サヨクの単発妄言をブッタ斬る! 《跡地》

「性奴隷」とはなんでしょうか。
奴隷状態で性労働を強制された女性が、性奴隷です。

では奴隷とは何でしょうか。
人身を拘束され、自由を奪われた労働者のことです。

 facebook 泥 憲和
 【従軍慰安婦の真実】1 慰安婦は性奴隷だったのか @


 以下、青い色の文字がwebサイト facebook 泥 憲和  【従軍慰安婦の真実】1 慰安婦は性奴隷だっ たのか @ からの“引用”です。


 まるでネトウヨみたいなタイトルです(笑)
 いまもネットに飛び交うデマにだまされている人が、たくさんいます。
 カウンター仲間の中にすらいるそうです。
 そのことをFB友の渡辺先生から教えてもらいました。
 幸い、たくさんのカウンター仲間が私のページを読んでくれています。
 そこで、おさらいといった感じで、なるべくわかりやすく、日本軍慰安婦のことを書いていきたいと
 思いました。
 ご自身の勉強を確かめるため、またネトウヨとたたかうため、活用して頂ければ幸いです。
 何回にわたるのか、まだ未定です。
 質問があれば、なるべく丁寧にお答えしようと思っています。
 第一回は、ネトウヨが発狂するようなテーマです。
 「慰安婦は性奴隷だった」という話です。

 1 慰安婦は性奴隷だったのか

 「性奴隷」とはなんでしょうか。
 奴隷状態で性労働を強制された女性が、性奴隷です。

 では奴隷とは何でしょうか。
 人身を拘束され、自由を奪われた労働者のことです。
 人身を拘束されるというのは、居住の自由を奪われて、雇い主の指定する住居に住まわされ、
 移動の自由のない状態をいいます。
 自由を奪われるとは、転職や退職・廃業の自由を奪われて、いやでもそこで働かされることです。

 

 小林よしのり氏に論破されたネタを何度も何度も何度も何度も。 いい加減にしろ!

 

  新・ゴーマニズム宣言 第4巻 53ページ 『 第42章 わしは広義の強制連行による漫奴隷だった! 』 より

 ―― テキストのみを引用します ――

  - - 新ゴーマニズム宣言 第4巻からのテキスト引用此処から - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 みなさん聞いてくだされ

 わしは広義の強制連行による漫奴隷なのです

 あれは20年前、福岡で、わしがまだ汚れのない大学生の時じゃった

 『少年ジャンプ』 でデビューして、そのデビュー作の主人公で何本か描いてみるよう言われ…
 5〜6本、下書きを送り続けていると …

 ある日突然当時のN編集長が福岡にやって来てこう言う …

 N編集長 「 きみはプロになる気があるのか? 」

 小林   「 はい 」

 N編集長 「 よし、じゃ連載するよ 」

 小林   「 ええっ!?
        で…でもわし、まだプロの原稿一ぺんも見たことなくて掻き方もわからないんです。
        東京へ行って一年くらいプロの下で修行してからにしてください 」

 N編集長 「 いや、今のままでいい
        福岡で描いていていいから 」

 小林   「そんな無茶な……!? 」

 わしは信じられんかった。
 描き方もよく知らん素人が一気に週刊誌で連載を始めろと言われたんだ…!

 [ ものすごいラッキーチャンス こんな甘い話があるのだろうか? ]

 しかし、やはり甘い話にはウラがあって、実は新人は 「10回」 試されるだけで、人気がとれなきゃ
すぐ切られる運命だったんじゃ。 

 モノにならんかった時に新人を上京させていたら後の処理に困る

 だから福岡で描いてよいということだった。

 つまり 「甘言」 を弄して 「業者」 が 「強制連載」 したわけじゃ!

 わしは何も知らずに連載を始めた。

 連載決定後、担当の編集者が福岡に来たとき、初めて 「10週」 しかやらないという現実を聞いたの だ。

 小林   「 ええっ!? じ…じゃわし、10週で終わったらどうなるの? 」

 編集者  「 そ…そりゃまた一からやり直しじゃない? 」

 小林   「 [ ガーン ] それって無収入になるってことか… 」

 業者にだまされていたのを知ったが後の祭り…こうなったらヤケクソにがんばるしかなかった

 [ ア…アイゴ――ッ ]

 しかし何本かペン入れしているうちに困ったことに気がついた。

 漫画かというのは作品が雑誌に載ってから1ヵ月くらいたって原稿料が入ってくる。

 まだ一回も原稿料が入ってこないまま描いていたので、生活費がなくなったのじゃ

 小林  (電話) 「 わし明日からしばらくペン入れできません 」

 編集者(電話) 「 なんで? 」

 小林  (電話) 「 バイトしに行かなきゃならんので… 」

 編集者(電話) 「 なんだよそれ?
            きみはもうプロの漫画家なんだよ 」

 小林  (電話) 「 だってバイトしなきゃ、もう食っていけんもん 」

 編集者(電話) 「 お金ないの? 」

 小林  (電話) 「 はい 」

 編集者(電話) 「 わ…わかったよ
            とにかくもう連載始まったんだからバイトなんかされたら困るんだよ
            すぐ専属契約金振り込むから描き続けてよねっ 」

 50万入ってた。

 そんな大金わし見たことなかったもんだからぶったまげた。

 [ こんな大金を原稿料とは別にくれるなんて…これってまさか不正な金なのでは? ]

 わしは勘ちがいして後ろめたさで眠れなくなって

 ついに編集者に聞いてみた

 編集者(電話) 「 いいんだよ、それは一年間の専属契約金なんだから。
           そのかわり他の雑誌で描いちゃいけないんだよ 」

 [ ガーン わしは 「前借金」 でしばられて、作品の 「発表の自由」 を奪われてしまったのだ ]

 もし10週で切られた場合、わしは他の雑誌にも描けず、ジャンプからはホサれたまま、もんもんと囚 人のように暮さねばならなくなる!


 7本目くらいを描き終えて漫画賞のパーティで上京した時、編集長はこう言った。

 編集長  「 なかなかいいよ
        このまま連載続けるよ
        育ててやるよ 」

 どうやら予想外に人気投票が良かったらしい。
 首はつながったのだが…それからが地獄の 「漫奴隷」 人生の始まりだった。

 毎週連載で、最初の1年は人を雇う金もなく1人で描いた。 1日も休みはなかった。

 次回は休ませて欲しいという 「拒否の自由」 もなく、「外出の自由」 もほとんどなく、前借金50万もらっ ていたので 「廃業の自由」 もなかった。

 漫画家が自由業というのはウソであり、事実上の 「漫奴隷」 であり、労働基準法にも国際法にも違 反していた。


 2日間完徹でコンテを描いて空港までタクシーで持っていく。

 小林   「 羽田空港止めでお願いします 」

 …帰ってやっと寝る。

 起きたら担当から電話で 「ボツ」 出される。 また一から考えてコンテ描いて出しに行く。

 やっとOKが出たらペン入れができる。

 締め切りに間に合わすため、とにかく限界まで起きてやる。

 数時間寝たら、目覚めてすぐペン入れ続行。

 1本終えたらすぐ次のコンテの繰り返し。

 土・日も祭日もいっさいなし。 病気で休んじゃいられない。

 指のタコはうずき

 腰は痛み

 円形脱毛症になり

 アゴの関節がはずれ

 ノイローゼになり

 それでも業者はわしに人気投票の結果をちらつかせて競争心をあおり、他の作家たちとの生存をか けた死闘へと駆り立てた。

 国はこれほど業者が作家の人権を無視して酷使し、莫大な収益を上げているのに何のチェックもせ

 それどころか血と汗と涙の結晶であるわしの収入から無情に税金を取り立てるのみだった。

 何人の 「漫奴隷」 たちがわしの目の前で病に倒れ、精神に異常をきたし、ボロボロになってつぶれて いったことか……


 何とか生き残っているだけでも大変なのに少し作品の勢いが減速すると

 読者   「 もう小林よしのりもダメになった 」

 読者   「 パワーダウンした 」

 ヒット作を描いていないと…

 読者   「 もう小林よしのりの時代じゃない 」

 読者   「 感性が古くなった 」

 ありとあらゆる批評・中傷罵り雑言…

 いっぱい客をとる作品を描いている時は、業者がごきげんとりつつガンガン描かせ

 客をとれん作品描いたらたちまち 「連載打ち切り」 の知らせがやってくる。

 編集者(電話) 「 次回で最終回ってことで ― 」

 利用されるだけ… ひたすら利用されるだけ……

 睡魔に打ち克つため、机の上にイスを置いて、その上に原稿を置いて、立って描き続けたこともあっ た。

 そこまでやっても社会的には
 「 たかが漫画家 」 「 しょせん漫画家 」
 差別される身分に変わりはない。

 『ゴーマニズム宣言』 を始めてからも

 「 たかが漫画家が世の中変えるってか? 」
 「 物語に戻れ 」
 「 日常に戻れ 」
 「 その作品やめろ 」

 ののしられ続けながら部落問題を描き
 オウムと戦い
 薬害エイズをやって
 まともに感謝されたことなど一度もない。

 殺すぞ 殺すぞ 殺すぞと脅迫され続け… 尾行され 暗殺されかかって……

 もう何も恐怖を感じなくなってしまった…

 [ みなさん 一体わしの人生ってなんでしょう? 「生きる自由」 すらないんですよッ!

  これ以上の奴隷がありますか?

  わしが 「広義の強制連行による漫奴隷」 であることは間違いない。

  「生きる自由」 すら許されていないのだから!

  わしに同情するなら、民間で募金するだけでなく

  国家が責任とって謝罪してほしいっ

  国がちゃんとしてないから、わしが命がけで描くことを余儀なくされてるんだから

  謝れ!

  どいつもこいつもわしに謝れっ

  金の問題ではないぞっ

  心からの謝罪を要求しているのだ ――― っ ]


 先日、髪を上げてジェルで固めようとしたら額のはえぎわに何本も白髪が…

 しかも、どれも同じ長さだ。 3センチくらいの。

 髪は1か月に1センチ伸びるというから、3か月前のストレスが原因だ。

 慰安婦問題から教科書問題をやってものすごい抗議を受け、あの朝ナマの一件でぶわっと
白髪が増えた。

 小林   「 フケたぜ……… 」

 カナモリはハゲ わしは白髪

 2人で復讐をしようと誓い合った。

 今まで 「たかが漫画家」 という差別に耐えてずっと黙ってきた

 しかし、「広義の強制」 があったとか 「完全な自由」 がなかったとか…

 そんなべらぼうな理論で国が謝罪するほどの被害者だというのなら

 小林   「 わしだって被害者になりたいっ! 」


   ごーまんかましてよかですか?


 人はみな広義の強制と制限された自由の中で生きている。

 したがって、その気になれば、かならず被害者になれる。

 - - - - - - - - - - - - - - - - - - 新ゴーマニズム宣言 第4巻からのテキスト引用ここまで - -

 30年程前に、親のコネで名古屋の製鋼所に就いた私の生活も 『事務奴隷』 でした。

 昼夜交代二勤制の現場に指示を出さなきゃ帰れないため、仕事の終了は早くても午後10時。

 工場の朝は早いので、翌朝6時には会社に着いて、夜勤者から工程進捗の状況報告を受けなくては なりません。 休日だって丸一日休める日は稀。 ほとんどは3〜5時間ほど出勤していました。 電気 炉でしたから夏はお盆休みの他に電力消費制限休暇とも言うべき休日が1週間くらいありましたが、実 際に休めるのは3日間くらい。 お盆休みも4日間の内、2日間も休めれば恩の字でした。 残業代 は、実働120時間以上に対して最大で30時間しか出ませんでした。

 そんな職場でも先輩方に言わせると随分と改善されていたらしく、昔は、休みなんて正月と盆に2日 間ずつ位が関の山だったそうです (本当かどうかわかりませんが)。

 意外にもそんな生活は長く続きませんでした。 就職から僅か2年後に、職員が一人抜けた父の会 社 (鉄材販売店) へ呼び戻されました。

 父の会社での私の立場は、肩書きこそ “専務” でしたが、実質は 『事務奴隷 兼 現場奴隷』 とでも 言うべきモノでした。

 事務所で電話の受話器を耳にあてがいつつ、伝票を書いて書いて書きまくる事務処理以外に、2トン トラックや4トントラックで、自分の得意先へ鋼材を配送しました。

 労働時間は、製鋼所での 『事務奴隷』 よりも短くなりましたが、『現場奴隷』 の仕事が肉体労働だっ たため、辛さは大して変わりませんでした。

 阪神大震災で得意先へのアクセスルートが断たれた際には、10トン以上の大型車にしか日中の通行 許可が下りませんでしたから、私は通行規制の解かれる午前3時に武庫川の関を通って神戸へ入り、 得意先の倉庫へ行って、独りで荷を降ろして、同日の午前6時までに武庫川の関を通過して戻ってくる という強行配達を行いました。 午前1時起床で、その日は普通に丸一日勤務。 今やったら過労でブ ッ倒れると思います。

 そんな父の会社も十年以上前に畳むことになり、今は施設の事務員。

 この職場だって、30年前の 『事務奴隷』 や、父の会社での 『事務奴隷 兼 現場奴隷.』 に比べれば極 楽天国ですが、それでもまだまだ温いながらも 『事務奴隷』 です。
 仕事の内容こそ比べ物にならない位に楽ですが、朝は6時半に家を出て、家に帰ってくるのは午後8 時過ぎ。
 さらに、休日の半分は、親父が畳んだ鋼材店の仕事で潰れます。

 もちろん私に辞める自由はあります。

 しかし、特別な職能も資格も持たない私が52歳の今に職を失ったら路頭に迷います。

 父が遺してくれた資産のおかげで幾らかは不労所得がありますが、その金額では今の生活を維持す ることは不可能です。

 女房と子供に日本人の平均以上の生活をさせるために、私は転職や退職・廃業の自由を奪われて、 今日も明日も寿司詰めの満員電車に揺られて出社するのです。

 奴隷状態で○○労働を強制された人が、○○奴隷だというなら、小林よしのり氏が自身の事を 『漫 奴隷』 と称したように、日本中の社会人が何らかの 『○○奴隷』 に認定されるでしょう。

 程度の差こそあれ、殆どの社会人が人身を拘束され、自由を奪われた労働者なのです。

 重要な企業秘密に関わる仕事をしている人や、いつでも職場に緊急で駆け付けられなければならな い人に、居住の自由なんかありません。 そんな人達は、当然のように雇い主の指定する住居に住ま わされ、移動の自由のない状態を受け入れています。

 よほど優秀な職能を有している人や滅多にないスペシャリティな資格を有している人でない限り、転 職の自由はありません。 気に入らないことがある度に、机を蹴飛ばして退職するような人は何処の会 社も雇わないでしょう。

 テレビに出演する様な資産持ちなら、退職も廃業も自由でしょう。 仕事なんかしなくても食べて行け るのですから。 でも、そんな人はホンの一握り。 殆どの人は、就職活動で何社も何社も応募して、や っと拾ってもらえた会社で、自由を奪われて、いやでもそこで働かされているのです。

 サヨクの定義に従うなら、学生すらも好きな教室を選ぶ自由を奪われ、いやでもそこで勉強させられ ている 『学奴隷』 です。

   人身を拘束され、自由を奪われた労働者が奴隷。

 だというのであれば、反日活動や反社会活動,全世界一斉蜂起による共産革命の準備だけで何処 からか資金が舞い込んでくるサヨクを除く全ての日本人が何らかの 『奴隷』 です。

 いい加減に理解しましょう。



 さて、慰安婦は奴隷ではないという意見があります。
 なぜならば、とその人たちは言います。

 慰安婦は自ら志願している。
 慰安婦は高い給料を得ていた。
 慰安婦は借金さえ返せば帰国できた。
 慰安婦は接客を拒む権利さえあった。

 この言い分を、仮に事実だとしましょうか。
 それなら、慰安婦の労働条件は奴隷でなかったと言えるのか、
 このことについて、江戸時代の花魁(おいらん)と対比して考えましょう。

 江戸時代、吉原などで、売春営業が公認されていました。
 吉原の女郎には、それなりの給与が出ており、接客を拒む権利が認められおり、
 借金を返せば廃業を認められていました。
 この待遇は慰安婦と同じです。
 彼女たちは奴隷だったのでしょうか。 そうではなかったのでしょうか。
 
 明治5年、できたばかりの維新政府は、吉原の花魁のことを、「牛馬に異ならず」と評しました。
 明治5年『芸娼妓解放令』に合わせて出された「司法省達」です。
 原文を末尾に資料として転載しておきます。
 現代語になおせば、つぎのように書かれていました。

 「娼妓・芸妓は人身の権利をなくした者であって、牛馬と同じことである。」

 当時は奴隷という用語がまだない時代ですが、
 「牛馬に異ならず」という表現が、奴隷状態であるという認識を示しています。
 どうして「牛馬に異ならず」なのか。

 どんなに貧しくても、身体だけは本人のものです。
 借金でその身体の自由さえ失った状態は、人としての最後の自由を失った状態であり、
 牛馬と変わらない存在だということです。
 人としての最後の自由を失った状態、すなわち、奴隷です。

 吉原の花魁が借金で縛られた身分で「牛馬と異ならず」なら、同じように借金でしばられ、
 待遇も花魁と似ていた慰安婦だって「牛馬と異ならず」だったといえます。
 普通の年季奉公は、前借金でしばったりしないので、ただの有期雇用契約です。
 この点を混同してはなりません。

 こういうことで、慰安婦を性奴隷とみなすのは不当ではありません。

 

 なぜ

   「娼妓・芸妓は人身の権利をなくした者であって、牛馬と同じことである。」

 という発言が出て来たのか?という点に疑問を馳せれば、実際に吉原の女郎が人権を奪われた存 在だったのか、それとも、人権を奪われたことにする必要があったのか、が理解できます。

 

   webサイト『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責任』 を斬る
   Q&A - 0 何が問題か 「慰安婦」制度と公娼制 - 3 公娼制度は当たり前だったか? を斬る
   http://keibow001.dousetsu.com/page014.html

   《略》
   >
   > 「芸娼妓解放令」
   >
   > こうした身売りの慣習については、近代初頭から多くの人々が批判してきました。
   > すでに1872年には、マリア・ルーズ号事件を直接的発端として、
   > いわゆる「芸娼妓解放令」(太政官布告第295号,司法省令第22号)が発令され、
   > 芸娼妓の解放がうたわれました。
   > これは、横浜港に停泊していたペルー船マリア・ルーズ号に乗せられ、
   > 売り飛ばされようとしていた清国人が逃亡したことに端を発しています。
   > この事件を裁くこととなった日本の神奈川県令大江卓に対して、
   > ペルー船船長側の弁護人は、
   > 日本の娼妓はもっと拘束的な契約を結ばされているではないか,
   > と指摘したのです。
   >
   > こうした批判を回避して文明国の体裁を整える必要もあり、
   > 日本は奴隷に等しい娼妓を解放する布告を出したのです(太政官布告295号)。
   >
   [ 画像:異議あり! ]
   >
   > 異議あり!というか、もうちょっとちゃんと書きましょう。
   >
   >  wikipedia「マリア・ルス号事件」
   >  http://ja.wikipedia.org/wiki/マリア・ルス号事件
   >
   >  1872年7月9日、中国の澳門からペルーに向かっていたペルー船籍の
   >  マリア・ルス(Maria Luz マリア・ルズと表記する書籍もあり)が
   >  横浜港に修理の為に入港してきた[1]。
   >  同船には清国人(中国人)苦力231名が乗船していたが、
   >  数日後過酷な待遇から逃れる為に一人の清国人が海へ逃亡し
   >  イギリス軍艦(アイアンデューク号)が救助した。
   >  そのためイギリスはマリア・ルスを「奴隷運搬船」と判断し
   >  イギリス在日公使は日本政府に対し清国人救助を要請した。
   >
   >  そのため当時の副島種臣外務卿(外務大臣)は
   >  大江卓神奈川県権令(県副知事)に清国人救助を命じた。
   >  しかしながら日本とペルーの間では当時二国間条約が締結されていなかった。
   >  このため政府内には
   >  国際紛争をペルーとの間で引き起こすと国際関係上不利であるとの意見もあったが、
   >  副島は人道主義と日本の主権独立を主張し、
   >  マリア・ルスに乗船している清国人救出のため法手続きを決定した。
   >
   > まず、日本は義憤によって清国人苦力(下層労働者)を救出しようとしたのだ。
   >
   >  マリア・ルスは横浜港からの出航停止を命じられ、
   >  7月19日(8月22日)に清国人全員を下船させた。
   >  マリア・ルスの船長は訴追され神奈川県庁に設置された大江卓を裁判長とする
   >  特設裁判所は7月27日(8月30日)の判決で
   >  清国人の解放を条件にマリア・ルスの出航許可を与えた。
   >  だが船長は判決を不服としたうえ清国人の「移民契約」履行請求の訴えを起こし
   >  清国人をマリア・ルスに戻すように訴えた。
   >  この訴えに対し2度目の裁判では
   >  移民契約の内容は奴隷契約であり、人道に反するものであるから無効である
   >  として却下した。
   >
   > そして裁判所は、苦力に対する移民契約は奴隷契約であるとして
   > 苦力をペルーに渡さなかった
   >
   > そうしたら
   >
   >  また、この裁判の審議で船長側弁護人(イギリス人)が
   >  「 日本が奴隷契約が無効であるというなら、
   >   日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、
   >   悲惨な生活をなしつつあるではないか。 それは遊女の約定である 」
   >  として遊女の年季証文の写しと横浜病院医治報告書を提出した。
   >  日本国内でも娼妓という「人身売買」が公然と行われており、
   >  奴隷売買を非難する資格がない
   >  とのこの批判により日本は公娼制度を廃止せざるを得なくなり、
   >  同年10月に芸娼妓解放令が出される契機となった。
   >
   > お座敷遊びで芸娼妓の帯を引っ張って「あ〜れ〜」くるくるくる、ってヤツを
   > 劣悪な環境で過酷に扱き 使う奴隷労働の引き合いに出してきたのだ。
   >
   > 今現在の慰安婦問題を見て分かる通り、金の力や腕力によって
   > 男性が女性を性的に従える事に対する欧米社会の反応は異常である。
   > これは欧米に於けるレイプ犯罪がアジア諸国とは比較に成らな い位に多いからなのだが、
   > いずれにせよ性暴力と見做されたら弁明を聞く耳は持って貰えない。
   >
   > ふたつ前のページで触れた
   >
   >  2011-12-19 木走日記
   >  [政治]「従軍慰安婦問題で日本が政治的に勝利することはない」
   >  〜マイケル・グリーン氏の4年前の忠告
   >  http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20111219/1324269081
   >
   >  この問題を解く鍵は歴史的事実の徹底的な検証だと考えます。
   >
   >  《中略》
   >
   >  ただし、重要なことは歴史的事実を検証すべきは学者であり
   >  政治家ではないということです。
   >
   >  この従軍慰安婦の問題は政治問題化すべきではありません。
   >
   >  《中略》
   >
   >  慰安婦問題が政治問題化しても、それによって同情をされるのは
   >  強制があってもなかっても被害者女性だけであり、
   >  日本が政治的に勝利することはないからです。
   >
   >  実はこの従軍慰安婦の問題は学者にゆだね、
   >  政治家はタッチしないほうが日本のためであるという意見は、
   >  私のオリジナルではありません。
   >
   >  マイケル・グリーン元米国国家安全保障会議(NSC)アジア上級部長が
   >  4年前日本の新聞のインタビューで示した冷静な発言があります。
   >
   >  《中略》
   >
   >  リンクはありませんが、2007年3月4日付けの読売新聞紙面から
   >  当該部分を抜粋して紹介しましょう。
   >
   >    マイケル・グリーン氏に聞く 「慰安婦」歴史家に任せよ
   >
   >    (中略)
   >
   >     −−−米下院では、民主党のマイケル・ホンダ議員らが
   >         慰安婦問題で日本に公式な謝罪を求める決議案を提出し、
   >         外交委員会の小委員会で公聴会が行われた。
   >
   >    「 米議会がこの問題に関与するのは大きな間違いだ。
   >     特に外交委員会は、北朝鮮の人権侵害、台頭する中国の挑戦など、
   >     対応すべき問題が山積している 」
   >
   >
   >     −−−日本政府は公式に謝罪しているにもかかわらず、
   >         決議が繰り返し米議会に提出されるのは、なぜか。
   >
   >     「 韓国系の住民の多いカリフォルニア州出身議員らが推進しているからだ。
   >      反日、反米、親北朝鮮の民間活動団体(NGO)などが絡んでいることもある 」
   >
   >
   >    −−−自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が
   >         河野官房長官談話の見直しを議論しているのをどう受け止めるか。
   >
   >    「 仮に決議案が採択されたとしても、
   >     米国の日米同盟に関する政策に与える影響はゼロだ。
   >     米メディアの報道も今のところ低調だ。
   >     しかし、日本が反発すれば事態は悪化する。
   >     共和党や民主党の一部議員が、決議案の問題点に気づき、
   >     修正や廃案をめざして動き始めたが、日本の政治家が反発すると収拾が難しくなる。
   >     日米とも政治家がこの問題に関与すれば国益を損なう。 歴史家に任せるべきだ 」
   >
   >
   >    −−−安倍首相は
   >         「(旧日本軍の)強制性を裏付ける証拠は無かったのは事実だ」
   >         と発言している。
   >
   >    「 安倍政権の外交政策、特に国連での対北朝鮮制裁決議採択や、
   >     中韓との関係改善に向けた首相の指導力は、ワシントンでも高く評価されている。
   >     ただ、慰安婦問題は、高いレベルが政治介入すればかえって複雑化する。
   >     強制性があろうとなかろうと、被害者の経験は悲劇で、現在の感性では
   >     誰もが同情を禁じ得ない。
   >     強制性の有無を解明しても、日本の国際的な評判が良くなるという話ではない 」
   >
   >
   >    −−−昨秋、下院で開かれた公聴会で靖国神社問題について証言し、
   >         日本の立場に理解を示したが、この問題では批判的なのか。
   >
   >    「 慰安婦問題で議会に呼ばれたら、残念ながら日本を擁護できない。
   >     靖国問題と慰安婦問題は違う。
   >     どの国にも戦争で亡くなった英霊に敬意を表す権利があり、
   >     中国に介入する権利はない。
   >     クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』がヒットしたのは、
   >     米国人だけでなく日本人の犠牲者に対する同情を呼んだからだ。
   >     しかし、慰安婦問題で同情されるのは被害者女性だけで、
   >     日本が政治的に勝利することはない 」
   >
   >   2007年3月4日読売新聞紙面4面より 抜粋引用
   >
   > である。
   > 女性の人権問題になると加害者(?)の言い分が全く理解して貰えなくなるのは、
   > 何も日本 のキチガイジェンダーの専売特許じゃなくて、
   > 欧米も同じように(或いは日本以上に)、キチガイなんで す。
   >
   > で、芸娼妓解放令に至っちゃうワケですわ。

 つまり、奇しくもwebサイト『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」 ― 忘却への抵抗・未来の責任』が

   > こうした批判を回避して文明国の体裁を整える必要もあり、

 と書いている通り、日本政府は自らを“公娼なんか抱えていない文明国”に見せ掛ける為に、『芸娼妓 解放令』を出す必要があったのです。
 しかし、江戸時代から連綿と続く遊女たちは、今の性風俗なんかと違って小金で簡単にセックスでき る対象ではありませんでした ―― 特に花魁は、今のAKB48なんて目じゃないアイドルでしたから、彼 女達を開放するには名目が必要でした。

 そのための

   「娼妓・芸妓は人身の権利をなくした者であって、牛馬と同じことである。」

 という発言でした。

 もちろん、遊女とは股を開いて天井の染みを数えるだけの簡単なお仕事だった、とは言いません

   9.遊女の一生
   http://home.a05.itscom.net/hotaru/page168.html

   《略》
   >
   > 遊女の務めは 「苦海十年(苦界とも書く)」 と呼ばれ、十八歳から二十七歳くらいまでが
   > 吉原で遊女として商売できる期間である。
   > この期間に、身を売った代金、つまり身代金を働いて返さねばならない。
   > これに加えて、前述のように借金が加算されていく仕組みになっており、馬車馬のごとく
   > 働かされる。
   > 遊郭の掟や慣例も遊女たちを苦しめた。
   > その掟の見張り役が、遊女上がりの遣手たちである。
   > 遊郭の一ばんの掟は、見世の若い衆と遊女が男女の仲になってはいけないというものだ。
   > 見世側とすれば、商品に手をつけられてはその商品が働かなくなる。
   > つまり、若い衆といい仲になると、その遊女が客を取りたがらなくなるのである。
   > この関係が深くなってしまうと、やがて手に手を取り合って
   > 遊郭から逃げ出すということも起こる。
   > いわゆる駆け落ちだが、見世側としては、黙って見逃すわけにはいかない。
   > 吉原の地回りなど大勢を使って二人を見つけ出すのである。
   > 見つけ出された男はほとんどの場合殺されてしまった。
   > 遊女は吉原へ連れ戻され、凄惨な折檻を受けることになる。
   > 殺してしまえば商品としての価値がなくなってしまうが、
   > それでも他の遊女たちへの見せしめの意味もあり、命を絶たれてしまう遊女もいた。
   >
   > 遊女が苦海から抜け出る方法は三つしかなかった。
   > 一つは年季奉公を勤め上げた、いわゆる 「年明き」 で遊女から足を洗う場合。
   > 二つ目は、金のある客に見初められて 「身請け」 される場合。
   > そして三つ目が死んだ場合。
   > 吉原の年明きは二十八歳なので、この年になった遊女は見世から暇を出される。
   > 中には遣手として見世に残る遊女もいたが、多くは吉原の外を望んだ。
   > 吉原を出た遊女は、年明きになったら一緒になろうと約束していた男と所帯を持ったり、
   > そのまま吉原以外の色里・岡場所に行く女もいた。
   > 客に身請けされるのが遊女の幸せといわれるが、なかなかそんな客は現れない。
   > 特に太夫クラスの上級遊女になれば、身請け金は膨大な額だったのである。
   > もともとの身代金に加え、これから働いて稼ぐであろう金額、これまでの借金、
   > 見世や周囲の人間に出す祝い金など、合計すると何百両にもなる。
   > このような大金をぽんと出すのは、大名や大商人以外は不可能である。
   > 中級あたりの遊女でも、やはり百両前後はかかったという。
   > ランクが下がれば身請け金も下がるが、宵越しの金は持たねぇと突っ張る江戸っ子には
   > 数十両のまとまった金は調達不能だろう。
   > それでも、中にはコツコツお金を貯めて、身請けした町人もいたようである。
   > 死ぬほど辛い苦海・吉原では、実際に死んだ遊女の数は知れない。
   > 粗末な食事で馬車馬のように働かせ、体力は消耗する一方だが、
   > さらに病気が追い打ちをかけた。 遊女たちが一ばん恐れた病気が梅毒であった。
   >
   > 梅毒はもともと西インド諸島の風土病で、コロンブスが西インド諸島に到達し、
   > スペインに帰国した際、その船員たちがヨーロッパに運んだといわれている。
   > シャルル八世のナポリ攻撃以来ヨーロッパから世界に広がり、日本にも十六世紀の半ば
   > 南蛮船の来航によって上陸した。
   > ちなみに日本の文献にはそれよりも前、1512年に 「梅毒」 という言葉が登場している。
   > 当時梅毒は、「かさ」 などと呼ばれていた。
   > 感染すると感染部におできのようなかたまりができ、これがかさぶたのようになるからである。
   > この 「かさ」 が潰れると、痛みを伴うがしばらくすると治ってしまう。
   > 実際は一次症状が収まって潜伏しているだけであるが、当時の医学知識では
   > これで治ったと思っていた (治ってしまう場合もあったが)。
   > 一度 「かさ」 にかかって治った (と思っている) 遊女は、二度と梅毒にかからないとされ、
   > 客の方でも病気のない遊女として認知された。
   > 見世からも一人前の遊女として扱われ、遣手は客にどんどん勧めた。
   > おまけに病気が潜伏している影響か、妊娠しにくい身体になっているから、
   > 見世としては大変重宝した。 こうして、梅毒はどんどん広がっていったのである。
   > 客の方でも、梅毒にかかることは一種のステータスで、遊びを極めているという目で見られた。
   > 何年か後、再び症状が現れると、今度は皮膚にゴム状の腫れ物が出て、
   > その部分の肉が落ちる。 鼻が落ちるといわれる梅毒の症状はこの時期だ。
   > やがて神経系が冒され、死に至る。
   > こういう症状が出ると遊女としての価値はなくなり、吉原を追い出されたり、
   > 生きたまま投げ込み寺へ捨てられたという。
   > 悲惨な結末が遊女を待っていたのである。 
   >
   > 梅毒とともに遊女を悩ませたのが妊娠だった。
   > 妊娠は遊女の恥とされ、さまざまな避妊法を用いたが、
   > 当時の知識では妊娠は避けられない出来事だった。
   > 当然見世側とすれば中絶させたが、この手術も原始的なもので危険極まりないものだった。
   > 中条流というのが堕胎専門医師の看板で、中絶に失敗して命を落とす遊女も多かったという。
   > 堕胎できずに子供を産んでしまった場合もあった。
   > この場合は、見世の子供として育てられ、女の子なら遊女の道へ、
   > 男の子なら見世の若い衆として将来は決められた。
   > まさに、吉原生まれ吉原育ちの遊女もいたわけである。

 これが生き地獄かどうかと問われれば、少なくとも今の感覚で言えば生き地獄なのは間違いないでし ょう。

 しかし、遊女で居れば ―― 全日本レベルでの大飢饉でも起きない限り ―― 飢え死にすることはそ うそうありません。

 「 何かに付けて圭坊は“飢え死”を盾に使う 」 と思われるかも知れませんが、事実、日本人が飢えな くなったのは、つい最近の事で、それまでは、飢え死は貧乏人にとってありきたりの “ 死 ” でした。 貧 乏人の背中には365日、『飢え死』 という名の死神が張り付いていたのです。 そういう時代でした。

   日本における飢饉の歴史
   http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=347618517

   > 日本の歴史は飢饉の歴史、日本人が食料を満促に食べれるようになったのは、つい40年前。
   > コメが余るようになったのは、戦後も20年以上過ぎた昭和46年でした。
   > それは農家と農業関係者のたゆまぬ努力の賜です。
   >
   > 「飽食の時代」 と言われて久しくなった今、またTPPなどと言うのが騒がしくなった今、
   > 日本における食料の歴史、飢饉の歴史をふりかえってみましょう。
   >
   > 江戸時代の飢饉もさることながら昭和に入ってからも東北地方は冷害と飢饉に襲われた。
   > ( 東北大凶作 )
   > 稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて食べたという。
   >
   > 宮沢賢治の 「雨にも負けず風にも負けず] も、この時の手帳に残されたメモ。
   > これは亡くなってから発見されたものだが、この東北大凶作に依って
   > 多くの娘の身売りなどが大きな社会問題になった。
   > この 「東北大凶作」 は太平洋戦争に至る遠因ともいわれる。
   >
   > その後も、昭和40年代頃まで、コメ不足が続いた。
   >
   > 岩手の農業試験場で何十年もかけて何千種類もの品種改良がなされ 「藤坂五号」 という
   > 冷害に強い品種ができた。 それが昭和40年代後半だった。
   >
   > やませの発生による冷害を主因とする東北地方の凶作は、江戸時代には天明の大飢饉、
   > 天保の大飢饉をもたらしたが、明治時代以降でも1872年(明治5年)、1902年(明治35年)、
   > 1905年(明治38年)、1910年(明治43年)、1913年(大正2年)、1921年(大正10年)、
   > 1931年(昭和6年)、1933年(昭和8年)と断続的に発生した。
   > 飢饉は昭和時代まで多発したが、とくに1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)にかけて
   > 発生した飢饉は、日本史上最後の飢饉といわれている。
   >
   > 昭和恐慌(1930年-1931年)期の飢饉は、
   > 都市部の大失業と所得減少、都市住民の帰農による人口圧力などによって
   > 農村経済は疲弊、農家の家計は窮乏化し、東北地方や長野県などでは女子の身売りが
   > 起こり、欠食児童が続出した。
   > これは、世界恐慌からはじまるブロック経済の進展などもあいまって、
   > 満州事変につながる背景ともなった。
   >
   >
   >
   > 「飢餓日本史」(中島陽一郎著 雄山閣 1976年刊) という書籍がある。
   > 飢餓の歴史を丹念に追った研究所である。
   > 先行研究を綜合した中島氏の分類に従えば、この一千年間に 「十六大飢餓」 というものが
   > あるという。
   >
   >  「飢餓日本史」 の中に、飢えの現場をレポートした紀行文が紹介されている。
   >
   >  「 飢えの年のことを訪ねると、・・・幼児を生きたまま川に流すものが多かった。
   >   人が(飢えで)死ぬと、山の木立の下に棄て、あるいは野外にそのまま棄て、
   >   川へ流したりする。
   >   イノシシ、シカ、イヌ、ネコ、ウシ、ウマを食い、また人を喰うものもでる始末だ。
   >   子が親の屍(しかばね)を、土葬するのだが、
   >   その余りを(喰らい?)皆、埋めるということはしない。
   >   いったん埋めたものを掘り起こして喰うものもいる。
   >   山中でも野外でも放置された屍を喰らうものがいた。
   >   煮たり、焼いたり、あるいは生のままでも喰う。
   >   ・・・ 自分の子どもを殺して喰ったというものもいた。
   >   まさに人ではあるが鬼のような有様だった。
   >   この村でも二十軒ほどが死に絶え、生き残ったものは半数に過ぎない。
   >   十軒や七、八軒の小さな村には、ひとりも残らず死に絶えたところもある。
   >   とにかく、(飢えて)人の肉を煮ている時、(煮こぼれて)水滴が火中に飛び、
   >   たちまちジュと燃え上がるのは、人の肉の油によるものだが、
   >   これに過ぎる(怖ろしさは)ないというものだ。 」
   >
   > (前掲167頁 高山彦九郎「北行日記」八戸藩久慈大野の記述より。 現代語訳は佐藤弘弥)
   >
   > 怖ろしい記述である。
   > この時の飢饉で、この八戸藩領内だけで、六万の領民の内の半数以上となる
   > 三万百五人が飢餓とそれに付随して起きた疾病が原因となって、命を失っているのである。
   > この時、領内の治安は著しく悪くなって盗賊なども横行し、
   > 人心はすこぶる荒れてしまったことはいうまでもない。


   < 娘身売りの時代 >  昭和初期・東北地方
   http://www.asyura2.com/0601/ishihara10/msg/470.html

   > 投稿者 染川瀝青 日時 2007 年 4 月 25 日 02:28:50: OrTq7AIvkoYi.
   >
   > 河北新報
   > http://www.kahoku.co.jp/spe/spe059/19991125tk.htm
   >
   > 特 集
   > 時よ語れ 東北の二十世紀
   >
   > ( 22) わかれっぱ/壱千参百円 望郷の念売り払い 苦界に沈む
   >
   > 古い和紙の分厚い帳面に出合った。
   > 「 10年ほど前だ。 古道具屋の棚に、無造作に積んであった 」
   > と、仙台の庶民史研究家である持ち主も偶然に見つけた品だ。
   > 帳面には20数人の女性の名前が並ぶ。 東北6県の村の出身者。
   > 昭和恐慌や大凶作で東北が疲弊した1920−30年代(大正末−昭和初め)、
   > 村から 「売られてきた」 娘たちと、遊郭のある楼主との、生々しい証文(契約覚書)だった。
   >
   > 「 壱千(いっせん)参百(さんびゃく)円也(なり)
   >  正金貸(まさにかねかす) 但(ただし)無利子 稼業所得ヲ以(もっ)テ返済ノ約
   >  契約方は満5年トス 玉代(水揚げ)ハ楼主5分本人5分ノ割合 」
   >
   > 「 当時、仙台では1000円で2階建ての家を買えた 」
   > という。
   > 証文では女性本人が借用人。
   > だが、現実には農家である親が楼主から大金を借り、その形として娘を遊郭で働かせ、
   > 肉体と心を犠牲にした稼ぎで返済させた。
   > 親は 「連帯人」、本家や地主が 「保証人」 に名を連ね、契約を破れば全員が責任をかぶる。
   > 親思いであればあるほど、娘をがんじがらめにする契約だった。
   > 「 人身売買である 」 とGHQ(連合国軍総司令部)は46年(昭和21年)、
   > 娼妓(しょうぎ)解放を指令したが、遊郭は12年後の売春防止法施行まで存在した。
   > 中でも仙台の遊郭は 「三十三楼、娼妓300人」。
   > 東北一のにぎわいは農村の陰画だった、と古い証文は物語る。
   >
   > 高齢者と兼業農家の多い、のどかな北の村。
   > 「 昔、ここは水利の悪い小作村でな 」
   > と寺の住職は話す。
   > 「 条件のいい田んぼはみな大地主のもの。
   >  マッカーサーの農地解放と、農業用ポンプによる開田のおかげで、
   >  ようやく自作農の村になった 」。
   > こんな話が伝わる。
   > 子供のいない地主から、ある小作人に
   > 「 娘を“奉公”に 」
   > と話があった。
   > 「 男を産んだら田んぼを1枚やる 」
   > という。
   > 娘は奉公に行き、1年後に女の子が生まれた。
   > 娘は地主の家を出されて、迎えの衆に赤ん坊を預けて夜道を帰った。
   > が、村に着くころ、元気だったはずの赤ん坊が 「死んでいるぞ」 と聞かされた。
   > 娘は泣き叫んだが、死んだ赤ん坊はそれきり消え、村の話題に上ることもなかった。
   > 凶作続きで小作料も払えなかった昭和初めには、娘の身売りがあった。
   > 「 村人はだれも口にしない 」
   > と住職。
   > だが、記憶を捨てることができないのも人間だ。
   > 「 ○○日の仏、供養してくだされ 」。
   > こう言って、ぽつんとお参りにくるばあちゃんがいた。
   > 過去帳をめくっても見つからない仏。
   > 住職はそれが、母親だけが忘れずにいる、娘を売った 「命日」 とだれからともなく知り、
   > 黙って拝んできた。
   > 「わかれっぱ」 と、昔から呼ばれる場所がある。 一本杉や地蔵が残る分かれ道だ。
   > 「 おんちゃんに、いい物を買ってもらえる 」
   > と聞かされた無邪気な娘が、親と一緒に 「わかれっぱ」 まで来て、
   > そこからは見知らぬ“おんちゃん”と2人きりで村と別れる。
   > 遊郭への周旋人と知るよしもなく。
   >
   > マンションや商店が立ち並ぶ、仙台の街の一角。
   > 遊郭があったと想像するのも難しく、道で途方に暮れていると、駄菓子屋の奥から
   > 「 お茶っこ飲んでがい 」。
   > 間もなく創業100年という亀谷まさ子さん(81)の店では
   > 「 昔は郭(くるわ)の女衆に反物や白足袋を売ってた。 毎日、お茶飲みをしたもんだ 」。
   > 遊郭は1つの町のように大門があり、夏には各楼が景気良さを競う七夕祭りや盆踊り。
   > だんな衆や大漁祝いの船乗り、兵隊も来た。
   > 茶飲み友達には、同じ年ごろの姉妹がいた。
   > 「 同情したけれど、恨みつらみは聞かなかった。
   >  見栄でも張るくらい強くならなきゃ、生きていけなかったんだ 」
   > 亀谷さんは、大騒ぎになった事件を覚えている。
   > 借金を払いきれず、その立て替えを条件に関西に 「くら替え」 (再身売り) が決まった
   > 女性が遊郭を抜け、鉄道の高い鉄橋から恋人と身を投げた。
   > 「 道行きの汽車の中で、遊郭の女の印である日本髪をほどいていたんだと。
   >  古里と別れ、好きな人とも別れ …。 そんな人生がいやだったんだべもな 」
   >
   > 近くの寺で 「仙台睦(むつみ)之墓」 という19044年(明治37年)建立の大きな墓石を見た。
   > 住職によれば、10年ほど前の墓地整理で下を掘ると、
   > 「 一抱えもある石棺が現れ、累々と無縁の骨が詰まっていた 」。
   > 楼主たちが建てたという墓の裏には、なぜか 「慈照妙喜信女」 の戒名がたった1つ。
   > 名も数も知れぬ女たちが遊郭に生き、死んでいった。
   > 亀谷さんのお茶飲みは、遊郭が消えた後も続いたという。
   > 「 そのまま近くに住み着いた女の人たちでね。
   >  長く体を痛めたから子宝はできなかったけど、
   >  好きな人と所帯を持って八十まで長生きして、みんな仏さんのところに行っちゃった 」
   > 帰りたかった古里を、「わかれっぱ」 が永遠に隔ててしまったのだろうか。
   >
   > ( 文・寺島 英弥 / 写真・門田 勲 )
   >
   >  < 娘身売りの時代 >
   >  世界恐慌 ( 1929年=昭和4年) のあおりで、輸出品だった東北の生糸の値が3分の1、
   >  コメも半値に暴落。 重い小作料にあえぐ農村の娘身売りが急増した。
   >  「青森県農地改革史」 によると、特に大凶作があった34年、農家一戸平均500円以上の
   >  借金を抱える町村が百を超え、
   >  「芸娼妓(げいしょうぎ)に売られた者は累計7.083人に達した」。
   >  山形県内のある女子児童は
   >  「 お母さんとお父さんは毎日夜になるとどうして暮らそうかといっております。
   >   私がとこにはいるとそのことばかり心配で眠れないのです 」
   >  と書いた。
   >
   > http://www.asyura.com/0601/ishihara10/msg/470.html


   忘れていませんか、飢餓地獄の歴史を
   http://www.pref.akita.jp/fpd/rekishi/rekishi-index.htm

   > 昭和恐慌とあいつぐ凶作で被害を受けた村の実態を
   > 「凶作地帯をゆく」(昭和9(1934)年10月26日付け秋田魁新聞)と題する現地レポートには
   > 次のように記されている。
   >
   >  「 秋晴れの鳥海は清らかな山姿を、紺碧の空にクッキリ浮かせている。
   >   しかし、山裾にある町村は、未曾有の凶作に悩み、
   >   木の実・草の根、人間の食べられるものは全部刈り取り掘り尽くし、
   >   米の一粒だに咽喉を通すことのできぬ飢餓地獄にのたうつ惨状、
   >   秋田県由利郡直根村百宅部落のごときは、空飛ぶ鳥類さえ斃死したかと思われ、
   >   400名の部落民からは生色がほとんど奪われ、
   >   天に号泣し地に哀訴の術も空しく飢え迫る日を待つのみの状態である。
   >
   >   同部落は戸数100戸、作付け反別80町歩、これは冷害のためほとんど全滅だ。
   >   同分教場には90名の児童を収容しているが、欠食児童は3割に当たる30名、
   >   欠席者は非常に多く、1日平均20名、また早引きするものもかなり多い。
   >   これは家人の働きに出た後の留守居や、でなければ山に入って
   >   栗・トチ・山ぶどうなどの木の実、山ゆり・山ごぼう・フキなどの草の根・木の葉を
   >   集めるために欠席する。
   >
   >   糧食なくして何の教育ぞやの感を深くさせられる。
   >
   >   垢に汚れたヨレヨレのボロ着にまとった赤児をおんぶして、授業を受ける児童の多いこと、
   >   一人泣き出せば又一人、背の赤児はまだしも自分でもママ末に負えなくなって
   >   泣き叫ぶ子守りもいる。
   >
   >   こうした名目ばかりの義務教育を終えて、やっと15,6になると、
   >   雀の涙ほどの前借金で丁稚とか酌婦に売り出される。
   >   生まれ落ちて布団もろくろくないワラの中に育ち、
   >   食うや食わずにやっと6年を終えたら、知らぬ他国に涙の生活、
   >
   >   彼ら山間奥地の住民は、永劫に光を持たぬ運命を約束されてきた。 」
   >
   >
   > 売られゆく娘たち
   >
   > 凶作が決定的となった昭和9年、県保安課がまとめた娘の身売りの実態によると
   >
   >  「父母を兄弟を飢餓線より救うべく、悲しい犠牲となって他国に嫁ぐ悲しき彼女たち」
   >  の数は、1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍にも増加している。
   >  身売り娘が多かったのは、秋田の米どころと言われる雄勝・平鹿・仙北三郡であった。
   >  娘の身売りは人道上のこととして、大きな社会的関心を呼び、
   >  これを防止しようと身売り防止のポスターを作って広く呼びかけた。
   >
   >  しかし、小作農民の貧しさの根本的解決がない限り、娘の身売りの根絶は困難であった。
   >
   
   

 このような、まさに生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていた女性に対して、( または、その女性の 親や夫に対して ) 業者は娼妓や芸妓,遊女,慰安婦という名の売春婦になるかどうかの選択肢を迫っ たのです。

 しかも、契約内容は、今の感覚から言えば酷い物でした。

 だから、それをして 「 こんな酷い人身売買を看過した日本政府は許せない 」 という意見は、―― 今 の感覚に従う限り ―― 極めて正当な主張です。

 しかし、もし日本政府が 「 悪徳業者の人身売買赦すまじ 」 とばかりに、双方同意の上で取り交わさ れた契約に基づいた人身売買を徹底的に取り締まったとしたらどうなったでしょうか。

 売春をさせられずに済んだ娘や妻は、家族の下へ帰って幸せに暮らしたでしょうか。

 無理です。

 そもそも、無学で農業以外に就労経験のない女性が、飢えた家族に飯を食わせられるだけの稼ぎを 得る方法なんて、売春以外にありません。 結局のところ、管理売春婦が売春業者の手から放たれて も、売春ぐらいしか金を稼ぐ手段はないのです。
 脳味噌お花畑なバカサヨクは、「 挺身隊がやっていたような簡単な仕事に十分な対価を 」 と妄言を 吐きますが、そんなことは不可能です。
 同じ仕事に異なる賃金は差別ですから、挺身隊にもちゃんとした対価を払わねばなりません。
 そうすると挺身隊如きには出来ない難しい仕事をしている人には莫大な対価を払わなくてはならなく なって財政が破綻します。

 結局のところ、飢饉に遭った貧困農村の女性にとって、採ることが許された選択肢は

   @ 一家で仲良く飢え死
   A 若い女性を被管理売春婦になって、一家全員が行き延びる
   B 若い女性が非管理売春婦になって、一家全員が行き延びる

 しかなかったのです。

 AもBも大差ないように思われるかも知れませんが、Aは利用料の多くを業者に掠め取られる代わ りに、客から不当な暴力を受けたり、殺されたりする可能性は低くなります。 一方、Bは、客から貰っ た対価は全額が自分の物ですが、不当な暴力を受けたり殺されたりする可能性が決して小さくなく、場 合によっては1円もお金を貰えない可能性もあります。

 さて、どれが正解なのでしょう。

 食べ物を煮炊きする鍋まで供出させなければ戦争を継続できなかった日本に、
 「 可哀想な貧困者は国が面倒を看るべき 」
 なんて無茶苦茶な脳味噌お花畑要求は勘弁してくださいよ。

 常識的に考えれば、Aしかありません。

 進んで選ぶべき選択肢でないことは明白です。

 しかし、それでも日本人女性も朝鮮人女性も ( あるいは、その女性の親や夫が ) 断腸の想いでA を選択して、命を繋いだのです。

 もちろん、@を選んだ家庭も少なくなかったでしょう。

 しかし、その家庭は死に絶えて、もう遺族すら存在しません。

 他の誰でもない今の韓国人高齢女性が、こう言っています。

    2014年06月11日 笑 韓 ブログ
   【韓国】BBCが『売春バッカスおばさん』の実態を報道
   http://www.wara2ch.com/archives/7722145.html

   > 派手な口紅とつややかな外出着で飾ったキム・ウンジャさん(71歳・女)が、
   > ソウル・鐘路3街(チョンロ3ガ)の地下鉄駅の階段に座り、通り過ぎる人々に目を通す。
   > 彼女が脇に置いた大きなバッグを動かす度に、冷たいコンクリートの地面に当たって
   > ガラス瓶がガチャッと音を出す。
   > バッグにバッカスを入れて持ち歩くキムさんは、別名=『バッカスおばさん』である。
   >
   > BBC オンライン版では9日、
   > 『売春する韓国のお婆さん(The Korean grandmothers who sell sex)』
   > というタイトルで、バッカスおばさんたちの生活が事細かに報道された。
   > 韓国でバッカスおばさんと言えば、バッカスなどの滋養強壮剤を売りながら生計を立てる
   > 高齢の女性を意味する。
   >
   > この記事を報道したBBCのルーシー・ウィリアムソン(Lucy Williamson)記者は、
   > 「 伝統的に韓国は子供たちが高齢者を扶養する国だったが、これらは昔話になった。
   >  子供たちは自分の老後の準備をする事だけに忙しい。
   >  結果的に一部の高齢女性たちは売春に目を向けるしかなかった 」
   > と指摘した。
   >
   > バッカスおばさんはただ単にバッカスだけを販売しているのではない。
   > 一部は自分の性を一緒に売っている。
   > キムさんは、
   > 「 私はそのような事は1度もないが、 一部ではお爺さんと一夜を共にしてお金を稼いでいる 」
   > と話した。
   > キムさんのようにバッカスだけ売ると1日の儲けは5千ウォンだが、
   > 売春を兼ねると1度に2〜3万ウォンのお金を手に入れる事ができる。
   >
   > 売春が公然と行われる現場は、ソウルの中心部にある宗廟(チョンミョ)公園である。
   > 50〜70代の女性たちは、ここで将棋を打ったり暇つぶしの仕事を探す高齢男性たちに、
   > バッカスを渡しながら近付く。
   > しかし、バッカスの購買は近くにある安ホテルに行くための第一段階なだけである。
   >
   > ウィリアムソン記者が取材した60代の男性は、
   > 「 年寄りも若い男もみんな女を欲しがる。 それが男の心理ダ 」
   > と伝えた。
   > また別の81歳の男性は、
   > 「 我々はここでガールフレンドと出会って付き合う事もある 」
   > と話した。
   >
   > 韓国社会の経済的成功の陰には高齢男性たちの犠牲があった。
   > これらは韓国の経済神話を創造するために働き、そのお金を子供たちに投資した。
   > 儒教社会で成功した子供は、両親の世代に老後保障のための
   > 最高の保険と見なされて来たからである。
   >
   > しかし急速に競争社会に突き進む韓国で、
   > 若い世代はこれ以上親の世代を見るのは難しいと言う。
   > 政府も適切な福祉システムを提供するために孤軍奮闘しているが、限界が続いている。
   > その間、宗廟公園をうろつく男女の高齢者たちは現実的な老後保障と子供もなく、
   > 彼らだけの世界に閉じこめられた外国人に見えるだけである。
   >
   > 韓国高齢者相談センター長のイ・ホソン氏(ソウル・ベンチャー大学教授)は
   > ウィリアムソン記者とのインタビューで、
   > 「 大部分のバッカス女性は新たな形態の高齢者貧困のため、
   >  結果的に売春を始めるようになった 」
   > と分析した。
   > あるバッカス女性はイ教授に、
   > 私はお腹が空いている。 尊敬はいらない。 名誉もいらない。
   >  ただ一日に三度の食事を願う 」
   > と話したという。
   >
   > ウィリアムソン記者は、
   > 「 “凄絶な”韓国経済を成し遂げたお爺さんに食べ物は高価だがセックスは安い。
   >  人の温もりはいかなる価格でもなかなか利用することはできない 」
   > とし、温情に干からびた韓国社会を冷笑的に批判した。
   >
   >
   > ソース:NAVER/CBCノーカットニュース(韓国語)
   > http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=104&oid=079&aid=000 ・・・

 誰だって飢え死にする位なら売春程度の事は我慢します。

 私は、糖尿病で少しばかりの食事制限をしますが、それさえも辛い物です。
 もし、 [ 飢え死 ] or [ ガチムチホモにアナル差し出し ] なら、二つ返事で後者を採ります ( もちろん、 圭坊は Yes Lolita No Touch なロリコン紳士です )。

 サヨクの頭の中で 「 慰安婦は性奴隷 」 だというなら、それはそれで、いわゆる 「 お前がそう言うなら そうなんだろう、お前の中では、な 」 という意味で事実なのでしょう。 

 しかし、当時の貧困層の女性は、そうしなければ生きて行けなかった。

 生活保護はおろか、社会保障すらない時代だった。

 だから、これは誰が悪かったワケでもない ―― 強いて言うなら、立場の弱い者に悪劣な条件を押し 付けて契約させた朝鮮人の業者が悪でしょうが、それさえも、当時としては抜きんでた悪ではありませ んでした ―― そういう時代だったのです。



 明治5年でさえ、この程度の人権感覚はあったのです。
 21世紀に生きる安倍さんたち政治家が、慰安婦が奴隷状態であったことを否認するなんて、
 なんともはや、ため息をつくばかりです。

 

 既に述べた通り、

   > 批判を回避して文明国の体裁を整える必要

 があったから、心にも思っていない言葉を吐いたに過ぎません。



 ところで、明治のはじめにはこんなにまっとうな認識だった日本政府ですが、
 その後に後退してしまいます。
 「 娼妓契約は人身売買ではない、だから娼婦は奴隷ではない 」、
 こう言い始めたのです。
 それがなぜであるかということと、その後退した考えからみても
 慰安婦は性奴隷だったということを、次回に書きます。



 【資料】

 明治 5年10月9日司法省達第22号 第2項

 娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ 牛馬ニ異ナラス
 人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ
 故ニ従来同上ノ娼妓芸妓へ借ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ一切債ルヘカラサル事
 https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q&esrc=s&source=web&cd=10&cad=rja&uact=8& ・・・

 写真は近代デジタルライブラリーより
 残念ながらここに司法省達22号は収録されていません


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