)
   >
   > 償い金総額7億2800万。 政府から基金へは合計41億。
   > では残りの30億はどこへやら??
   >
   > 「アジア女性基金」1995年に設立。
   > これまで364人の元私娼婦の女性に対し、
   > 基金から1人あたり200万円の「償い金」と
   > 時の「総理大臣の手紙」を送付。
   >
   > この基金は有耶無耶のまま(収支報告は検索では出てこない)2007年3月末日をもって
   > 解散。
   >
   > Posted by kuroneko at 2008年12月02日 19:17
   >
   >
   > 戦地売春でしかない朝鮮人慰安婦を人道上の問題として捉える人がいますが、
   > この裏には国民の血税を自分たちの運動の為に利用した、このような反日左翼の
   > 汚い実態があることも我々は忘れてはならないと思います。

 首相がサヨクの連立政権であった事を是幸いと、サヨクが自分達の懐を温める為に創った基金じゃ ねぇか。

 よくもまぁシレっと言えるモンだな。



 ここにも日本人軍人・軍属との著しい落差があります。
 戦後補償からも“置き去り”にしたのです。

 

 え? 慰安婦が軍属じゃないって認めるの?

 んじゃ、今後は『従軍』の二文字は使用禁止な。


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